鈴鹿市議会議員 中西だいすけの活動日誌

鈴鹿市議会議員として年齢も含め5期目のベテランになりました。日々の活動や感じたこと、議会での動きなどをつづります。

市民と議員の条例づくり交流会議から

2013年03月22日 19時03分17秒 | Weblog
3月17日、日帰りで東京は法政大学で開かれた市民と議員の条例づくり交流会議に参加しました。講演はもちろんでしたが、その後のワークショップも含めて、いろいろ学ぶことが多く、得るものが多い一日でした。
ご関心のある方、ぜひ会員になりませんか?

市民と議員の条例づくり交流会議

さて、廣瀬先生の講演ですが、資料を見て頂くとお分かりいただけるのではと思います。

まずこれらのパワーポイントの部分を聞いていて考えたことは、議会基本条例がたくさんの自治体議会でつくられ始めているけれども、パイオニア的存在の議会基本条例を制定した議会と、それ以降、議会基本条例をつくる流れということで制定した議会との間で、ギャップが生まれ始めていないかということです。

私個人としても、市民の立場で「鈴鹿市しあわせ環境基本条例」の検討に携わったこと、議員の立場で「すずかの地産地消推進条例」に携わった経験があります。それらを通じて感じ取った感覚から、議会基本条例の制定が増えることはいいことである一方、アクセサリー条例になっているものも多々出てきているのではと感じるのです。

だからこそ、後半部分の内容には非常に納得しました。

特に「踊り場からさらに次のステップへ」という部分は、意を得たりという感覚でした。

現在所属している会派のすずか倶楽部で行った議会報告会を、実際に経験したからこそなおさらです。議会報告会を行うにあたって、報告だけでなく意見交換の場を作ろうと考えたとき、
その場をうまく進行することが必要になってきます。また、意見交換のスタイルがより深まっていけば、そこから考えをまとめる作業も必要になってきます。ファシリテーター的な技能を議員は持つべきと考えるところです。

話を戻してギャップについて、ギャップにはもうひとつあります。
それは議会基本条例を制定した議会においては、今度はそのまちの議会と住民の方々との間に、議会基本条例についてのギャップが生まれているのではないかということです。
議会の側が条例を制定に満足していたとしても、それは「議会のカタオモイ」ではないか、アクセサリーに満足してるだけになってはいないでしょうか。

私は、条例は住民と共有して、なおかつそれが住民にも活用されるものであってはじめて意味があると考えます。

だからこそ、条例は直接請求で「選挙権を有する者は、政令の定めるところにより、その総数の50分の1以上の者の連署をもつて、その代表者から、普通地方公共団体の長に対し、条例(地方税の賦課徴収並びに分担金、使用料及び手数料の徴収に関するものを除く)の制定又は改廃の直接請求をすることができる(74条)。」となっているのでしょうし、条例の制定・改廃の議決は、議会の出席議員の過半数で決定されるものなのだと思います。

住民の方々には陳情や請願という形で議会にアプローチする手法もありますから、議会と住民のギャップを生まないために埋めるためにも、不断に住民の方々と議会と接点を持つことが大切だと考えます。

議会基本条例制定時はもちろんですが、その後も、議会基本条例とそれに続く会議規則や先例についても、住民の方々と虫干しする作業が必要になると考えるところです。その作業をするためにも、議員はコミュニケーションの手法を学ぶ必要があると思います。
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卒業式の言葉

2013年03月22日 17時54分05秒 | Weblog
先だって愛宕小学校の卒業式に出席したのですが、その際、87人の卒業生がこれからの自分のこと、夢などを一言ずつ語ってから、卒業証書を受け取っていました。
多くの子たちは勉強と部活をがんばりたいという話で、それはそれでみんな考えて言葉にしているんだろうなと感じました。卒業式の緊張する中で、一人で言葉に出すことはそれなりの準備も、気持ちも必要だと思うからです。

具体的に聞いた中には、野球で甲子園に出場したい、サッカーでワールドカップに出たい、バレーでオリンピックに出たい、医師、看護士、公務員、自衛官、声優、漫画家、アニメーター、水族館で働きたい、動物園で働きたい・・・などなどあり、「人の役に立ちたい」、「人を笑顔にできるように」という表現と共に、夢を語る子たちが多かったことが印象的でした。

ここで気づかれる方もいらっしゃるのではないかと思いますが、国会議員や市議会議員などのような「政治家」になりたいという子は一人もいませんでした。
このことは、子どもたちの言葉を聞きながら、私たちのような立場の人間は考えなければいけないことではないかと思いました。

もちろん、自分自身がそのようなことを感じさせられない存在であることもあらためて感じるところで、自分自身の反省も多々あるのですが。。。

しかし、国会にせよ地方議会にせよ、見える部分での動きや活動を通じて、子どもたちが「人の役に立ちたい」、「人を笑顔にできるように」ということとつながることだと感じられていないことは、やはり議員は再考すべきことなのかもしれません。

人はどうあれ、自分としては考え直す点です。

子どもたちは、選挙期間を通じてや、卒業式などの来賓としてなどの形で、議員という人たちがいることは知っていると思います。しかし、子どもたちの目に、日本という国、私たちの住むまちのこれからを決めているところだという実感が薄いのではないかと思います。

まして、民主主義を考えるときに、単なる多数決ではなく、少数意見もふくめて議論をして、多数の人にとって、よりよい選択を行う、そのような考えを形成するための場として、議会は認識されていないのではないかと思います。

公開の場で議論をして、論点を明らかにし、そこから意見をまとめ、そして採決して意思決定をする。

この過程をきちんと可視化することが必要なのではないでしょうか。
今も仕組み上はそうなっているということに安住するのではなく、より積極的に公開すべきなのだと思います。

また、子どもたちが政治に目が向かないもう一つの理由として考えられるのは、政治に携わる人に対してのバッシングに似た視線ではないでしょうか。
自分を取り巻く大人の言動や行動から、その場に行くと容赦ない批判や視線にさらされることになると子どもたちが感じ取っているとすれば、子どもたちは政治に携わろうとする選択をするでしょうか。おそらくしないのではないかと思います。

議員バッジをつけることが目的ではなく、世の中をよりよい方向にしていきたいと考える子どもたちが、よりたくさん政治の世界に目を向けてくれるようになることが、地方自治はもちろん、この国を動かす力、変えていく力になると信じています。

そのために今できることをがんばりたいですね
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