チューリヒ歌劇場の「リゴレット」。2013年2月初演の新制作だ。舞台にあるのは長い机だけ。その机は3脚の事務用の机を並べて、白いシーツを掛けたもの。周囲には事務用の椅子が並べられている。こちら側に9脚、向こう側に9脚、そして左右両サイドに2脚ずつ。要するにこれだけの舞台。殺風景といえば殺風景だ。ガランとした舞台でオペラは進行する。
こういう舞台だが、オペラの進行に不足はなかった。むしろ不自然な箇所(たとえばリゴレットが、ジルダを誘拐しに来た廷臣たちに騙されて、目隠しをされて梯子を支える場面など)があっさり処理され、気にならない利点があった。
利点といえば、最大の利点は、音楽に集中できたことだ。シンプル極まる舞台で滑らかに進行するので、ストーリーは――視覚情報よりも――想像力にゆだねられ、関心はむしろ音楽に集中する結果になった。
音楽に集中すると、今更ながらこれは傑作だと思った――そんなことをいうこと自体間が抜けているかもしれないが――。ことに第1幕第2場で自宅に戻ったリゴレットがジルダと交わす二重唱――リゴレットの旋律線とジルダのそれとの明暗の交錯――に、第3幕のリゴレット、ジルダ、マントヴァ公、マッダレーナの四重唱の予告を感じた。
そうか、あの四重唱は突然生まれたのではなく、音楽的な進行の帰結だったのかと思った。生まれるべくして生まれたというか、もっというなら、このオペラはあの四重唱に向けて高まり、その後急速に下降する構造なのだと思った。
こんなことは素人のたわごとかもしれないが、わたしはそう思った。そして初めてこのオペラを把握できた気がした。今まではストーリーを追っているだけで、音楽をしっかり聴いていなかったと反省した。
演出はタチヤナ・ギュルバカTatjana Guerbaca。ドイツのマインツ劇場でオペラ監督をしているそうだ。指揮はファビオ・ルイジ。CD的な完璧性を求めた指揮ではなく、劇場的な熱い指揮だった。音楽を激しく追い込んでいく指揮。
リゴレットはクィン・ケルシーQuinn Kelsey(同行者二人が口をそろえて「西田敏行に似ている」といっていた。たしかにそういわれてみると……)。ジルダは予定されていた歌手が急病とかで、ローザ・フェオラRosa Feolaに代わった。1986年生まれの若い歌手。満場の喝さいを浴びていた。マントヴァ公はサイミール・ピルグSaimir Pirgu。この役にしては生真面目だった。
(2013.7.13.チューリヒ歌劇場)
こういう舞台だが、オペラの進行に不足はなかった。むしろ不自然な箇所(たとえばリゴレットが、ジルダを誘拐しに来た廷臣たちに騙されて、目隠しをされて梯子を支える場面など)があっさり処理され、気にならない利点があった。
利点といえば、最大の利点は、音楽に集中できたことだ。シンプル極まる舞台で滑らかに進行するので、ストーリーは――視覚情報よりも――想像力にゆだねられ、関心はむしろ音楽に集中する結果になった。
音楽に集中すると、今更ながらこれは傑作だと思った――そんなことをいうこと自体間が抜けているかもしれないが――。ことに第1幕第2場で自宅に戻ったリゴレットがジルダと交わす二重唱――リゴレットの旋律線とジルダのそれとの明暗の交錯――に、第3幕のリゴレット、ジルダ、マントヴァ公、マッダレーナの四重唱の予告を感じた。
そうか、あの四重唱は突然生まれたのではなく、音楽的な進行の帰結だったのかと思った。生まれるべくして生まれたというか、もっというなら、このオペラはあの四重唱に向けて高まり、その後急速に下降する構造なのだと思った。
こんなことは素人のたわごとかもしれないが、わたしはそう思った。そして初めてこのオペラを把握できた気がした。今まではストーリーを追っているだけで、音楽をしっかり聴いていなかったと反省した。
演出はタチヤナ・ギュルバカTatjana Guerbaca。ドイツのマインツ劇場でオペラ監督をしているそうだ。指揮はファビオ・ルイジ。CD的な完璧性を求めた指揮ではなく、劇場的な熱い指揮だった。音楽を激しく追い込んでいく指揮。
リゴレットはクィン・ケルシーQuinn Kelsey(同行者二人が口をそろえて「西田敏行に似ている」といっていた。たしかにそういわれてみると……)。ジルダは予定されていた歌手が急病とかで、ローザ・フェオラRosa Feolaに代わった。1986年生まれの若い歌手。満場の喝さいを浴びていた。マントヴァ公はサイミール・ピルグSaimir Pirgu。この役にしては生真面目だった。
(2013.7.13.チューリヒ歌劇場)