Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

トゥランガリラ交響曲

2008年10月15日 | 音楽
 都響が初顔合わせの若手指揮者イラン・ヴォルコフを迎えて、以下のプログラムを演奏した。
(1)ドビュッシー:バレエ音楽「遊戯」
(2)メシアン:トゥランガリラ交響曲(ピアノ:児玉桃、オンド・マルトノ:原田節)
 実に大胆なプログラムだ。すでに何回も共演をかさねているヴェテラン指揮者ならともかく、初顔合わせの若手にふらせるのは冒険だ。事前のリサーチはしているにしても、やはり一種の賭けだろう。その心意気を歓迎したい。

 ドビュッシーの「遊戯」は作曲者晩年の作で、管弦楽作品の中ではもっとも抽象化がすすんでいる。それはちょうど印象派の画家モネが、生涯の最後になって形態にとらわれずに、かなり抽象化された作品を生んだことを連想させなくもない。
 ただ昨日の演奏は、残念ながら音の動きがぎこちなく、余裕がないように感じられた。指揮者には明確なテンポの設計があり、棒をみていると、指揮者が想定している音楽が想像できるのだが、実際の音はついていっていなかった。

 次のメシアンの「トゥランガリラ交響曲」については、少々煩瑣になって申し訳ないが、説明の都合上、まず各楽章の標題を掲げさせていただきたい。
 第1楽章 導入
 第2楽章 愛の歌1
 第3楽章 トゥランガリラ1
 第4楽章 愛の歌2
 第5楽章 星の血の喜び
 第6楽章 愛の眠りの庭
 第7楽章 トゥランガリラ2
 第8楽章 愛の展開
 第9楽章 トゥランガリラ3
 第10楽章 フィナーレ
 以上の標題からも感じられるように、この曲は多面体のような構造をもっていて、第5楽章と第8楽章は、解放的な官能の喜びを歌い上げている。第6楽章は、官能の果ての心地よい眠りだ。反面、トゥランガリラと名づけられた三つの楽章は、実験的で抽象的な音楽だ。これらを第1楽章と第10楽章がはさむ形をとっている。

 私のこの曲のきき方は、年月とともに変化していて、今は三つのトゥランガリラが面白い。その点では昨日の演奏は満足できた。ヴォルコフの指揮は、変拍子や複雑なリズムなど当たり前で、関心事は重層的な音構造の解析にあった。
 一方、第5楽章と第8楽章は、官能の喜びが伝わってこなかった。これは指揮者が若いせいだろうか。逆説的なようだが、官能の表現にはある程度の年齢が必要な気がする。
 第6楽章は、弦とオンド・マルトノの息の長い旋律にピアノが装飾をつけるが、昨日はそこにヴィヴラフォンの音色が明瞭にかぶさり、指揮者のセンスのよさが感じられた。

 総体的には、弱音の部分は音色の美しさで惹きつけたが、強奏の部分は音がやかましかった。もっともこれは、まさに今の都響の課題でもある。今の都響で強奏の音を十分制御できるのは、そうとう経験豊富な指揮者だけだ。初顔合わせの若手が十分にできなかったとしても、それは指揮者だけの責任ではないだろう。

 ヴォルコフが才能ある指揮者であることはよくわかった。だが昨日のプログラムは、いくら才能があるにしても、やはり荷がかちすぎていたのではないか。
 私は、現実にはシンデレラ・ストーリーはそう簡単には生まれないのだなと思った。

 最後になったが、ピアノの児玉桃は精彩ある演奏をきかせた。オンド・マルトノの原田節には、この曲ではいつもお世話になっている。
(2008.10.14.サントリーホール)
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