日本の国はここがおかしい

将来の希望を失いつつある日本。国民が安心して生活できる国になるにはどうすればいいか

階級社会日本の最下層を構成する非正規労働者階級

2018-02-06 11:25:46 | 日本社会
日本社会の貧富の格差は、努力次第で挽回が可能な格差ではなく、固定化された階級である、との見解が少しずつ広まっている。

それはかなり事実をついていると断じざるを得ない。

日本社会は欧米や中国等と比較しても起業は難しく、労働者から企業家として成功する道は閉ざされてはいないがかなり狭い。

しかしながら、サラリーマンとして一流企業に就職し出世すればかなりの報酬と安定した生活を得ることができ、出世すれば経営層に入ることも不可能ではない。さらに中小企業であっても正社員として就職すれば、生活できる賃金と退職金・年金を得ることができ、資本家と労働者といった階級的格差を感じることは少なかった。

ところが今日本では負け組であり、その子もまた負け組になる可能性の高い層が生まれつつある。

それが非正規労働者である。同じ労働者といいながらも正規社員の平均年収487万円に対し非正規社員の平均年収は172万円にすぎない。

正社員については安定した地位と賃上げもあるが、非正規社員については雇用も安定せず、賃上げの恩恵も受けにくい。退職金が無いのは勿論、健康保険や年金面でも正社員との間に大きな格差のある者が多い。

少ない給与と不安定な雇用の為、結婚できない者も多く、結婚でき子供を持てたとしても十分な教育を与えることは難しく、その子もまた貧困から脱出することが難しくなっている。働けなくなった老後はさらに悲惨であり十分な年金が期待できない為生活保護に依存せざるをえなくなる可能性が高い。

これはあたかも階級闘争華やかなりし時代の労働者階級の悲哀そのものである。

一旦落ち込んだら孫子の代でも貧困の連鎖から脱出できない。非正規労働者の増加は正に新たな被搾取階級の誕生である。

今の日本経済は非精機労働者という名の新たな貧困階級の奴隷的労働に大きく依存している。労働者不足と言われながら、一向に非正規労働者の生活が豊かにならないのことが、非正規労働者階級の真の姿を証明している。

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仮想通貨は投機商品から本来の通貨に脱皮できるか

2018-02-05 10:23:58 | 投資
去年の12月8日の記事で、ビットコインの暴落は近いと書いたが、今年に入ってすぐにそれは現実のものになった。

ピークの230万円に対し、現在80万から90万程度をうろうろしているので、暴落の定番である半値八掛けまでは達したことになる。

株なら倒産しない限りこのあたりが底になる。nemについては盗まれたことで財産が無くなったと騒いでいるが、ビットコインに投資していた人は盗まれなくても半分程度財産を失ったことになる。

仮想通貨を現行通貨のライバルと考えれば、送金の速さや手数料の低さ、国の政策や信用の影響を受けないこと等のメリットがある。

しかし、現在のように価格変動が大きくては、決済手段として保有することはリスクが多きすぎる。その意味で現在の値動きを続けている限り仮想通貨は現行通貨の代替にはなりえない。

現在、仮想通貨は投資商品として買われているのがほとんどである。金や株式と仮想通貨を投資商品として比較した場合、決定的な違いは仮想通貨には本来の価値とになる尺度がないことである。

株価の根底にはPBRがあり、金には採掘費用がある。ビットコインについても採掘費用がかかり、これが価値のベースとなっている。

しかし、1トロイオンス当たりの金の採掘費用が900ドル程度で販売価格は1350ドル前後であるのに対し、ビットコインのマイニングコストは1000ドル程度と言われており、現在価格の8000ドル前後と比較しても低すぎる。

通貨であれば紙幣の製造コストと流通価値の乖離は当然であるが、投資商品として見た場合この乖離は他の投資商品と比較し異常である。

仮想通貨がこのまま価格を安定させ通貨としての役割が増せば今の価格を維持できるだろうが、価格変動を続け投資商品でありつづけるとすれば、マイニングコストの1.5場から2倍程度が妥当な価格だろう。

何時の時代のどんな商品でもそうだが、上がるから買う、買うから上がるというサイクルを描く投資商品は必ず暴落し本来の価値にさや寄せする。
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家制度の下では不倫は罪だが、個人重視の男女平等社会では愛情も無いのに夫婦でいることが罪では

2018-02-02 09:55:57 | 日本社会
小泉今日子が不倫関係を明らかにした。去年からマスコミは不倫ブームで常識と正論を武器に当事者を厳しく糾弾してきた。

しかし、当事者の問題である不倫は何故それほど厳しく杞憂断され白日の下にさらされねばならないのだろうか。

歴史的に見れば、それは過去の家制度の遺物に他ならない。家の存続と血統の正当性を至上命令とする家制度においては不倫、特に妻の不倫は絶対に許されないことであった。

現在の不倫報道でも男性の不倫より女性の不倫の方がより厳しく糾弾されるのはその名残りであろう。

しかし、家制度というものがなくなり、個人重視、男女平等の社会において、不倫がそれほど糾弾される理由はないように思う。

夫婦というものが平等な男女の愛情と合意の下に成立するものとすれば、一方の愛情がなくなれば夫婦関係を解消するのが本来である。

ただの浮気としての不倫ならともかく、夫婦の一方が本気の不倫をしているとすれば、既に夫婦間の愛情はなくなっいると考えられる。

とすれば、愛情が無く他に好きな相手がいるのに夫婦関係に縛り付けようとする方が不自然で不道徳である。

不倫については裏切りという批判が良く聞かれるが、愛しあって結婚したからといって永遠に愛し続けるとは限らない。途中で気が変わることは人間として当然ありうることである。それを裏切りといって批判する方がおかしい。

絶えず愛情をはぐくんでいなければ、最初に愛があったからといって何時までも続くものではない。

愛もさめているのに夫婦関係に固執するのは、結局のところ金銭的な損得関係にすぎない。離婚してしまえば経済的に現状の生活を維持できない女性(現在のところ女性の方が多い)が多いからである。

男性から女性に支払われること多い慰謝料もそうである。真に男女平等ならば慰謝料などは発生しない。例え一方に何の落ち度がなかったとしても夫婦の愛情がなくなったのは双方の責任であり、そこには慰謝料の発生する余地はない。現在では慰謝料は男女平等とはいいながら、実際のところ自分では生活できない女性に対する経済補てんの役割を果たしている。

個人重視、男女平等社会においては夫婦関係は互いの愛情のみによって成立すべきであり、愛情がなくなれば何のトラブルも金銭的な負担もなく解消されるべきものである。

その為には国家が第一義的に子供の養育責任を負うことが不可欠である。


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努力すべきか、あきらめるべきかは人生を左右する重大な岐路

2018-02-01 13:45:37 | 日本社会
日本人は努力が好きである。一種の努力信仰ともいえるものが存在している。あたかも努力さえすれば何でもできるかのようである。

しかし、現実は努力してもどうにもならないことの方が多い。努力しても誰もが一流のスポーツ選手や芸術家になれないことは誰の目にも明らかだが、それでもスポーツや音楽等で一流になるべく頑張っている者を見ると、もっと頑張れ君ならできる、というような無責任な励ましをしてしまう。

勉強においては特にである。勉強ができないのは努力していないからだ、とばかりに努力しろと叱咤激励する。

しかし、世の中には勉強に向かない者も存在することは否定できない事実である。しかし、勉強に向かなくても他のことには向くことは多い。

自殺しようとする者に対し、死ぬ気になって頑張れば何でもできる、と説得するのをドラマ等で見ることがあるが、これほど空虚な言葉はない。できないことは死ぬ気になってもできないのである。

大切なのは無暗に努力することではなく、自分が好きでかつ可能性のある分野を見つけ、その目標実現の為に努力することである。

素質の無い分野に対してはどんなに努力しても結果的に時間の浪費か中途半端に終わるだけである。

その時々で他人の人生の指導的立場にたつ者は、ただ努力しろと叱咤激励するのではなく、相手の目指すべき分野を決定する為の補助ができるよう心掛けるべきだろう。


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