Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

バイロイト:トリスタンとイゾルデ

2011年08月30日 | 音楽
 バイロイト2日目は「トリスタンとイゾルデ」。指揮はペーター・シュナイダー。第1幕への前奏曲が豊かな起伏をもって始まったとき、「ああ、昨日なかったのはこれだ」と思った。昨日のガッティの指揮は抑制された繊細さに終始し、音の豊かなふくらみに欠けていたと、今にして思った。

 このようなオーケストラに照応して、歌手もドラマティックに表現していた。これはとくにイゾルデにおいて顕著だった。それにひきかえトリスタンは、演出上の役作りのためでもあるが、自己を押し殺し、受け身の表現で一貫していた。

 イゾルデはイレーネ・テオリン。新国立劇場のときと同じだ。ときに絶叫調になり、またドイツ語の発音が不明瞭になりがちだが、その一方で凄みのある艶がある。クルヴェナールはユッカ・ラジライネンで、これも新国立劇場のときと同じ。安心して聴いていられるクルヴェナールだ。

 トリスタンはロバート・ディーン・スミス。正確かつ繊細なトリスタンだ。新国立劇場のときの骨太でパワフルなステファン・グールドとは好対照だ。ブランゲーネはミケーレ・ブリート。豊かな声の持ち主だが、新国立劇場のときのエレナ・ツィトコーワほどの個性はない。

 演出はクリストフ・マルターラー。全幕とも客船のなかで生起するが、その場所は各幕で異なる。第1幕は椅子が乱雑に散らばった船室。第2幕は広いガランとした船室。第3幕は船底の機械室。舞台装置と衣装はアンナ・フィーブロック。フィーブロック特有の、薄汚れて、ザラッとした現実感が、この舞台を支えている。

 第1幕と第2幕では特別なことは起こらない。ところどころにコミカルな動作があるが(とくにイゾルデ)、あまり本質的なものではなく、小手先だ。

 ところが第3幕になって、突然なにかが起きる。クルヴェナールは急に老けこんで、ヨタヨタ歩き回る。トリスタンは苦痛にあえぎながらイゾルデへの想いを歌い、床に倒れる。そこに現れたイゾルデは、すべてを諦めたように客観的で、妙によそよそしい。マルケ王、メロート、ブランゲーネが現れるが、皆一様に無表情だ。イゾルデの愛の死は、空っぽになったトリスタンのベッドに横たわり、頭からシーツをかぶって終わる。他の人たちは背を向けて、壁に向かって立ち、なんの感情も表さない。

 各人が他者との関係を拒み、内に引きこもってしまう幕切れ。これにはどんな意味があるのだろう。マルターラーにはなにかコンセプトがあるのは明らかだが、それが突然起きることが、理解を難しくさせている。いわば作品の内部からではなく、外部からある種のコンセプトを貼り付けたような感じだった。
(2011.8.22.バイロイト祝祭劇場)
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