前回のブログではロッシーニのオペラについて書き、前々回はベートーヴェンの交響曲について書いた。ロッシーニとベートーヴェンでは相当ちがう。では、結局だれが好きなのか。以下、私の好きな作曲家について。
私の好きな作曲家はだれかと考えるとき、考察の基軸をどこにとるかで結果は変わってくるように思う。そこでまず、オペラを基軸に据えることにした。そうすると、次の3人が浮かんできた。ワーグナーとヤナーチェクとブリテン。
ワーグナーについては、その有無をいわせない感動によって。作品でいえば「トリスタンとイゾルデ」が、ワーグナーとしても奇跡の作品だ。これをかいたことによって、ワーグナーはもう何でもかけるようになった。そして生まれた作品が「神々の黄昏」と「ニュルンベルクのマイスタージンガー」と「パルジファル」だ。それぞれ、悲劇、喜劇、宗教的神秘劇となっていて、まるでオペラの各ジャンルに狙いを定めたようだ。
ヤナーチェクについては、先の展開の予想がつかない独自の音楽によって。作品でいえば「カーチャ・カバノヴァー」が、その語法を確立した作品だ。また、白鳥の歌となった「死者の家から」は、ドストエフスキーの「死の家の記録」を原作としているが、あの徹頭徹尾散文的な記録文学から、信じられないような純粋な詩をすくいとっている。
ブリテンについては、そのずば抜けた聡明さによって。作品は室内オペラの数が多いが、フル編成のオーケストラを伴うものとして「ビリー・バッド」を。善は悪によって妬まれ滅ぼされるという恐ろしい真実をえがいている。原作のハーマン・メルヴィルの小説をE.M.フォースターなどが台本化したものだが、あの難解な哲学小説をよくオペラにしたと感心する。
これらの3人のほかに、別格的な存在としてモーツァルトがいる。モーツァルトの音楽は比較ができない。作品をえらべば、私はまず「ドン・ジョヴァンニ」だろうか。モーツァルトのオペラは多かれ少なかれ男と女の葛藤のドラマだが、その生々しさは「ドン・ジョヴァンニ」において極まる。
以上のほかにも、私の好きな作曲家は多い。一例をあげれば、ベルリーニをきくことはいつも私の喜びだ。また、プーランクの「カルメル会修道女の対話」は、私のもっとも大事なオペラの一つだ。
こうして挙げてみると好きな作曲家はさまざまで、一見脈絡がないようにみえる。私は欲が深いのだろうか。あるいは、節操がないのだろうか。
ここで、一つのエピソードを思い出す。何年か前に在京のあるオーケストラが、演奏会形式でワーグナーのオペラを上演したときに、演奏会終了後、楽員を囲んでお酒を飲んだことがある。その席には10人くらいいたが、その中の一人で名前が売れていなくもない著述家が、「ヴェルディはまだ許せるけれど、プッチーニは許せない」といった。私は驚いてしまった。でも、音楽好きは、よくこのような言い方をするものだ。
私はプッチーニも面白い。コルンゴルトの「死の都」をみると、明らかにプッチーニの影響を感じる。
私はすべての作曲家の面白さを理解したい。これはこの世のすべてを味わいたいと願ったファウストに似ているのだろうか。私は実生活ではファウスト的ではないが、音楽にかんしてはそうだとしたら嬉しい。
私の好きな作曲家はだれかと考えるとき、考察の基軸をどこにとるかで結果は変わってくるように思う。そこでまず、オペラを基軸に据えることにした。そうすると、次の3人が浮かんできた。ワーグナーとヤナーチェクとブリテン。
ワーグナーについては、その有無をいわせない感動によって。作品でいえば「トリスタンとイゾルデ」が、ワーグナーとしても奇跡の作品だ。これをかいたことによって、ワーグナーはもう何でもかけるようになった。そして生まれた作品が「神々の黄昏」と「ニュルンベルクのマイスタージンガー」と「パルジファル」だ。それぞれ、悲劇、喜劇、宗教的神秘劇となっていて、まるでオペラの各ジャンルに狙いを定めたようだ。
ヤナーチェクについては、先の展開の予想がつかない独自の音楽によって。作品でいえば「カーチャ・カバノヴァー」が、その語法を確立した作品だ。また、白鳥の歌となった「死者の家から」は、ドストエフスキーの「死の家の記録」を原作としているが、あの徹頭徹尾散文的な記録文学から、信じられないような純粋な詩をすくいとっている。
ブリテンについては、そのずば抜けた聡明さによって。作品は室内オペラの数が多いが、フル編成のオーケストラを伴うものとして「ビリー・バッド」を。善は悪によって妬まれ滅ぼされるという恐ろしい真実をえがいている。原作のハーマン・メルヴィルの小説をE.M.フォースターなどが台本化したものだが、あの難解な哲学小説をよくオペラにしたと感心する。
これらの3人のほかに、別格的な存在としてモーツァルトがいる。モーツァルトの音楽は比較ができない。作品をえらべば、私はまず「ドン・ジョヴァンニ」だろうか。モーツァルトのオペラは多かれ少なかれ男と女の葛藤のドラマだが、その生々しさは「ドン・ジョヴァンニ」において極まる。
以上のほかにも、私の好きな作曲家は多い。一例をあげれば、ベルリーニをきくことはいつも私の喜びだ。また、プーランクの「カルメル会修道女の対話」は、私のもっとも大事なオペラの一つだ。
こうして挙げてみると好きな作曲家はさまざまで、一見脈絡がないようにみえる。私は欲が深いのだろうか。あるいは、節操がないのだろうか。
ここで、一つのエピソードを思い出す。何年か前に在京のあるオーケストラが、演奏会形式でワーグナーのオペラを上演したときに、演奏会終了後、楽員を囲んでお酒を飲んだことがある。その席には10人くらいいたが、その中の一人で名前が売れていなくもない著述家が、「ヴェルディはまだ許せるけれど、プッチーニは許せない」といった。私は驚いてしまった。でも、音楽好きは、よくこのような言い方をするものだ。
私はプッチーニも面白い。コルンゴルトの「死の都」をみると、明らかにプッチーニの影響を感じる。
私はすべての作曲家の面白さを理解したい。これはこの世のすべてを味わいたいと願ったファウストに似ているのだろうか。私は実生活ではファウスト的ではないが、音楽にかんしてはそうだとしたら嬉しい。