わたしは高校生から大学生の頃は文学青年だった。最初は夏目漱石から入り、やがて川端康成に移り、高校を卒業する頃には大江健三郎、井上光晴、ドストエフスキーを読むようになった。だが、大学を出て就職してからは、文学を読む余裕がなくなった。わたしの文学遍歴は就職と同時に途絶えた。
先日、神奈川近代文学館で開催中の「井上光晴展」のチラシを見かけたときには、なんだか懐かしかった。井上光晴(1926‐1992)は大学卒業後40年余り、まったく読んでいなかったが(井上光晴にかぎらず、他の作家もそうだが)、かつての文学青年の残り火がポッと燃えたような気がした。
そのチラシで井上光晴には原発をテーマにした「西海原子力発電所」という小説があることを知った。1986年(昭和61年)刊行で、わたしはすでに就職していたので、その小説の存在を知らなかった。ほんとうに久しぶりに(40年余りの年月を隔てて)井上作品=その小説を読んでみた。
玄海原発をモデルにした‘西海原発’をめぐる人々の軋轢、葛藤、憎み合いその他の(殺人を含む)物語だ。興味深い点は、本作の執筆中にチェルノブイリ原発事故が起こり、当初は原子炉爆発によって飛散した放射能が空を被う「青白い恐怖の情景を幾重にも重ねていた」構想が、現実が虚構を追い抜いてしまったので、筋書きを変えざるを得なかったという点だ。
結果としては奇妙に捻じ曲がった作品になったが、原発文学の可能性をはらんでいる点で興味深く、また虚構と現実との関係でも興味深いと思った。
井上光晴はその3年後の1989年(平成元年)に、使用済み核燃料を輸送中のトレーラーが事故を起こすという小説「輸送」を書いた。わたしは未読だが、「西海原子力発電所」を考える上でも、いずれ読んでみたいと思った。
そんなことを考えながら出かけた「井上光晴展」には、わたしが持っていた単行本や作品集、また(井上光晴が編集した)文芸誌「辺境」などが展示されていた。それらの書籍はわたしが就職後、結婚し、何度となく引っ越している間に、いつの間にか失くしてしまったものだ。それらの書籍を見ていると、文学青年だった頃の記憶が蘇ってきた。
当日は東日本大震災から6年目の日だった。午後2時46分に同文学館がある「港の見える丘公園」で黙とうをした。
(2017.3.11.県立神奈川近代文学館)
先日、神奈川近代文学館で開催中の「井上光晴展」のチラシを見かけたときには、なんだか懐かしかった。井上光晴(1926‐1992)は大学卒業後40年余り、まったく読んでいなかったが(井上光晴にかぎらず、他の作家もそうだが)、かつての文学青年の残り火がポッと燃えたような気がした。
そのチラシで井上光晴には原発をテーマにした「西海原子力発電所」という小説があることを知った。1986年(昭和61年)刊行で、わたしはすでに就職していたので、その小説の存在を知らなかった。ほんとうに久しぶりに(40年余りの年月を隔てて)井上作品=その小説を読んでみた。
玄海原発をモデルにした‘西海原発’をめぐる人々の軋轢、葛藤、憎み合いその他の(殺人を含む)物語だ。興味深い点は、本作の執筆中にチェルノブイリ原発事故が起こり、当初は原子炉爆発によって飛散した放射能が空を被う「青白い恐怖の情景を幾重にも重ねていた」構想が、現実が虚構を追い抜いてしまったので、筋書きを変えざるを得なかったという点だ。
結果としては奇妙に捻じ曲がった作品になったが、原発文学の可能性をはらんでいる点で興味深く、また虚構と現実との関係でも興味深いと思った。
井上光晴はその3年後の1989年(平成元年)に、使用済み核燃料を輸送中のトレーラーが事故を起こすという小説「輸送」を書いた。わたしは未読だが、「西海原子力発電所」を考える上でも、いずれ読んでみたいと思った。
そんなことを考えながら出かけた「井上光晴展」には、わたしが持っていた単行本や作品集、また(井上光晴が編集した)文芸誌「辺境」などが展示されていた。それらの書籍はわたしが就職後、結婚し、何度となく引っ越している間に、いつの間にか失くしてしまったものだ。それらの書籍を見ていると、文学青年だった頃の記憶が蘇ってきた。
当日は東日本大震災から6年目の日だった。午後2時46分に同文学館がある「港の見える丘公園」で黙とうをした。
(2017.3.11.県立神奈川近代文学館)