Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

プライムたちの夜

2017年11月08日 | 演劇
 新国立劇場の演劇公演「プライムたちの夜」の初日が明けた。作者のジョーダン・ハリソンは1977年生まれのアメリカ人。本作は2014年にロサンジェルスで初演。その後ニューヨークでも上演され、映画化もされた。

 プライムとは人工知能をもつロボットのことのようだが、この定義で正しいかどうか、自信がない。人工知能とかロボットとか、公演プロモーションで使われているアンドロイドとかいう言葉にはまったく疎いので、公演を観てとりあえずそう思ったという程度の定義。

 そのプライムに亡き夫ウォルターの情報をインプットし、昔話を楽しむ85歳のマージョリー、その娘テスと夫のジョン、以上の4人(ウォルターのプライムも1人とカウントする)が登場人物。時は2062年(作者の生年1977年+マージョリーの年齢85歳=2062年)の近未来劇。

 なんといっても、マージョリーを演じる浅丘ルリ子が注目の的。美しくもあり、可愛くもあり、また大女優の風格も漂う。認知症の兆しが見える母マージョリーに苛立つテスを演じる香寿たつき(こうじゅ・たつき)は、その苛立ちが今一つ分かりにくいが、それは台本のせいかもしれない。

 テスの夫ジョンを演じる相島一之(あいじま・かずゆき)は、人のよさを醸し出して味のある好演。ウォルターのプライムを演じる佐川和正(さがわ・かずまさ)は、マージョリーと会話をしているが、じつは人間ではない存在を演じて絶妙。本物のプライムのように見えた。

 プライムが家族の一員になった生活は、正直、気味が悪いが、その気味の悪さをきちんと滲ませた宮田慶子の演出もよかったと思う。

 というわけで、面白かったのだが、不満がなかったわけでもない。プライムが家庭の中に入ってくるという設定は興味深いが、だからこそ、もっとストーリーに発展の余地があったのではないかと想像され、(具体的な台詞の引用は控えるが)人を愛することを称える結末は、陳腐で平凡で、こじんまりと収まってしまった感がある。

 なお、テロリストが置かれた状況を描いた「負傷者16人―SIXTEEN WOUNDED―」から始まった海外の現代戯曲を紹介するシリーズは、本作で終了。全5作、どれも面白かった。また同様の企画を願いたい。
(2017.11.7.新国立劇場小劇場)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トロイ戦争は起こらない

2017年10月10日 | 演劇
 ジャン・ジロドゥ(1882‐1944)の芝居「トロイ戦争は起こらない」(1935年初演)。ドイツではヒトラーが政権を握り、ドイツとフランスとの開戦が避けられない状況になっていた時期の作品。トロイ戦争に仮託したジロドゥの想いは何だったか。

 一番印象的だった場面は、幕切れ近く、トロイ側の王子エクトールとギリシャ側の知将オデュッセウスとが2人きりで会談する場面。開戦回避の道を必死になって模索するエクトールと、開戦必至との状況判断を持ちながらも、エクトールの努力に賭けてみようとするオデュッセウス。その場面は、今の北朝鮮とアメリカをめぐる状況を連想させ、妙にリアルだった。

 結局トロイ戦争は起きた。それは歴史的な事実だが、本作ではそのきっかけとなるものが、これまたリアルだった。いつの時代でも、戦争を起こしたがる者がいて、そのような者は、戦争を起こすために、なかったことをあったことにする(場合によっては、その逆も)。それが象徴的に示される。

 初演当時のパリの観客は、本作をどのような想いで観ただろうか。ペシミスティックな想いか。人間の愚かさへの想いか。それとも、本作には登場しないが、不和と争いの女神エリスの暗躍を想ったか。

 先ほども触れたが、今の状況では妙にリアルに感じられる本作だが、今回の公演はわたしには少々‘直球’すぎた。そう感じたのは、わたしの観た公演が、役者のテンションが上がりがちな初日の公演だったせいかもしれないが。

 今思い返してみると、本作には細かい対比が組み込まれている。その中心にあるものは「エクトールとその妻アンドロマック」と「トロイの人々」との対比だが、それ以外にも、トロイの王女カッサンドルが見る「未来」とギリシャのスパルタ王妃エレーヌが見る「未来」との対比、アンドロマックとエレーヌとの人物像の対比等々。

 それらの対比をさらに鮮明に打ち出す余地があったかもしれない。少なくとも初日は、エクトール役の鈴木亮平とアンドロマック役の鈴木杏の力演が、オデュッセウス役の谷田歩を除いて、他を圧し気味だった。

 音楽と電気ヴァイオリン演奏の金子飛鳥は、幕開き直後、会話劇から内心のモノローグに移行する場面に音楽を入れ、その効果にハッとしたが、以降は情緒的に盛り上げる例もあり、かならずしも厳密なものではなかった。
(2017.10.5.新国立劇場中劇場)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

怒りをこめてふり返れ

2017年07月29日 | 演劇
 ジョン・オズボーン(1929‐1994)の演劇「怒りをこめてふり返れ」(1956)は、わたしが大学生の頃は(1971~1975)すでに伝説的な作品だった。時代はその先を模索していた。わたしは「怒りをこめて…」を読みもせず、時代の荒波に流されていた。

 就職してからは、文学から遠ざかり、演劇を観る余裕もなく、音楽だけを続けていた。そんなわたしが、定年の3年前に早期退職し、第2・第3の職場で働く今、青春の記憶が宿るこの作品に出会うことに、一種の感慨があった。

 わたしは緊張した。どういうわけか、60歳代の半ばになって、この作品に出会うことに緊張した。いきなり舞台を観るのは恐かった。戯曲はすでに絶版になっているので、古本を買って読んでみた。

 わたしは圧倒された。主人公の若者ジミーが、妻のアリソンにむかって絶え間なく悪態をつくことに辟易した。今の感覚なら、アリソンはとっくのとうに家を出て行くだろうに、そうしないのはなぜだろうと思った。物語の展開はあるのだが、ジミーが(主にアリソンにむかって、やがて他の人にも)悪態をつくことに変わりはない。

 ジミーの怒りが、実の所、イギリスの根強い階級社会(今もそうだといわれている)にむけられていること、また戦後10年あまりたって、‘正義’を喪失した時代にむけられていることはよく分かったが、それが今の日本とどう関わるかは、見当がつかなかった。

 そんな状態で舞台を観た。第一印象は、意外に喧騒と静寂との対比があるということだった。ジミーがつく悪態の、嵐のような騒々しさと、それが一息つくときの静けさとが、鮮明な対比を成していた。それは音楽的でさえあった。

 感じたことの第二は、この作品は現代の日本社会に通じるかもしれないということ。ブラック企業に働く若者たちの多くは、わたしを含むリタイア世代に、「あの連中はいい思いをしている」と反感を持っているかもしれない。この作品は、図らずも、現代社会に潜在する‘怒り’に触れる可能性がある。

 だが、それにしては、最後が甘いと思った。ジミーとアリソンとの愛の蘇生の物語はよいのだが、あまりにも甘く、メロドラマ風に収斂しはしなかったろうか。2人の(心理的な)距離のとり方に、もう一工夫の余地はなかったかと思う。

 ジミー役の中村倫也とアリソン役の中村ゆりの演技には、繊細な感性が感じられた。
(2017.7.26.新国立劇場小劇場)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

君が人生の時

2017年06月22日 | 演劇
 ウィリアム・サローヤン(1908‐1981)の芝居「君が人生の時」を観た。最近は夜遅くなるのが‘しんどくなった’ので、半休を取ってマチネー公演に行った。そうしたら、驚いたことには、観客の大半(割合としては95パーセントくらいか)は女性客だった。しかも場内はほとんど満席。そのため4箇所ある1階のトイレの内、3箇所は女性用に開放されていたが、それでも長蛇の列。一方、男性用はガラガラ。

 なぜそんなに女性客が入るのか。わたしには見当もつかない。人気俳優が出ているのかもしれない。ともかく興行的には(少なくともこの公演を見る限りでは)大成功だろうと推測した。

 時は1939年。この芝居が初演された「今」の話だ。場所はサンフランシスコの場末のバー。そこに多くの人々がたむろする。みんなそれぞれの人生を抱えている。それらの人々がこのバーでひと時を過ごす。これは一種の群像劇だ。

 1939年といえば、ヨーロッパ大陸では第二次世界大戦が勃発していた。劇中でも「タイム」だったかの雑誌を読んで、ナチス・ドイツのチェコスロヴァキアへの侵攻が話題に上る場面がある。もっとも、世界情勢への直接的な言及はそれくらい。あとはサンフランシスコの場末で生きる人々の喜怒哀楽が綴られる。

 だが、初演当時この芝居を観た人々には、劇場の外の緊迫した情勢はひしひしと感じられていただろう。それを感じつつ、やがて自分たちが巻き込まれるだろう事態の予感で緊張しながら、一時の小春日和のような気持ちでこの芝居を観ていたのではないか。それは明日にも失われるだろう平和への愛惜であったかもしれない。

 だが現代の、それも日本で上演するとき、この芝居はどういう意味を持つだろう。日本だって、明日はどうなるか、分かったものではない。でも、まだ、少なくとも表面的には‘平和’といえる状態だろう。そのためなのか(演出もその一因か)、芝居の世界と外の世界との緊張関係は生まれなかった。

 のんびりした雰囲気が漂う場内にいて、これは一種のエンタテイメントと考えればよいのかもしれないと、わたしは思った。登場人物が類型的に感じられたが、それは原作のせいなのか、あるいは演出のせいかは、よく分からなかった。

 なお、かみむら周平のピアノとRON×Ⅱ(ろんろん)のタップダンスが楽しかった。
(2017.6.20.新国立劇場中劇場)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マリアの首 ―幻に長崎を想う曲―

2017年05月24日 | 演劇
 30代の演出家3人が昭和30年代の戯曲を演出する「かさなる視点 ―日本戯曲の力―」シリーズの最終回。小川絵梨子が演出する田中千禾夫(ちかお)の「マリアの首 ―幻に長崎を想う曲―」。1959年(昭和34年)の作品だ。

 原爆によって廃墟となった浦上天主堂を保存すべきか、取り壊して建て直すべきかで揺れていた時代を背景に、長崎の底辺で生きる人々の苦しみを描いた作品。原爆が人々に濃い影を落とす。戦後日本はこれらの人々にどう向き合ったのか。それとも、放置したのか、という問いが、今これを観るわたしの中で堂々巡りする。

 鈴木杏(あん)が演じる鹿(しか)は、苦しみを抱えて悶々とする女。伊勢佳代が演じる忍(しのぶ)は、鋭利な殺意(=復讐心)を秘めた女。撚り合された2本の糸のような主人公たちだ。

 乳飲み子を抱いて夫(あるいは同棲者)の桃園(ももぞの)の前に現れる忍の姿は、幼子イエスを抱いた聖母マリアのように見えた。計算された効果だったのだろうが、わたしはハッとした。この芝居の象徴的なイメージが焦点を結ぶのを感じた。

 深夜に真っ白な雪が降り積もる浦上天主堂の廃墟の前で、地面にうずくまって黒く焼け焦げたマリアの首にすがろうとする鹿は、苦しみの限界を超えて、狂気のような目をしていた。そのときマリアの声が聞こえる。鹿を慈しむマリアの声。わたしは思わず涙が溢れた。久しぶりのことだった。

 原爆で苦しむ人々を見ているうちに、本作は、図らずも、今の時代への警告の意味を帯びているように感じた。近隣国でブラフ(脅し)合戦がエスカレートしている状況にあって、3度目の核が使われない保証はない。それはどこか。今度もまた日本だという可能性もないではない。

 「かさなる視点 ―日本戯曲の力―」シリーズは、前2作が日本の保守層・支配層を描いた作品だったのに対して、今回は庶民、それも社会の底辺で生きる人々を描いた作品である点で対照的だ。わたしは今回初めて感情移入ができた。

 小川絵梨子の演出は、しなやかで、しかも芯の強い感性が感じられた。以前の「OPUS/作品」もよかった記憶がある(もっとも「星ノ数ホド」には魅力を感じなかった。でも、それは作品のせいだろう)。新国立劇場演劇部門の次期監督に選ばれたときには(まだ30代の若さなので)驚いたが、案外したたかな人かもしれない。
(2017.5.23.新国立劇場小劇場)
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

城塞

2017年04月27日 | 演劇
 新国立劇場の演劇部門のシリーズ「かさなる視点―日本戯曲の力―」第2弾、安部公房の「城塞」を観た。

 同シリーズは3人の30代の演出家が昭和30年代の戯曲を演出するもの。敗戦後10数年たった当時の劇作家は戦争や日本をどう捉えていたのか。どんな問題を考え、どう表現していたのか。また、当時から50年以上たった今、なにが克服され、なにが未解決で残っているのか‥を問うシリーズ。

 もっとも、同シリーズは、企画段階では3人の30代の演出家というだけだったが、それら3人の演出家が選んだ戯曲が昭和30年代の戯曲だったそうだ。昭和30年代に3人の興味が向かったことには、なにか意味があるのだろうか。ともかく昭和30年代の戯曲が揃ったことで、同シリーズのコンセプトが明確になった。

 「城塞」は昭和37年(1962年)の作品。「国家とはなにか」と問いかける芝居は、今の時代から観ると生硬な感じがしないでもないが、生硬という言葉で済ますにしては、その問いかけは今も未解決だ。

 演出は1979年生まれの上村聡史(かみむら・さとし)。同氏の演出は2014年に同劇場が上演したサルトルの「アルトナの幽閉者」を観たが、それもディテールが丁寧に表現され、しかも焦点が合った好演出だった。今回も同様だ。

 登場人物は5人。「男」の山西惇、「男の妻」の椿真由美、「男の父」の辻萬長、「従僕(八木)」のたかお鷹、「若い女(踊り子)」の松岡依都美の5人は、いずれもこれ以上は望めないと思われる役者ばかりで、密度の濃い演技を繰り広げた。

 「男の父」は満州で企業経営に成功したが、敗戦直後の満州からの引き揚げの時点で記憶が止まり、今は認知症になっている。「男」は戦後、父の会社を引き継ぎ、大企業に成長させた。「男の妻」は「男」が父を入院させずに、邸内で世話していることに苛立つ。邸内では「男の父」のために、満州からの引き揚げを再現する演技が繰り返されており、亡くなった妹の役のために「若い女(踊り子)」が雇われる。

 牢獄のような下の部屋から現れる「男の父」は、オスカー・ワイルドの戯曲(あるいは同戯曲に基づくリヒャルト・シュトラウスのオペラ)「サロメ」のヨカナーンのように見えた。「男」はヘロデ、「男の妻」はヘロディアス、そしてストリッパーである「若い女(踊り子)」はサロメ。これは偶然の一致か。
(2017.4.25.新国立劇場小劇場)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白蟻の巣

2017年03月10日 | 演劇
 新国立劇場の演劇部門が新たに立ち上げた「かさなる視点―日本戯曲の力―」シリーズ。昭和30年代の戯曲3本に3人の30代の演出家が挑む企画。その第1弾として三島由紀夫の「白蟻の巣」(昭和30年、1955年初演)が谷賢一(1982年生まれ)の演出で上演されている。

 敗戦から10年たち、高度経済成長の上昇気流に乗り始めた時期に、日本社会はどんな問題を抱えていたのか。それは解決されたのか。あるいは解決されずに、今もなお引きずっているのか。そういった観点から当時の芝居を見てみる企画だ。

 「白蟻の巣」は三島由紀夫が「潮騒」で一躍ベストセラー作家となったその翌年に書いた戯曲だ。それ以前にも「近代能楽集」に収められている短い戯曲をいくつも書いているので、戯曲の経験は十分積んでいたといってもよい。ともかくいかにも三島由紀夫らしい芝居だ。

 場所はブラジルなので、三島由紀夫としては特殊な設定だが、そこで展開される人々の葛藤はいかにも三島由紀夫の世界だ。元華族と思われる虚無的な刈屋義郎(コーヒー農園の経営者)。不倫に溺れるその妻、妙子。1年前に妙子と心中未遂事件を起こした百島建次(刈屋義郎の使用人)。その妻でまだ20歳の啓子。その他の登場人物が2人。

 刈屋義郎の虚無性が作る強い磁場に、妙子と百島建次が絡めとられ、逃れることができない。啓子はその磁場を突き崩そうとして、奇妙な計画を実行に移すが、それは思いがけない展開を生み、結末は二転三転する。

 本作の基調をなす虚無性、観念性、官能性といった要素は、いかにも三島由紀夫の世界だと思うのだが、この公演にはそれらの要素があまり感じられず、むしろ今の社会の等身大の感覚で演じられてしまったように感じる。三島由紀夫の毒のようなものは希薄だった。

 その原因がどこにあったのか。演出か、役者か、それは今のわたしには分からないが、一応感想だけを記すと、妙子を演じた安蘭けいは、時に物々しさが出る口調が興をそいだ。刈屋義郎を演じた平田満は、寛大さによる支配という重圧感に欠けた。百島建次を演じた石田佳央は、存在感が弱かった。以上の3人の世界と観客との仲介者的な存在の啓子を演じた村川絵梨は、一番自然体で演じられる役回りだったようだ。

 わたしは昭和30年代の観客になったつもりで観てみようと試みたが、それは難しかった。
(2017.3.7.新国立劇場小劇場)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヘンリー四世

2016年12月03日 | 演劇
 シェイクスピアの「ヘンリー四世」二部作の通し公演を観た。「ヘンリー六世」三部作の通し公演のときは、最後は疲れてフラフラになったが、今回はそんなこともなく、無事に観終えることができた。

 「ヘンリー六世」三部作は絶賛の声に包まれ、その余勢を駆って「リチャード三世」も上演されたが、それらの公演と比べても、今回の「ヘンリー四世」二部作は、けっして引けを取らないばかりか、むしろ先に行っているかもしれないと思った。

 演出の鵜山仁によると、「ヘンリー六世」三部作は「比較的スタンダードなやり方」でやり、「リチャード三世」は「やや捻れて」やったそうだ(プログラム誌より)。では、今回はどうか。鵜山仁は語っていないが、わたしの感覚では、適度な締まりがあって、ゆるすぎず、まるで水の入ったゴムボールのように、どこを押しても復元力があるような柔構造を感じた。どこを押すかは観客に任せられている。

 オペラ・ファンにとっては、「ヘンリー四世」はヴェルディのオペラ「ファルスタッフ」の原型フォールスタッフが登場する芝居だ(もっとも「ファルスタッフ」は「ヘンリー四世」ではなく「ウィンザーの陽気な女房たち」に基づくオペラだが)。

 さすがにフォールスタッフの存在感は圧倒的だった。うっかりすると、史劇を喜劇のほうに引っ張っていってしまう。そのフォールスタッフを佐藤B作が好演した。ことに第一部で生き生きとした息遣いを感じた。

 皇太子ヘンリー(通称「王子ハル」)を演じた浦井健治とヘンリー・パーシー(通称「ホットスパー」)を演じた岡本健一とは、「ヘンリー六世」三部作、「リチャード三世」以来、新国立劇場のシェイクスピア史劇には欠かせない存在になっていると実感した。

 女性の登場人物は少ない。オペラ「ファルスタッフ」でお馴染みのクィックリー夫人は(居酒屋の女将として)登場するが、その存在感が増すのは「ウィンザーの陽気な女房たち」になってからだ。それにもかかわらず、芝居としての華やぎに欠けていないのは、ひとえにフォールスタッフの存在ゆえだ。

 フォールスタッフは第二部の幕切れで、ヘンリー五世として即位した王子ハルによって追放される。それが可哀想だと感じる向きもあるようだが、わたしは当然の措置だと思った。統治者となった者(王子ハル)にとって、昔の仲間ほど邪魔な者はいないだろう。
(2016.12.1.新国立劇場中劇場)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フリック

2016年10月19日 | 演劇
 新国立劇場が上演している欧米の同時代演劇シリーズ第4弾のアニー・ベイカー作「フリック」を観た。2014年のピュリッツァー賞受賞作品だけあって、面白かった。

 20歳のエイヴリーは大学を休学中。地元の映画館にアルバイトの職を見つける。そこで出会う同僚は35歳のサムと24歳のローズ。仕事は切符のもぎりから、ポップコーンの販売、掃除まで、とにかくなんでもやる。

 エイヴリーとサムは、うだつのあがらない男たちだが、マニアックな映画好きだ。ローズは弾けた女。映画への興味はあまりない。これらの3人が毎日、終演後の映画館で床掃除をしながら交わす会話が本作だ。

 最後にちょっとした事件が起きる。傍から見ればたいした事件ではないが、当人たちには大事件だ。その事件を通してエイヴリーは少し成長する。だが、なにかを失う。大人になるということは、なにかを失うことでもあるという芝居かと思ったが‥。

 帰りの電車の中でプログラムを読んで、アッと驚いた。サムとローズは白人だが、エイヴリーは黒人だった(観劇中は気付かなかった!)。エイヴリーの父親は大学教授なので、裕福なエリート階層に属し、一方、サムは貧しい白人。最後にエイヴリーは復学する。幕切れでエイヴリーはサムに言う、「10年後、君はまだ映画館で床に散らかったポップコーンを掃除しているだろうな。僕は、そうだなあ、パリにでもいるかな」と。

 文字にすると嫌らしい感じもするが、芝居を観ていると、むしろあっさりした感じがする。お互いに現実を認め合っているような雰囲気だった。わたしなどは、報道で、白人警官が黒人を射殺した事件に接するたびに胸を痛めるが、その一方では、今のアメリカ社会にはこんな現実も生まれているのかもしれない。

 エイヴリーの木村了、サムの菅原永二、ともに好演だった。それぞれの役どころを繊細に演じ、しかも、年は離れているが(境遇も違うが)、うだつのあがらない者同士の心の交流をしんみり伝えた。一方、ローザのソニンは怪演だった。その迫力、猥雑さ、官能性が舞台のテンションを高めた。わたしは、ポスト大竹しのぶと思った。なお、ちょい役だが、エイヴリーの後釜として雇われた男を演じた村岡哲至が、上記の3人とはまったく違う空気感を醸し出して可笑しかった。

 題名の「フリック」という言葉は、映画や映画館を指す俗語だそうだ。
(2016.10.18.新国立劇場小劇場)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あわれ彼女は娼婦

2016年06月23日 | 演劇
 沃野のように豊かなエリザベス朝演劇の作品群の一つ、ジョン・フォード(1586受洗~1639頃)の「あわれ彼女は娼婦」。シェイクスピア(1564~1616)の「ロミオとジュリエット」を下敷きにしたと思われる作品だが、本家本元とは違ってドロドロしている。

 ロミオとジュリエットに相当するカップルが、ジョヴァンニとアナベラの兄妹。兄妹は愛し合い、アナベラは身ごもる。世間体を取り繕うため、修道士ボナヴェンチュラはアナベラを貴族ソランゾと結婚させる。事態は込み入り、悪化する。

 ジョヴァンニとアナベラの純愛物語と捉えられないこともないが、幕切れで、自ら刺殺したアナベラの心臓を剣に刺し、狂気の態で現れるジョヴァンニの姿を見ると、これはそんな口当たりのいい芝居ではないことが分かる。むしろ露悪趣味が行き着く先のカタストロフィが本質ではないかと思えてくる。

 ジョヴァンニ役は浦井健治。シェイクスピアの「ヘンリー六世」3部作の大成功(2009年)以来、早いものでもう7年経つが、ピュアな感性は失われていない。アナベラは蒼井優。身体の切れがよく、また舞台姿が美しい。多少頭は弱いが、憎めず、そしてどこか哀しいバーゲットを野坂弘が好演した。

 演出は栗山民也。今回もぎゅっと凝縮した舞台だ。焦点が合っている。栗山民也の演出には失望したことがないが、本作も優れた舞台の一つ。舞台美術もすばらしい。赤く焼けた鋼鉄のような壁面、床に交差する赤い十字路、その他赤が主体の舞台美術。担当は松井るみ。すっかり感心してプロフィールを見たら、井上やすしの「雨」もこの人だった。「雨」は今でもよく覚えている。「雨」の和風のテイストと、今回のイタリア的な赤と、いずれも鮮烈だ。

 音楽はマリンバ1台(舞台右脇に配置)。中村友子(桐朋学園大学非常勤講師)が、出すぎず、引っ込みすぎず、絶妙な間合いでドラマを彩る。舞台裏から微かに聞こえてくる中世またはルネッサンスの教会音楽の合唱が、ドラマに陰影を添える。

 全体としてじつに現代的な舞台だ。約400年前のエリザベス朝演劇だとは、観劇中一度も感じなかった。

 本音を言うと、うらやましかった。演劇ではこんなに現代的な舞台が作れるのに、(こう言ってはなんだが)どうしてオペラではそうならないのだろうと。とくにこの数年間はその傾向が感じられる。
(2016.6.22.新国立劇場中劇場)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バグダッド動物園のベンガルタイガー

2015年12月22日 | 演劇
 新国立劇場の「バグダッド動物園のベンガルタイガー」を観た。イラク戦争が始まった2003年のバグダッドが舞台。作者はラジヴ・ジョセフというアメリカ人。2010年の作品だ。

 バグダッドに攻め込んだアメリカ兵のトムとケヴ。酒に酔ったトムが動物園のベンガルタイガーに餌をやろうとして右手を噛まれる。同僚のケヴがタイガーを射殺――と、ここまでは実話だ。芝居では、タイガーが幽霊となってケヴにつきまとう。ケヴは精神に異常をきたして自殺。ケヴも幽霊になってトムにつきまとう。

 不条理な暴力、イラク人への侮蔑、外傷後ストレス傷害(PTSD)といった戦争の現実が芝居になる。戦争が身近にあるアメリカ人の皮膚感覚が伝わってくる。

 もう一つ特徴的だと思ったことは、神の意識だ。ケヴもトムも、そしてタイガーまでも神に問いかける。この混乱した世の中はなぜなのか。救いはあるのか。神はどこにいるのか。なにをしているのか。そんな問いかけが浮かび出る。

 さらにもう一つ、アメリカ兵の性衝動が描かれる。戦争と性とは切っても切り離せない関係だと、あらためて思う。日本での上演なので、この部分は薄味になっているかもしれない。アメリカでの上演はどうだったのだろうと、思わないでもない。

 以上の3点、戦争の皮膚感覚、神への問いかけ、性衝動、いずれもリアルであるとともに、彼我のちがいも感じた。ちがいを感じたからこそ、今この世の中で起きている現実味があったというべきかもしれない。

 タイガーは杉本哲太。思索的なキャラクター(人間よりも思索的だ)を渋く演じていた。ケヴの風間俊介とトムの谷田歩は、愚かで軽薄なキャラクターを大熱演。互角に渡り合って甲乙つけがたい。イラク人でアメリカ軍の通訳として働くムーサは安井順平。抑圧されたキャラクターに存在感があった。サダム・フセインの息子ウーダイ(米軍に射殺された実在の人物。幽霊となって登場)の粟野史浩はヤクザのような迫力だ。

 演出は中津留章仁。わたしは初めてその演出に接したが、戦争という異常な状況を描いて熱っぽい舞台を作り上げたのは、この人の力量だと思う。

 新国立劇場は2012年に「負傷者16人‐SIXTEEN WOUNDED‐」を取り上げた。テロリストの生活を等身大に描いたその芝居に引き続き、今回の「バグダッド動物園の……」は同時代の問題作の第2弾だ。
(2015.12.21.新国立劇場小劇場)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桜の園

2015年11月21日 | 演劇
 新国立劇場で公演中のチェーホフの「桜の園」を観た。ロシア革命前夜のロシア。多額の負債を抱えて領地を競売にかけられる領主ラネーフスカヤに田中裕子。父も祖父もその領地の小作人だったが、時代の流れに乗って事業家として成功し、資産を蓄えたロパーヒンに柄本佑というキャスト。

 田中裕子は20代の頃と変わらない若さだ。容姿もそうだが、感性が老けていない。華やぎのあるラネーフスカヤ。桜の園の‘桜’の象徴のようだ。一方、柄本佑はそんな田中裕子に遠慮がちのように感じられた。元小作人の息子ではあるが、子どもの頃にラネーフスカヤに思慕の念を抱き、今でも慕っているロパーヒン。でも、時代が変わり、今では立場が逆転した。もっと颯爽としていてもよかった。

 いうまでもなく「桜の園」はこの二人を軸に進むわけではなく、登場人物のすべてに人生があり、等しく重みがあるわけだが、一々その名前は挙げないまでも、どの役者も各々の人生を体現していた。

 だが、全体として、観終わった後に「桜の園」に触れたという実感があまり湧かなかった。なぜだろう。なにが不満だったのだろう。

 総体的にいうと、演出に一種の‘緩さ’を感じた。鵜山仁の演出には時々それを感じることがあるのだが、今回も感じた。シェイクスピアの「ヘンリー六世」三部作のような叙事的な作品ならばよいが、「桜の園」のように、一見散漫ではあるが、じつは凝縮した作品の場合には具合が悪い。観劇後に一編の詩、あるいは一幅の絵のようなイメージが残らなかった。

 もう少し具体的にいうと、「桜の園」は‘喜劇’なわけだが、喜劇にこだわるあまり、喜劇が日常的なレベルに止まり、もっと高度な次元へと上昇することができなかった。端的にいって、透明感が生まれなかった。

 個別の場面では、幕切れでプロセニアム・アーチ(舞台前面の額縁)が崩壊する演出には興ざめだった。ラネーフスカヤの屋敷の崩壊を意味するわけだが、そこまでやってくれなくても、という感じがした。同様に、最後に一人残った老僕フィールズの絶命も、片手を挙げて、いかにも絶命という演出にがっかりした。

 そうはいっても、さすがにチェーホフだ。現実を見ようともしない、不完全で愚かな(わたしたちはみんなそうだ)登場人物たちへの眼差しが暖かい。そんなチェーホフの眼差しはこの公演からも感じられた。
(2015.11.20.新国立劇場小劇場)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

血の婚礼

2015年10月27日 | 演劇
 新国立劇場の演劇研修所の公演には、演目に惹かれて、時々出かけている。今回の演目はロルカの「血の婚礼」。これはぜひ観てみたいと思った。

 「血の婚礼」はロルカの‘三大悲劇’といわれているものの一つだ。戯曲は読んだことがあるが、舞台は初めて。戯曲の枝葉を切り落として、約100分の上演台本にまとめていた。ストレートに話が進む。スピーディな展開。手際のよいまとめ方だったのではないかと思う。

 舞台美術も簡素だ。客席の最前列と同じ平面で(つまり客席よりも一段高い舞台ではなく)芝居が進む。床面には大きな円が描かれている。円の中が舞台だ。円の周囲に8本の高低差のある四角柱が立っている。これらの四角柱は動かすことができる。あるときは家の壁に、またあるときは森の木々になる。

 こういったシンプルな舞台美術は、わたしは大好きだ。数年前にチューリヒ歌劇場で「リゴレット」を観たときは、会議室用の机と椅子だけでやっていた。それだけで立派なオペラになっていた。

 演劇研修所のみなさんは(いつものことながら)熱演だった。十分にこの悲劇の世界を形作っていた。

 ストーリーは、スペインのアンダルシア地方の小村を舞台に、元カレが忘れられない娘と、(今は結婚しているが)その娘を忘れることができない元カレとが、娘の結婚式の当日に駆け落ちすることによって起きる悲劇。スペインの地方色が濃厚な芝居だが、同時に現代の日本でも起きそうなことだ。ロルカの世界と現代の日常性とが、透明な二重写しとなって見えてくる。そんな感覚に襲われる芝居だ。

 スペインの地方色は、主に音楽によって生まれてくる。ギターやアコーディオンによって静かに流れる音楽。また、ロルカの戯曲にふんだんに含まれる歌の数々。あれらの歌はだれが作曲したのだろう。語りのイントネーションに近い簡潔な歌たち。それらを歌う研修生のみなさんは、よく訓練されていた。

 ロルカの芝居というと、昨年、日生劇場が制作したゴリホフのオペラ「アイナダマール」のプレイベントとして、日生劇場のロビーで上演された「マリアーナ・ピネーダ」を想い出す。まったくなにもないロビーで、役者が動き回るだけの上演だったが、空間の立体的な使い方によって、ロルカの劇世界が立派に現出していた。やる気があれば、お金がなくても芝居はできるという一例かもしれない。
(2015.10.26.新国立劇場小劇場)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トロイラスとクレシダ

2015年07月23日 | 演劇
 世田谷パブリックシアターで「トロイラスとクレシダ」が公演中だ。シェイクスピアの中ではマイナーな芝居だ。どんな芝居なのか、この機会に観てみたいという興味もあったが、じつはもっと直截には、2009年の新国立劇場での「ヘンリー六世」3部作のときのスタッフとキャストが再結集することに惹かれた。

 初めて観るこの芝居、トロイ戦争の一時期を扱っている。長期にわたってダラダラと続く戦争の、中だるみして厭戦気分が漂った時期だ。トロイの王子パリスが、スパルタ王メネレーアスの妃ヘレンを誘拐したことで始まった戦争。そんなバカバカしい戦争に、なぜ多くの犠牲者を出さなければならないのか。両軍ともそう思っているのに、止めることができずに、いつまでも続く戦争。

 人心は荒廃する。トロイの王子で末っ子のトロイラスは、神官カルカスの娘クレシダと恋をする。若い2人は情熱の高まりを抑えきれずに、密かに結ばれる。

 「ロミオとジュリエット」と似た展開だ。でも、そこからが違う。神官カルカスはギリシャ側に寝返っている。娘かわいさの気持ちから、ギリシャ側の総大将アガメムノンに、捕虜と娘クレシダとの交換を願い出る。アガメムノンは認める。

 ギリシャ側に連れてこられたクレシダは、将軍ダイアミディーズに見初められる。最初は拒んでいたクレシダも、心を動かされ、唇を許す。ギリシャの陣営を訪れていたトロイラスは、物陰からそれを見て、自暴自棄になる。

 こんな展開は、悲劇というよりも、反・悲劇だ。グロテスクな現実。生きるためには仕方がない。皆そうやって生きている。笑ってしまう。いや、笑うしかない。

 終わらない戦争とこの展開。なんだか現代的だ。今もどこかで起きている気がする。不可解で不条理な現実。でも、それが現実だと皆知っている。

 英雄的な人物も登場する。トロイの王子で長男のヘクターだ。ギリシャ側に一騎打ちを申し込む。ギリシャ側は、他の思惑も絡んで、右往左往する。ヘクターはぶれない。自分の意思を貫く。だが、この英雄は、崩壊し、かつ荒廃した世界にあって、一人浮いている。ほとんどパロディーのようだ。

 トロイラスは浦井健治、クレシダはソニン、ダイアミディーズは岡本健一。皆さん「ヘンリー六世」のときのキャストだ。ヘクターは吉田栄作。好演だ。トロイ王プライアムには江守徹。さすがの存在感だ。
(2015.7.22.世田谷パブリックシアター)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ペール・ギュント

2015年07月17日 | 演劇
 イプセンの戯曲はいくつか読んだが、もっとも感銘を受けた作品は「ペール・ギュント」だ。グリークの音楽は子どもの頃から親しんでいる。でも、戯曲を読んだことはなかった。数年前に初めて読んだ。驚いた。幻想的で、かつ(喜劇ではあるのだが)人生の苦みがある作品だ。イプセンの中でも特異な位置を占めると思った。

 解説を読んで、この戯曲は読むために書かれたもので、舞台上演は予定されていなかったことを知った。納得だった。その後ベルリンでバレエ公演を観る機会があった。幻想的なバレエだった。そのときも、演劇としては難しいだろうと思った。

 この度、神奈川芸術劇場が演劇として制作した。これはぜひ観たいと思った。そして昨日、台風の影響が懸念されたが、無事に観ることができた。

 廃墟のようなガランとした舞台。遠くでなにか音がしている。だんだん大きくなる。銃声だ。ヘリコプターの音が聞こえる。窓ガラスが割れている。外は戦場だ。大勢の避難民が集まってくる。ここは病院の中。医療従事者が右往左往している。砲弾が炸裂する。耳を聾する大音響だ。

 驚いたことに、子どもが生まれる。未熟児だ。保育器に入れられる。心配そうに見守る看護師。これが芝居の始まりだ。

 イプセンの戯曲が簡潔に進む。スピーディーだ。音楽が貢献している。スガダイローのフリージャズ。ピアノ、ベース、ドラムス、ミキサーの4人の演奏だ。激しく尖った音楽が主体だが、時々ハッとするような抒情的な音楽になる。「ソールヴェイの歌」はグリークの音楽とは違って短いが、胸にしみる。

 半透明の大きなビニールシートが何枚も使われる。時には怪物になり、時には海になる。演出は白井晃。新国立劇場で演出したシェイクスピアの「テンペスト」では無数の段ボール箱を使った。シャープな劇場感覚の持ち主だ。

 ペール・ギュントの50年にわたる冒険と放浪の生活が終わり、ソールヴェイの膝の上で息を引き取る。冒頭の場面に戻る。廃墟と化した病院。保育器のなかの幼児は息絶える。悲しむ看護師。同僚が看護師を呼ぶ。ソールヴェイ!と。

 幼児はペール・ギュントだった。芝居が上演されている約3時間しか生きられなかった。でも、保育器の中で、ペールは50年の人生を生きた。命のいとおしさに胸を打たれた。

 ペールを演じた内博貴(うち・ひろき)は明るくピュアな感性があった。
(2015.7.16.神奈川芸術劇場)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする