Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ワルキューレ

2016年10月03日 | 音楽
 新国立劇場の「ワルキューレ」初日を観た。昨年の「ラインの黄金」が低調だったので、危惧の念を抱きながらの鑑賞になった。

 第1幕冒頭の嵐の音楽が始まると、飯守泰次郎の指揮から気迫が伝わってきた。まずはホッとした。だが、ステファン・グールドのジークムントとジョゼフィーネ・ウェーバーのジークリンデの2重唱には生気が欠けた。指揮者の遅いテンポ設定にも一因がありそうだった。アルベルト・ペーゼンドルファーのフンディングはよかった。でも、それだけでは支えきれなかった。

 第2幕に入ると、グリア・グリムスレイのヴォータンの登場によって、舞台は俄然生気を帯びた。エレナ・ツィトコーワのフリッカもよかった(ツィトコーワは新国立劇場のアイドルだ)。イレーネ・テオリンのブリュンヒルデは、いつになく声を抑え気味だったが、弱音のコントロールが効いていた。ウェーバーのジークリンデが迫真性を増した。

 第3幕では、日本人歌手によるワルキューレたちには迫力が欠けたが、グリムスレイのヴォータン、テオリンのブリュンヒルデが密度の濃い舞台を繰り広げた。

 ゲッツ・フリードリヒの演出については、第3幕のヴォータンとブリュンヒルデの長い2重唱の中の、ヴォータンが真情を吐露する箇所で、2人が腰を下ろす演出にハッとした。ヴォータンが神としての上からの目線を捨てて、父としての目線を得る演出だ。父と娘が同じ目線で語り合う演出に胸を打たれた。

 「ワルキューレ」はブリュンヒルデの成長物語といわれることがあるが、それと同時にヴォータンの成長物語でもあることを、この演出で感じた。ブリュンヒルデとヴォータンの2つの成長の芽が交錯する。次の「ジークフリート」以下ではブリュンヒルデの芽が育つ。

 ゴットフリート・ビルツの美術と衣装、キンモ・ルスケラの照明は、美しくて、かつインパクトがあった。演出ともどもフィンランド国立歌劇場からのレンタルだ。同じ劇場からのレンタルだったコルンゴルトの「死の都」(2014年3月)の舞台を彷彿とさせた。

 第3幕の、飛行場の滑走路の先のような、トンネルの奥のような、あるいはヴォータンの眼の底のような、そんな空間に浮いていた透明な円筒形は何を象徴しているのだろう。光を乱反射して美しかった。そういえば「ラインの黄金」も幕切れの照明が美しかったことを思い出した。
(2016.10.2.新国立劇場)
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