痛ましい事件が市内の公園で起こりました。
被害にあった方が回復することを祈るばかりです。
今回、非常に激しい暴力行為が行われたことについて、どうしても暴力行為に関係して交遊関係のあり方などからSNSなどとの関係からの視点からものごとが考えられがちですが、私はすこし違った観点から気になることがあります。
それは二つの言葉になります。
ひとつは「貧困」、もうひとつは「愛着」です。
貧困について、経済的な困窮という意味だけではありません。
先だっての「地方自治と子ども施策 全国シンポジウム」での学び、地域福祉委員会で視察を行った足立区の「あだちプロジェクト」など、今年度の学びのなかで見えた「親からの負の社会的相続」といった部分や、社会的孤立などといった課題も含めたもので考えています。
愛着について、鈴鹿は彼らにとってどんな場所だったのでしょう。
なぜ彼らは現場となった公園を彼らの目的地にしたのか、なぜ鈴鹿だったのかと考えると、彼らの育ちを包んでくれた所とは、彼らに思えていなかったのではないでしょうか。空間や施設などの物理的な面にしても、自分に意味のある人とのつながりの心理的な面でも、彼らにとって意義のある居場所ではなかった。愛着がうまく形成されなかったということが考えられないでしょうか。
その二つのことから考えると、センセーショナルに扱うのではなく、対処療法的な取り組みだけで考えるのではなく、子どもの育ちを包み込むような政策が、鈴鹿市に求められていると思います。
そのとき、「地域づくり」や「地域包括ケア」、「コミュニティスクール」などのつながりを考えるべきです。やはり学校を核にすることが、鈴鹿市に求められていると考えます。