今、鎌倉文学館で「企画展 吉田秀和 音楽を言葉に」がひらかれている。音楽評論家の吉田秀和さんが鎌倉市の名誉市民となったことを記念したものだ。この企画展のことを知ったとき、早く行きたいと思ったが、なかなか行けずにいた。昨日の日曜日にやっと行くことができて、今でも満ち足りた思いが残っている。この思いは吉田さんの文章を読んだときの幸福な読後感に似ている。
私が吉田さんの文章に出会ったのは大学生のときだった。当時、多くの同世代の人たちと同じように、私は小林秀雄に心酔していたが(ほんとうは、かぶれていたというべきだろう)、あるとき偶然に吉田さんの文章に出会った。小林秀雄の文章とはちがって、平易で率直な文章だった。そのとき私は、小林秀雄からの出口を見つけたのだと思う。出口を探しているわけではなかったが、不意に出口を見つけて、私は少し自由になった。
その後、吉田さんの文章を追い求めて読んだ。そのとき以来ずっと、吉田さんは音楽の師であり、文章の憧れであった。私にとっての吉田さんは良心そのものだった。
昨日初めて訪れた鎌倉文学館は、江ノ島電鉄の由比ヶ浜駅をおりて5分ほどのところにあった。旧前田公爵家の別邸を改装したものだそうで、雅趣のある洋館だった。靴を脱いで中に入ると、小さな展示室がいくつかあって、そのうちの2室が企画展にあてられていた。1室はイントロダクションで、もう1室が主体だった。
構成は、吉田さんの生い立ちから現在までの軌跡を簡潔にパネルで紹介しながら、関連する写真や書簡、初出の雑誌や単行本を展示したもので、その多くは馴染みのものだったが、新しい発見もあった。煩瑣になるといけないので詳細は控えるが、展示を見終わってその部屋を出ようとしたとき、思いがけず感情がこみあげてきた。私はその部屋にいる間中、たしかに吉田さんとともにいた。
出口のところに売店があって、吉田さんの本がいくつか並んでいた。その中に2003年に亡くなったドイツ人の奥様バルバラさんの著書「日本文学の光と影」があった。この本のことを知らなかった私は、さっそく買い求めた。日本文学の研究者であり翻訳者でもあったバルバラさんの論文集だが、よく見ると全体の4分の1はバルバラさんを偲ぶ友人知人の追悼文集だった。追悼文を集めてこの本を編んだ吉田さんの気持ちが伝わってきた。
巻末につけられている年譜で知ったが、吉田さんは1913年生まれ、バルバラさんは1927年生まれで、年齢は14歳離れていた。そのバルバラさんがまさか先に逝ってしまうとは、吉田さんは夢にも思っていなかったろう。
いうまでもないことだろうが、吉田さんにとってバルバラさんの存在は大きかった。
ちょと遠回りになるが、吉田さんの歩みをたどってみると、今の吉田さんを準備したのは、若き日の中原中也や小林秀雄、あるいは、私は不勉強でその著書にふれたことはないが、ドイツ文学者の阿部六郎などとの交友だった。そして、吉田さんの出発点となったのが、1953年から54年にかけてのアメリカとヨーロッパの音楽の旅だった。これにくわえて、1964年のバルバラさんとの結婚が吉田さんの厚みを増した。結婚によって、ヨーロッパの音楽、美術、さらには文化を見る眼が、なんというか、直接的になった。
バルバラさんの著書を読むことによって、吉田さんをもっと幅広く知ることができるのではないかと思うと、私は嬉しかった。
(2008.11.16.鎌倉文学館)
私が吉田さんの文章に出会ったのは大学生のときだった。当時、多くの同世代の人たちと同じように、私は小林秀雄に心酔していたが(ほんとうは、かぶれていたというべきだろう)、あるとき偶然に吉田さんの文章に出会った。小林秀雄の文章とはちがって、平易で率直な文章だった。そのとき私は、小林秀雄からの出口を見つけたのだと思う。出口を探しているわけではなかったが、不意に出口を見つけて、私は少し自由になった。
その後、吉田さんの文章を追い求めて読んだ。そのとき以来ずっと、吉田さんは音楽の師であり、文章の憧れであった。私にとっての吉田さんは良心そのものだった。
昨日初めて訪れた鎌倉文学館は、江ノ島電鉄の由比ヶ浜駅をおりて5分ほどのところにあった。旧前田公爵家の別邸を改装したものだそうで、雅趣のある洋館だった。靴を脱いで中に入ると、小さな展示室がいくつかあって、そのうちの2室が企画展にあてられていた。1室はイントロダクションで、もう1室が主体だった。
構成は、吉田さんの生い立ちから現在までの軌跡を簡潔にパネルで紹介しながら、関連する写真や書簡、初出の雑誌や単行本を展示したもので、その多くは馴染みのものだったが、新しい発見もあった。煩瑣になるといけないので詳細は控えるが、展示を見終わってその部屋を出ようとしたとき、思いがけず感情がこみあげてきた。私はその部屋にいる間中、たしかに吉田さんとともにいた。
出口のところに売店があって、吉田さんの本がいくつか並んでいた。その中に2003年に亡くなったドイツ人の奥様バルバラさんの著書「日本文学の光と影」があった。この本のことを知らなかった私は、さっそく買い求めた。日本文学の研究者であり翻訳者でもあったバルバラさんの論文集だが、よく見ると全体の4分の1はバルバラさんを偲ぶ友人知人の追悼文集だった。追悼文を集めてこの本を編んだ吉田さんの気持ちが伝わってきた。
巻末につけられている年譜で知ったが、吉田さんは1913年生まれ、バルバラさんは1927年生まれで、年齢は14歳離れていた。そのバルバラさんがまさか先に逝ってしまうとは、吉田さんは夢にも思っていなかったろう。
いうまでもないことだろうが、吉田さんにとってバルバラさんの存在は大きかった。
ちょと遠回りになるが、吉田さんの歩みをたどってみると、今の吉田さんを準備したのは、若き日の中原中也や小林秀雄、あるいは、私は不勉強でその著書にふれたことはないが、ドイツ文学者の阿部六郎などとの交友だった。そして、吉田さんの出発点となったのが、1953年から54年にかけてのアメリカとヨーロッパの音楽の旅だった。これにくわえて、1964年のバルバラさんとの結婚が吉田さんの厚みを増した。結婚によって、ヨーロッパの音楽、美術、さらには文化を見る眼が、なんというか、直接的になった。
バルバラさんの著書を読むことによって、吉田さんをもっと幅広く知ることができるのではないかと思うと、私は嬉しかった。
(2008.11.16.鎌倉文学館)