自分のまちの財政を考えるとき、どうしても国の財政も考えないといけなくなります。それが端的に表れているのは、地方交付税と臨時財政対策でしょう。
地方交付税は総務省の資料で「所得税、法人税、酒税、消費税の一定割合及び地方法人税の全額とされている。地方交付税は、地方公共団体間の財源の不均衡を調整し、どの地域に住む国民にも一定の行政サービスを提供できるよう財源を保障するためのもので、地方の固有財源である。」とされています。
ですが次の図を見て頂くと、地方交付税は実のところ計算通りに交付されておらず、マイナスの差額が出ている状況です。この差額について、“赤字の地方債”と言われることもある臨時財政対策債の発行を行うことで、鈴鹿市の財政運営も行われていたりします。この状況は、“赤字国債”の発行がなければ運営が難しい国の財政の影響があることは否定できないところです。
今回はここまでの内容のことではなく、日本の財政を考えるときに出てくる「リフレ派」や「MMT派」と言われる方の論調を読んでいたりするとき、引っかかりを感じていた部分を考えたいと思います。参考に、公益財団法人NIRA総合研究開発機構が公開している「日本の財政に関する専門家たちの意見」のリンクを貼ります。
公益財団法人NIRA総合研究開発機構:「日本の財政に関する専門家たちの意見」
記事の是非について考えるのではなく、読んでいると「量的・質的な金融緩和政策を実施」という表現や「自国通貨を発行できる政府は、自国通貨建てで国債を発行する限り、財政破綻することはない。」という表現が出てくるのですが、この部分に引っかかりを感じていたのです。
それは、社会の動きは経済理論だけで動くのではなく、私たちの行動や判断も含めてのものではないかということです。
そうして考えたのが、一例として直近の東京オリンピックにおけるお金の動きです。開催費用が約1.7兆円と大きく膨れ上がったことや、その後明るみになってきた談合や汚職などを見ると、国債発行や金融政策を経済学的な視点だけで見るのではなく、そこにどのように人が関わって、どのようなお金の流れになるかも見ないといけないのではということです。
どれだけ国債を発行しても、どれだけ金融緩和を行っても、その恩恵は一部の人に大きく得られるものであったり、不透明なところに流れてしまうものが大きく、格差を助長する方向への力が強いのであれば、そもそもの理論や論理自体の信頼性が問われるものになるのではないでしょうか。
個人的にですが、国の長期債務残高が1000兆円を超えていること、令和5年度予算が110兆円規模になりその中で赤字国債の発行額は約29兆円であること、一般会計の基礎的財政収支は10.7兆円の赤字であることなどについて、政治のあり方が重く問われていると思います。
政治も政策実現のための財源について、国や自治体の財政も踏まえて責任を持って考える必要と、いろいろな理論についての検討と比較、そして、その上での選択に対しての責任意識も問われるでしょう。10年後、20年後、次世代に責任を持たない政治は行うべきではありません。
甘い汁に群がろうとする人たちは、自分たちの行動や行為を正当化するために、あらゆる手段を使って隠したり、また正当化の後ろ盾となる専門家の意見をつくり出すかもしれません。そのような人間の業も考えに入れながら、財政や金融政策を考える必要もあると思います。
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