リアリティ番組への出演と番組内での行動をきっかけに、SNS上の誹謗中傷で人格否定のような書き込みを受け、悲しいことですが自分で自分の存在を否定することになり、命を絶たれた方のニュースがありました。ずいぶん以前から、ネット上の匿名性を利用した誹謗中傷などの暴力行為については問題になっていたと思います。また、韓国ではタレントが自殺に追い込まれている事例も多くありますし、国内だけでなく海外でもドラマの素材に取り上げられたりしています。そのこともあって、ネット上の匿名の誹謗中傷について、厳しい意見や考え、また法整備で対応するという動きが出てきています。
ネット上の誹謗中傷を直接経験した方も多いでしょうし、潜在的にその不安を持っている人も多いでしょうし、義憤のような思いを感じている人も多いと思います。それが今回の事例で大きな流れにつながったのでしょう。
しかし、少し視点を変えると違った側面が見えると思います。
ひとつは、インターネットとそれを利用するための機器について、そのどちらも便利であるし、ほぼ今の生活に欠かせなくなっていると思いますが、実際は「刃物」や「火」のように、便利ではあるけれど扱い方次第で非常に危険な側面がある、自分だけではなく他人も傷つけるものだという意識が希薄になっていないかということです。
だからデマが急速に拡散するのではないかと思います。仮に正しい情報だったとしても、その影響がどのようなものがあるかを考える前に、メールやメッセージを拡散してしまうのだろうと思います。自分は義憤に駆られて行動したかもしれないけれども、結果として、実は無関係の人に負の影響があったかもしれない、そのことで傷ついた人がいる可能性があることに思いをはせることが必要だと思います。
もうひとつは、自粛警察という言葉もありますが、今の社会の中に他人を糾弾してもよいという空気が充満しているのかもしれないということです。これにはいろいろな要素が絡み合っていて、どれか一つということにはならないと思います。ただ言えることは、他者に対する共感力のようなものが希薄になっているからではないでしょうか。さらに、許容する幅もかなり狭くなっていることが、ぎすぎすとした空気と、実際に摩擦を起こす原因にあると思います。
このような社会状況になってきた背景には、チャンネルをどこに変えてもテレビの情報番組などでは、重箱の隅をつつくように人のことを突き、場合によってはそのような権利を持つわけではないのに、あたかも社会が糾弾するかのように、人を責めるということが日常化してしまっていることが影響していないでしょうか。もちろん、薬物の濫用や反社会的行動などは別ですが、あくまで個人間の課題であることまで、社会として断罪しないといけないという空気を醸し出すことが多いように思います。
メディアリテラシーについても、私たちは自分の考えに近い情報が目につきやすいですし、ネット上ではそのように情報が整理されて提示されてきたりするなど、多様な視点を得にくい状況になっていると思います。それは、他の視点や意見に対して不寛容になりがちな傾向を作り、書いたように他人を糾弾してもよいという空気の一部になっていると思います。
このようなことが積み重ねられる中で、今回の事案で注目されたリアリティー番組という領域でもそうですが、いつの間にか、私たちは他人の対立を見たり、他人が傷ついたりすることを見ることに慣れてしまってはいないでしょうか。
といろいろ書きましたが、今回の事案は、いじめによる自殺問題と根は同じだと思います。
ですから、私たちは象徴的な部分にだけ目を向けるのではなく、社会全体を見ることだと思います。その視点から問題に取り組まなければ、同じようなことは形を変えて何度も繰り返されることに違いありません。
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