鈴鹿市議会議員 中西だいすけの活動日誌

鈴鹿市議会議員として年齢も含め5期目のベテランになりました。日々の活動や感じたこと、議会での動きなどをつづります。

怖さに向き合う

2020年08月17日 15時41分32秒 | Weblog

新型コロナウィルスについて、私たちは何を怖いと思っているのでしょうか。

 感染することが怖い?見知らぬ誰かに感染させられることが怖い?大切な誰かが感染することが怖い?大切なだれかに感染させてしまうかもしれないことが怖い?感染したら社会的に孤立したり、社会的に迫害を受けることが怖い?重症化することが怖い?自分が死ぬのが怖い?大切な人が苦しむのが怖い?大切な人がいなくなるのが怖い?
 どのようなことに対して、「怖い」であったり不安を私たちは感じているのでしょうか。
 
 三重県と鈴鹿市でいえば、6月までの状況と7月に入ってからの状況は、明らかに感染リスクの状況が変わったことを示していると思いますし、より身近に迫ったということを示していると思います。その状況の中で、私たちはどのようなことを「怖い」と思っているのか、そこを自分自身で見つめる必要がある、3月から考えまだ半年もたっていない短い期間ですが、考える必要があるのではと思います。
 
 考えるにあたって、先に書いたいろいろな「怖い」のうち、感染リスクを抑えるため、ウィルスの拡散を抑えるために、ひとつ方向の違うものがあります。それは「感染したら社会的に孤立したり、社会的に迫害を受けることが怖い?」ということです。これは感染そのものではなく、それに伴う社会の圧力、暴力といっていいものに対する恐怖なのだと思います。この「怖い」が感染者に対する攻撃的な意識の根源にあるのでしょう。自分もそうなるかもしれないという怖さが、感染してしまった人に、犯人探しと仲間外れ的な意識を向けてしまう、排除しようとする言動などにつながるのではないでしょうか。
 
 このような状況の中、差別やいじめ(いじめは、差別の一形態だと私は思います。)と同じ構図が生まれていると思います。いじめで考えると、いじめを主体的に行う子と、いじめの対象になる子がいて、その周りにその場の流れで自分の立ち位置や関係を決める子がいて、取り巻く子たちが自分がいじめの対象にならないよう、いじめる子に対して苛烈に行動することがあります。同じように、感染していない人が感染してしまった人に向ける視線や言動の中には、自分がいじめの対象にならないよう、周囲の声に同調しているのだろうと思います。
 
 このような意識がはたして、新型感染症への対応として良い結果を導くかといえば、決してそのようなことはないように思います。逆に萎縮する空気も生み出し、感染拡大予防に対しても社会活動を行うにしても、マイナス面が非常に大きくなるのではと思います。ですから私たちは「怖い」「恐怖」の中から、「感染したら社会的に孤立したり、社会的に迫害を受けることが怖い?」ということをなくす方向で考え行動することが大切でしょう。
 一方で、自己中心的な理由で感染拡大につながる行動をしたりする人たちについて、意図せず感染してしまった人と同列に考えるつもりはありません。
 
 少し前にメールで意見をしたのですが、現在のところ三重県から発表される感染事例の報告について、書かれている行動歴などからは、どのような地域や場所にリスクがあるのか、どのような行動の感染リスクが大きかったのか、そのようなことがよくわからないと感じました。個人的に思うことですが、感染することが特異だった時期から、いまは社会のどこにリスクが潜んでいるか、身近なところにあるかもしれないという状況になっていると考えられる中で、古い対応のままになってしまっているのではないでしょうか。これは、個人が特定されることにより、差別的な言動や行動で人権侵害となる事例が起こらないようにという配慮なのだとは思いますが、一方で感染情報は出されるけれども、私たちが自分でリスクを考えて行動するには不十分な情報になっていると思います。
 
 このような情報共有にとどまっているのは、おそらく、社会が萎縮した空気にまだ支配されていることの象徴のように思います。ですから、私たちは社会的に制裁に対する「恐怖」を乗り越える必要があって、それができなければ、いつまでも不安に付きまとわれるように思います。感染リスクが特異なものから身近なものへと変化しているいま、その点に配慮した情報公開、情報共有が重要だと考えています。
 
 話を戻して、私たちが「 感染することが怖い。見知らぬ誰かに感染させられることが怖い。大切な誰かが感染することが怖い。大切なだれかに感染させてしまうかもしれないことが怖い。重症化することが怖い。自分が死ぬのが怖い。大切な人が苦しむのが怖い。大切な人がいなくなるのが怖い。 」と考えることは自然な反応と思います。そうであるなら、自分の中にある「恐怖」や「不安」に向かいあって、それを小さくするために私は何をすればいいのか、家族はどうすればいいのか、そのように考えること、それを共有しながらみんなでどうすればいいかを考えることが、感染症対策に大切なことだと思います。
 
 感染に対する「恐怖(怖い)」や「不安(怖い)」に向き合って考えると、住民の方々が自分で判断し行動できるための情報提供と共有、そのうえ持っているデータを地図を使いながら可視化することなどを自治体が行うことを必要なことですし、自治体内の感染リスクを低減するため、薄い膜を張るように自分のまちで生活や社会活動を行うことを住民の方と考え実践することも考えられるのではないでしょうか。
 
 「恐怖」や「不安」に飲み込まれるのではなく、逆に楽観的になりすぎるのでもなく、自分の中の「怖い」という感覚と、他の人の「怖い」という感覚をすり合わせるようにして、私たちが許容できる「怖い」のバランスを考えて、そこからいろいろな対策を考えて実践していくことが大切だと思いますし、そのような視点から、自分はいろいろな考えを発信したり、意見していきたいと考えています。
コメント
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