九州国立博物館「三国志」展を観た後は、連絡通路を通って太宰府天満宮へ。この通路は、照明の色が刻々と変わることから、「🌈虹のトンネル」と名付けられています。
虹のトンネルの天満宮側の入口です。背後の丘陵地をエスカレーターで上り、更に動く歩道で進んだ先に九博がある訳ですが、その一帯は全て太宰府天満宮の敷地なんだそうです。
表参道の銅製の御神牛。天神様(菅原道真公)のお使いとされる牛の頭を撫でると知恵を授かるという言い伝えがあるため、御神牛の頭部は金色に輝いています。体の悪い部分を撫でると恢復するとも言われているので、肩や肘、お腹や足もうっすらと色が変わっていますね。
心字池に架かる3本の橋(真ん中のみ平橋で、残りは太鼓橋)は、参道側から「過去」、「現在」、「未来」を表しており、これらの橋を渡ることで過去から未来までの邪念を捨て、池の水の上を通ることで心身を清めて、神様のもとへ向かう準備を整えるという意味があります。
また、多くの神社で見られる太鼓橋は、人間と神の世界の境界を明白にし、容易に入れないようにするための橋なのだそうです。
入母屋造りの楼門を通って境内へ。屋根は二層に重ねられ、威風堂々とした楼門です。
広々とした境内。あいにくの天候でしたが、お陰でいつもより観光客が少なく、ゆっくり参拝できました。
元々は道真公の墓所だった場所に造営された本殿。檜の皮を竹釘で留めた檜皮葺(ひわだぶき)の屋根の前部に唐破風(からはふ)が設けられた豪華な造りです。
道真公を慕って京の都から一夜にして飛んできたと伝えられる飛梅。
この梅は太宰府天満宮で一番の早咲きなので、あと一カ月もすれば枝一杯の花を咲かせてくれるでしょう。
ちなみに、道真公が都を離れる際に詠んだ歌の第5句には、次の二つのバージョンがあるそうです。
私はずっと「春な忘れそ」だと思ってきたのですが、第5句は文献によって異なり、『拾遺和歌集』(平安前期)や『大鏡』(平安後期)、『源平盛衰記』では「春を忘るな」、『宝物集』(平安末期)、『十訓抄』や『古今著聞集』『延慶本平家物語』『太平記』などでは「春な忘れそ」としているとのこと。こうなってくると素人では判断がつきませんが、文学史家の研究では「春を忘るな」の方が道真公オリジナルではないかと考えられているようです。
「春な忘れそ」には古典的な響きがあり禁じ方が強い印象を受けますが、「春を忘るな」には道真公と気心を通じた梅に語りかけるような雰囲気が感じられますね。結局、どちらでも好みの方が正しいと思っておけば良さそうです(笑)
トリミングで拡大したので見にくいですが、天満宮の説明版では「春な忘れそ」となっていました。こんなことなら、もっとアップで撮っておけばよかった………… (^-^)ゞ
本殿側から見た楼門。屋根が一層となっており、外側とは印象が違いますね。
境内の小さな御神牛。触られすぎて角が片方折れていました。
初めて、宝物殿の中に入ってみることに。
宝物殿にも御神牛が飾られていました。道真公と牛には、切っても切れない縁がありますね。
中央は、飾金具をつけた銅板に描かれた『板絵菅公像(複製)』。
右下は、菅原道真公の御佩刀(みはかし:貴人の腰に帯びた刀を敬ったいい方)『毛抜形太刀』で、国の重要文化財に指定されています。
左下は、道真公直筆と伝えられる『紺紙金字法華経(巻一)』と遺品の『龍牙硯(りゅうげのすずり)』
鋭く均整のとれた筆致で書かれた『紺紙金字法華経』は全8巻。道真公は、法華経や観音信仰に深く帰依していたと伝えられています。
室町時代に描かれた『束帯天神像』(中央)の右上部に貼られた色紙には「東風吹かば............」の和歌(ここでは「春を忘るな」)。
右は『菅公幼童観梅詠歌図』で、道真公が5歳で初めて和歌を詠まれた時の様子を描いたもの。
奉納された刀剣類も数多く展示してありました。
730年(天平2年)、九州全域の政治経済・軍事・外交を取り仕切る太宰府政庁の長官として赴任していた大伴旅人が開いた梅花の宴。万葉集第5巻、梅の花を題材に32首の歌が詠まれたこの宴の序文に、「令和」の由来となった「時に、初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす」の一文が記されています。
道真公は丑年生まれで、亡くなったのも延喜3年(903年)2月25日の丑の日。何故か牛がよく懐き、道真公もまた牛を可愛がったこと、都から大宰府に出発する道真公が刺客に襲われたとき、可愛がっていた牛が角で刺客を突き刺して救ったことなど、道真公には牛にまつわる故事・伝承が数多く残されています。なかでも、亡くなった道真公のご遺体を太宰府政庁から牛車で運んでいたところ、牛が伏して動かなくなった場所に埋葬され、後にその場所に太宰府天満宮が造営されたという史実は、道真公と牛の繋がりを最も雄弁に物語っています。そのようなことから、太宰府天満宮には多くの御神牛が奉納されており、全部で11体(宝物殿も合わせると12体)あるそうです。 私は探したことはないのですが、今度行ったときにはそのうちのいくつかは見つけてみたいと思います。
虹のトンネルの天満宮側の入口です。背後の丘陵地をエスカレーターで上り、更に動く歩道で進んだ先に九博がある訳ですが、その一帯は全て太宰府天満宮の敷地なんだそうです。
表参道の銅製の御神牛。天神様(菅原道真公)のお使いとされる牛の頭を撫でると知恵を授かるという言い伝えがあるため、御神牛の頭部は金色に輝いています。体の悪い部分を撫でると恢復するとも言われているので、肩や肘、お腹や足もうっすらと色が変わっていますね。
心字池に架かる3本の橋(真ん中のみ平橋で、残りは太鼓橋)は、参道側から「過去」、「現在」、「未来」を表しており、これらの橋を渡ることで過去から未来までの邪念を捨て、池の水の上を通ることで心身を清めて、神様のもとへ向かう準備を整えるという意味があります。
また、多くの神社で見られる太鼓橋は、人間と神の世界の境界を明白にし、容易に入れないようにするための橋なのだそうです。
入母屋造りの楼門を通って境内へ。屋根は二層に重ねられ、威風堂々とした楼門です。
広々とした境内。あいにくの天候でしたが、お陰でいつもより観光客が少なく、ゆっくり参拝できました。
元々は道真公の墓所だった場所に造営された本殿。檜の皮を竹釘で留めた檜皮葺(ひわだぶき)の屋根の前部に唐破風(からはふ)が設けられた豪華な造りです。
道真公を慕って京の都から一夜にして飛んできたと伝えられる飛梅。
この梅は太宰府天満宮で一番の早咲きなので、あと一カ月もすれば枝一杯の花を咲かせてくれるでしょう。
ちなみに、道真公が都を離れる際に詠んだ歌の第5句には、次の二つのバージョンがあるそうです。
東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ
東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな
東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな
私はずっと「春な忘れそ」だと思ってきたのですが、第5句は文献によって異なり、『拾遺和歌集』(平安前期)や『大鏡』(平安後期)、『源平盛衰記』では「春を忘るな」、『宝物集』(平安末期)、『十訓抄』や『古今著聞集』『延慶本平家物語』『太平記』などでは「春な忘れそ」としているとのこと。こうなってくると素人では判断がつきませんが、文学史家の研究では「春を忘るな」の方が道真公オリジナルではないかと考えられているようです。
「春な忘れそ」には古典的な響きがあり禁じ方が強い印象を受けますが、「春を忘るな」には道真公と気心を通じた梅に語りかけるような雰囲気が感じられますね。結局、どちらでも好みの方が正しいと思っておけば良さそうです(笑)
トリミングで拡大したので見にくいですが、天満宮の説明版では「春な忘れそ」となっていました。こんなことなら、もっとアップで撮っておけばよかった………… (^-^)ゞ
本殿側から見た楼門。屋根が一層となっており、外側とは印象が違いますね。
境内の小さな御神牛。触られすぎて角が片方折れていました。
初めて、宝物殿の中に入ってみることに。
宝物殿にも御神牛が飾られていました。道真公と牛には、切っても切れない縁がありますね。
中央は、飾金具をつけた銅板に描かれた『板絵菅公像(複製)』。
右下は、菅原道真公の御佩刀(みはかし:貴人の腰に帯びた刀を敬ったいい方)『毛抜形太刀』で、国の重要文化財に指定されています。
左下は、道真公直筆と伝えられる『紺紙金字法華経(巻一)』と遺品の『龍牙硯(りゅうげのすずり)』
鋭く均整のとれた筆致で書かれた『紺紙金字法華経』は全8巻。道真公は、法華経や観音信仰に深く帰依していたと伝えられています。
室町時代に描かれた『束帯天神像』(中央)の右上部に貼られた色紙には「東風吹かば............」の和歌(ここでは「春を忘るな」)。
右は『菅公幼童観梅詠歌図』で、道真公が5歳で初めて和歌を詠まれた時の様子を描いたもの。
奉納された刀剣類も数多く展示してありました。
730年(天平2年)、九州全域の政治経済・軍事・外交を取り仕切る太宰府政庁の長官として赴任していた大伴旅人が開いた梅花の宴。万葉集第5巻、梅の花を題材に32首の歌が詠まれたこの宴の序文に、「令和」の由来となった「時に、初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす」の一文が記されています。
道真公は丑年生まれで、亡くなったのも延喜3年(903年)2月25日の丑の日。何故か牛がよく懐き、道真公もまた牛を可愛がったこと、都から大宰府に出発する道真公が刺客に襲われたとき、可愛がっていた牛が角で刺客を突き刺して救ったことなど、道真公には牛にまつわる故事・伝承が数多く残されています。なかでも、亡くなった道真公のご遺体を太宰府政庁から牛車で運んでいたところ、牛が伏して動かなくなった場所に埋葬され、後にその場所に太宰府天満宮が造営されたという史実は、道真公と牛の繋がりを最も雄弁に物語っています。そのようなことから、太宰府天満宮には多くの御神牛が奉納されており、全部で11体(宝物殿も合わせると12体)あるそうです。 私は探したことはないのですが、今度行ったときにはそのうちのいくつかは見つけてみたいと思います。