ツァグロゼクが指揮した読響の定期演奏会。曲目はブルックナーの交響曲第5番(ノヴァーク版)。第1楽章が始まる。音楽がブツブツ切れる。ゲネラルパウゼが頻繁に入るから当然なのだが、なぜか音楽が流れない。第2楽章もその違和感が残った。わたしの好きな第2主題(弦楽合奏で悠然と歌われる主題)が浮いて聴こえる。
第3楽章スケルツォに入ると、ぎこちなさは消えて、通常運転になったが、トリオのコミカルな味が出ない。同様に、主部に挿入される(トリオに似た)のどかな楽想も、十分には生きない。第4楽章になると力感あふれる演奏が展開して、わたしは圧倒された。第3楽章までは気になっていた演奏スタイルが、第4楽章で一気に実を結んだ感があった。
以上がわたしの聴いた演奏だ。終演後の長い静寂、そして爆発するように起きたブラヴォーの声と拍手は、皆さんがわたしとは違って演奏に深い感銘を受けたことを物語った。わたしだけが何かに引っ掛かっていたのだ。
わたしも演奏が強固な意志に貫かれ、有無を言わせぬ説得力があったとは思う。今82歳のツァグロゼクの精神力と体力、そして読響の合奏能力の高さに目をみはったことも事実だ。なので、そこで提示されたブルックナー像が、わたしのブルックナー像とは違っていたと言うしかない。
端的に言うと、ツァグロゼクと読響が演奏したブルックナーは、わたしにはドイツ的過ぎた。言うまでもないが、ドイツとオーストリアは似て非なるものだ。両者は感性がそうとう異なる。ドイツとくらべてオーストリアは、こう言ってよければ、どこかいい加減なところがある(悪い意味で言うのではない)。そのいい加減さ(と言っていいかどうか)がオーストリア独特の風土を生む。ブルックナーはその風土から生まれ、その風土を体現しているとわたしには思える。
そんなことを思うのは、2015年にザルツブルク音楽祭でハイティンク指揮ウィーン・フィルが演奏するブルックナーの交響曲第8番を聴いたときに、ウィーン・フィルの心底から安心したような演奏に感銘を受けたからだ。ハイティンクの指揮だったからということもあるかもしれないが、それに加えて、ウィーン・フィルにとってブルックナーはやはり同郷人なのだと感じた。ベートーヴェンとは違うのだろう。
ツァグロゼク指揮読響のブルックナーは、終始音が緊張していた。それがわたしの感じた違和感だ。だから第3楽章のトリオも、主部の中間部も、のどかな味が出なかった。また、だからこそ第4楽章がまれにみる圧倒的な演奏になったと思う。
(2025.2.7.サントリーホール)
第3楽章スケルツォに入ると、ぎこちなさは消えて、通常運転になったが、トリオのコミカルな味が出ない。同様に、主部に挿入される(トリオに似た)のどかな楽想も、十分には生きない。第4楽章になると力感あふれる演奏が展開して、わたしは圧倒された。第3楽章までは気になっていた演奏スタイルが、第4楽章で一気に実を結んだ感があった。
以上がわたしの聴いた演奏だ。終演後の長い静寂、そして爆発するように起きたブラヴォーの声と拍手は、皆さんがわたしとは違って演奏に深い感銘を受けたことを物語った。わたしだけが何かに引っ掛かっていたのだ。
わたしも演奏が強固な意志に貫かれ、有無を言わせぬ説得力があったとは思う。今82歳のツァグロゼクの精神力と体力、そして読響の合奏能力の高さに目をみはったことも事実だ。なので、そこで提示されたブルックナー像が、わたしのブルックナー像とは違っていたと言うしかない。
端的に言うと、ツァグロゼクと読響が演奏したブルックナーは、わたしにはドイツ的過ぎた。言うまでもないが、ドイツとオーストリアは似て非なるものだ。両者は感性がそうとう異なる。ドイツとくらべてオーストリアは、こう言ってよければ、どこかいい加減なところがある(悪い意味で言うのではない)。そのいい加減さ(と言っていいかどうか)がオーストリア独特の風土を生む。ブルックナーはその風土から生まれ、その風土を体現しているとわたしには思える。
そんなことを思うのは、2015年にザルツブルク音楽祭でハイティンク指揮ウィーン・フィルが演奏するブルックナーの交響曲第8番を聴いたときに、ウィーン・フィルの心底から安心したような演奏に感銘を受けたからだ。ハイティンクの指揮だったからということもあるかもしれないが、それに加えて、ウィーン・フィルにとってブルックナーはやはり同郷人なのだと感じた。ベートーヴェンとは違うのだろう。
ツァグロゼク指揮読響のブルックナーは、終始音が緊張していた。それがわたしの感じた違和感だ。だから第3楽章のトリオも、主部の中間部も、のどかな味が出なかった。また、だからこそ第4楽章がまれにみる圧倒的な演奏になったと思う。
(2025.2.7.サントリーホール)