少し前のフォーラムに参加した際、議員のなり手不足がテーマの一つに上がっていました。それを聞いてその後考えたことです。
たしかに、町村議会や規模の大きな市議会、都道府県議会などでは、選挙区に立候補者がいなく定数割れのところや、無投票のところがあるとは思います。しかしそれが、全国的な議員のなり手不足ということなのかと言えば、そうではないではと考えます。
実際に、近隣の四日市市での市議会議員選挙では、定数に対して相当に多い立候補があったと記憶します。他のところでも同じような選挙区はあるように思います。このように見られる状況は、議員のなり手不足という言葉は当てはまらないのではないでしょうか。
たしかに町村議会などは報酬やその他の経費も低いとは思いますし、それだけでは活動が追い付かないこともあり、議員になる選択は少ないのだろうと考えます。ですが、報酬面だけで選択肢から外れるのでしょうか。
また、選挙に出るとなれば、いろいろなしがらみがあったり、人間関係も絡み合っていたり、実際にお金もかかることになります。それに、議員になると自分だけでなく、周りの人との関係も出てくるし、良く言われるばかりでもありません。
ネットでの書き込みなどをはじめとして、「議員は何もしていない」「議員は不要だ」というようなことは多々見受けられますし、会話の中にも出たりしてはいないでしょうか。ネットは情報として見るだけにとどめられても、実生活の場で、声高にそのように話す人を目にしたり、自分もそのように発言したり、言葉にしなくても同調しているとき、議員になろうとする人がどれだけ出るのだろうと考えます。
視点を変えて「なり手」と一括りに考えていいのか、ということも論点になるのではないでしょうか。
ずいぶん前のことにように感じられますが、政務活動費を不正に受給し、そのことに関する記者会見の場で、“メルトダウン”と表現される状況になった県議会議員の方がいらっしゃいました。その当時は議員でしたので「なり手」だったということですが、結果から見てどうでしょうか。なり手がいないからといって、誰でもよいわけではないと考えます。
そんなこんなを考えていると、ある意味で当たり前といえることに行きつきました。
「まちを良くするために、政治家になる。」のか、「政治家になるために、まちを良くすることを語る。」のか、その見極めも大切になるということです。ただ、はっきり切り分けられるものではないので、実際はどれだけの割合で考えているかということかもしれません。
ただ後者のような場合は、“政治家になれた”ことを持って目的を達成したとなる人もいれば、さらに“大臣になる”や“長とつく役職に就く”ことを目的とし続ける人も出る可能性があるわけで、それは良いのかどうかは、主権者の私たちが問われる部分なのだと思います。
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