Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

イロアセル

2011年10月19日 | 演劇
 新国立劇場の演劇「イロアセル」が始まった。若手劇作家、倉持裕(くらもちゆたか)の新作。これは演劇部門の芸術監督、宮田慶子の今シーズンのテーマ「[美×劇]―滅びゆくものに託した美意識」の第2弾だ。

 新作でしかも昨日が初日。これからご覧になるかたも多いので、具体的なディテールはできるだけ避けて、感想のみを。

 プログラムに載っている倉持裕と演出家、鵜山仁の往復書簡のなかで、鵜山仁はこう書いている。「さて、劇中、観客の感情移入の核心を、一体どのあたりに想定すればいいのか。それがここ数日の稽古場の難題です。この劇が、登場人物と、彼らを取り巻く世界の、何をどう崩壊させたか、何をどう生き延びさせたか?」。これは9月30日付、まさに新作の産みの苦しみにある稽古場の声だ。

 産み落とされた昨日は、主人公の「囚人」と島の娘「アズル」の対立が鮮明だった。島の住民たちはそれぞれ声に固有の色を持っている。ある人は黒、ある人は紫、ある人は茶という具合に。なので、どこでなにをいっても、たちどころにだれがいったのかわかってしまう。そのため皆、言動を慎み、調和を心がけている。「囚人」はそこに偽善を見出し、真実を暴くビラを発行する。「アズル」は発行をやめるよう迫る。

 本作は「滅び」の美学の一環だ。滅ぶのは「アズル」、滅ぼすのは「囚人」なので、感情移入は「アズル」に向かう。このへんはイプセンの「野鴨」に似ている(囚人=青年グレーゲルス、アズル=少女ヘドヴィク)。けれども、イプセンの場合はヘドヴィクが滅ぶが、本作の場合は幕切れに一捻りある。それは観てのお楽しみだ。

 一方、「美学」のほうはどうかというと、本作の前後に控える三島由紀夫の「朱雀家の滅亡」、泉鏡花の「天守物語」にくらべると心もとない。「おいおい、三島や鏡花とくらべるなよ」という声が聞こえてくるかもしれないが。

 不満が残ったのは、たとえば「アズル」と(カンチェラという架空のスポーツの)好敵手「ライ」の関係や、前科のある女「ナラ」のその前科など、本作にはいろいろ謎の部分があるが、それらが掘り下げられることなく、表面的に終わっていることだ。現実はそうだ、という主張かもしれないが、一言でいって、線の細さを感じた。

 「囚人」は藤井隆、「アズル」は加藤貴子、その他、個別の名は控えるが、役者さんは皆個性的だった。
(2011.10.18.新国立劇場小劇場)
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