新国立劇場の演劇部門が新たに立ち上げた「かさなる視点―日本戯曲の力―」シリーズ。昭和30年代の戯曲3本に3人の30代の演出家が挑む企画。その第1弾として三島由紀夫の「白蟻の巣」(昭和30年、1955年初演)が谷賢一(1982年生まれ)の演出で上演されている。
敗戦から10年たち、高度経済成長の上昇気流に乗り始めた時期に、日本社会はどんな問題を抱えていたのか。それは解決されたのか。あるいは解決されずに、今もなお引きずっているのか。そういった観点から当時の芝居を見てみる企画だ。
「白蟻の巣」は三島由紀夫が「潮騒」で一躍ベストセラー作家となったその翌年に書いた戯曲だ。それ以前にも「近代能楽集」に収められている短い戯曲をいくつも書いているので、戯曲の経験は十分積んでいたといってもよい。ともかくいかにも三島由紀夫らしい芝居だ。
場所はブラジルなので、三島由紀夫としては特殊な設定だが、そこで展開される人々の葛藤はいかにも三島由紀夫の世界だ。元華族と思われる虚無的な刈屋義郎(コーヒー農園の経営者)。不倫に溺れるその妻、妙子。1年前に妙子と心中未遂事件を起こした百島建次(刈屋義郎の使用人)。その妻でまだ20歳の啓子。その他の登場人物が2人。
刈屋義郎の虚無性が作る強い磁場に、妙子と百島建次が絡めとられ、逃れることができない。啓子はその磁場を突き崩そうとして、奇妙な計画を実行に移すが、それは思いがけない展開を生み、結末は二転三転する。
本作の基調をなす虚無性、観念性、官能性といった要素は、いかにも三島由紀夫の世界だと思うのだが、この公演にはそれらの要素があまり感じられず、むしろ今の社会の等身大の感覚で演じられてしまったように感じる。三島由紀夫の毒のようなものは希薄だった。
その原因がどこにあったのか。演出か、役者か、それは今のわたしには分からないが、一応感想だけを記すと、妙子を演じた安蘭けいは、時に物々しさが出る口調が興をそいだ。刈屋義郎を演じた平田満は、寛大さによる支配という重圧感に欠けた。百島建次を演じた石田佳央は、存在感が弱かった。以上の3人の世界と観客との仲介者的な存在の啓子を演じた村川絵梨は、一番自然体で演じられる役回りだったようだ。
わたしは昭和30年代の観客になったつもりで観てみようと試みたが、それは難しかった。
(2017.3.7.新国立劇場小劇場)
敗戦から10年たち、高度経済成長の上昇気流に乗り始めた時期に、日本社会はどんな問題を抱えていたのか。それは解決されたのか。あるいは解決されずに、今もなお引きずっているのか。そういった観点から当時の芝居を見てみる企画だ。
「白蟻の巣」は三島由紀夫が「潮騒」で一躍ベストセラー作家となったその翌年に書いた戯曲だ。それ以前にも「近代能楽集」に収められている短い戯曲をいくつも書いているので、戯曲の経験は十分積んでいたといってもよい。ともかくいかにも三島由紀夫らしい芝居だ。
場所はブラジルなので、三島由紀夫としては特殊な設定だが、そこで展開される人々の葛藤はいかにも三島由紀夫の世界だ。元華族と思われる虚無的な刈屋義郎(コーヒー農園の経営者)。不倫に溺れるその妻、妙子。1年前に妙子と心中未遂事件を起こした百島建次(刈屋義郎の使用人)。その妻でまだ20歳の啓子。その他の登場人物が2人。
刈屋義郎の虚無性が作る強い磁場に、妙子と百島建次が絡めとられ、逃れることができない。啓子はその磁場を突き崩そうとして、奇妙な計画を実行に移すが、それは思いがけない展開を生み、結末は二転三転する。
本作の基調をなす虚無性、観念性、官能性といった要素は、いかにも三島由紀夫の世界だと思うのだが、この公演にはそれらの要素があまり感じられず、むしろ今の社会の等身大の感覚で演じられてしまったように感じる。三島由紀夫の毒のようなものは希薄だった。
その原因がどこにあったのか。演出か、役者か、それは今のわたしには分からないが、一応感想だけを記すと、妙子を演じた安蘭けいは、時に物々しさが出る口調が興をそいだ。刈屋義郎を演じた平田満は、寛大さによる支配という重圧感に欠けた。百島建次を演じた石田佳央は、存在感が弱かった。以上の3人の世界と観客との仲介者的な存在の啓子を演じた村川絵梨は、一番自然体で演じられる役回りだったようだ。
わたしは昭和30年代の観客になったつもりで観てみようと試みたが、それは難しかった。
(2017.3.7.新国立劇場小劇場)