新国立劇場の「イル・トロヴァトーレ」新制作。全体のレベルはヨーロッパの一流劇場並みだ。この先さらに抜きんでたものを目指すにしても、それは世界のトップクラスの話だ。ともかくこのレベルの公演が日常的に観られるようになったことは嬉しい。
マンリーコのヴァルテル・フラッカーロは強い声を聴かせてくれた。レオノーラのタマール・イヴェーリはヴェルディのレガートを楽しませてくれた。ルーナ伯爵のヴィットリオ・ヴィテッリはヴェルディ・バリトンとして十分な出来。アズチェーナのアンドレア・ウルブリッヒは暗めの声質がこの役にふさわしかった。
フェルランドの妻屋秀和はもうこの劇場の常連だ。ベテランで実力のある歌手が脇を固める――そういう歌手を何人か抱える劇場になったことは、開場以来の積み重ねの成果だ。
指揮はピエトロ・リッツォ。各曲の、あるいは曲の各部分のテンポに明確なイメージをもっていた。少しおとなしく感じることもあったが、テンポはけっして譲らない面があり、おとなしいだけの指揮者ではない。カーテンコールではブーイングをしている人が少しいたが、その意味はわからなかった。音楽的な能力が劣るとか、ブーイングを想定した挑発的な演出とか、なにかそういうことならわかるが、最近はよくわからないブーイングもある。
演出はウルリッヒ・ペータース。無理のあるこのオペラの筋書きを気にしないで観ることができた――これは希有な経験だ。思うにこれは、第一に個々の場面が明確な意図をもって作り込まれていたこと、第二に「死」の擬人化(黙役)を登場させることにより、全体を支配する見えない力を設定したことによる。
ウルリッヒ・ペータースはミュンヘンのゲルトナープラッツ劇場のインテンダント(総裁)を務めている人だ。バイエルン国立歌劇場が世界に向けて開かれた窓だとすれば、ゲルトナープラッツ劇場は地元の人々のための劇場だ。わたしが行ったときにはクルト・ヴァイルの「マハゴニー市の興亡」をやっていた。きびきびしたすばらしい上演だった。公演予定にはフィリップ・グラスの「アッシャー家の崩壊」が入っていたのを覚えている。ぜひこの劇場で観たいものだと思った。
美術・衣装はクリスティアン・フローレン、照明はゲルト・マイヤー。ともに美しかった。わたしは初めてこのオペラが全編「夜」であることに気が付いた。
(2011.10.5.新国立劇場)
マンリーコのヴァルテル・フラッカーロは強い声を聴かせてくれた。レオノーラのタマール・イヴェーリはヴェルディのレガートを楽しませてくれた。ルーナ伯爵のヴィットリオ・ヴィテッリはヴェルディ・バリトンとして十分な出来。アズチェーナのアンドレア・ウルブリッヒは暗めの声質がこの役にふさわしかった。
フェルランドの妻屋秀和はもうこの劇場の常連だ。ベテランで実力のある歌手が脇を固める――そういう歌手を何人か抱える劇場になったことは、開場以来の積み重ねの成果だ。
指揮はピエトロ・リッツォ。各曲の、あるいは曲の各部分のテンポに明確なイメージをもっていた。少しおとなしく感じることもあったが、テンポはけっして譲らない面があり、おとなしいだけの指揮者ではない。カーテンコールではブーイングをしている人が少しいたが、その意味はわからなかった。音楽的な能力が劣るとか、ブーイングを想定した挑発的な演出とか、なにかそういうことならわかるが、最近はよくわからないブーイングもある。
演出はウルリッヒ・ペータース。無理のあるこのオペラの筋書きを気にしないで観ることができた――これは希有な経験だ。思うにこれは、第一に個々の場面が明確な意図をもって作り込まれていたこと、第二に「死」の擬人化(黙役)を登場させることにより、全体を支配する見えない力を設定したことによる。
ウルリッヒ・ペータースはミュンヘンのゲルトナープラッツ劇場のインテンダント(総裁)を務めている人だ。バイエルン国立歌劇場が世界に向けて開かれた窓だとすれば、ゲルトナープラッツ劇場は地元の人々のための劇場だ。わたしが行ったときにはクルト・ヴァイルの「マハゴニー市の興亡」をやっていた。きびきびしたすばらしい上演だった。公演予定にはフィリップ・グラスの「アッシャー家の崩壊」が入っていたのを覚えている。ぜひこの劇場で観たいものだと思った。
美術・衣装はクリスティアン・フローレン、照明はゲルト・マイヤー。ともに美しかった。わたしは初めてこのオペラが全編「夜」であることに気が付いた。
(2011.10.5.新国立劇場)