東京・春・音楽祭でエリーザベト・クールマンの独唱会を聴いた。好奇心をそそるプログラム。前半はシューベルトの歌曲を何曲か続けた後に、現代オーストリアの作曲家ヘルヴィック・ライターHerwig Reiter(1941‐)の歌曲を1曲入れ、またシューベルトの歌曲に戻って、次にまたライターというパターンを繰り返すもの。
このように交互に歌われると、各々の特徴が際立ち、一種の(よい意味での)批評性が生まれる効果があった。わたしはシューベルトのよさを改めて認識し、またライターという未知の作曲家の歌曲に耳を澄ました。
シューベルトの歌曲は比較的地味なものが選ばれたが、どの曲にもシューベルトらしさが滲み出ていた。一方、ライターの歌曲は、詩の抑揚や陰影が細かく辿られているのではないかと想像される曲だった。
ライターの歌曲は「皆で同じ列車に乗って」という歌曲集から抜粋されたもの。一風変わった題名だが、この題名はドイツの作家・詩人のエーリッヒ・ケストナー(1899‐1974)の詩の一節からとられたものだそうだ。
ケストナーというと、わたしは児童文学の「飛ぶ教室」などを思い出すが、大人向けの小説や詩も書いていたようだ。ナチス政権下で弾圧にあい、焚書の対象にもなったが、それに屈せずに生き延び、戦後は西ドイツの文壇で重きをなした。当夜歌われた「皆で同じ列車に乗って」の中の1曲「不信任決議」は、ナチスへのアイロニカルな抵抗の詩だ。
プログラム後半は、まずリストの「ペトラルカの3つのソネット」。リストの中でも名曲で、聴き応え十分だが、面白いことに、クールマンの歌で聴くと、リストの甘美さやイタリア語のラテン的な語感よりも、精神的な強さや逞しさが前面に出て、わたしはクールマンの強靭な声に圧倒された。
最後はブリテンの「4つのキャバレー・ソング」。ブリテンにこういう曲があるとは驚きだ。プログラムノートには作曲年代が書いてなかったが、W.H.オーデンの詩に付曲しているので、同じくオーデンの台本によるオペラ「ポール・バニヤン」(1941)と同じ頃かもしれない。クールマンの濃厚な表情付けに翻弄された。
アンコールにはシェーンベルクのキャバレー・ソングを期待したが、シューベルト、リスト、ライターが各1曲ずつという、当夜のプログラムを凝縮したような選曲だった。
(2017.4.7.東京文化会館小ホール)
このように交互に歌われると、各々の特徴が際立ち、一種の(よい意味での)批評性が生まれる効果があった。わたしはシューベルトのよさを改めて認識し、またライターという未知の作曲家の歌曲に耳を澄ました。
シューベルトの歌曲は比較的地味なものが選ばれたが、どの曲にもシューベルトらしさが滲み出ていた。一方、ライターの歌曲は、詩の抑揚や陰影が細かく辿られているのではないかと想像される曲だった。
ライターの歌曲は「皆で同じ列車に乗って」という歌曲集から抜粋されたもの。一風変わった題名だが、この題名はドイツの作家・詩人のエーリッヒ・ケストナー(1899‐1974)の詩の一節からとられたものだそうだ。
ケストナーというと、わたしは児童文学の「飛ぶ教室」などを思い出すが、大人向けの小説や詩も書いていたようだ。ナチス政権下で弾圧にあい、焚書の対象にもなったが、それに屈せずに生き延び、戦後は西ドイツの文壇で重きをなした。当夜歌われた「皆で同じ列車に乗って」の中の1曲「不信任決議」は、ナチスへのアイロニカルな抵抗の詩だ。
プログラム後半は、まずリストの「ペトラルカの3つのソネット」。リストの中でも名曲で、聴き応え十分だが、面白いことに、クールマンの歌で聴くと、リストの甘美さやイタリア語のラテン的な語感よりも、精神的な強さや逞しさが前面に出て、わたしはクールマンの強靭な声に圧倒された。
最後はブリテンの「4つのキャバレー・ソング」。ブリテンにこういう曲があるとは驚きだ。プログラムノートには作曲年代が書いてなかったが、W.H.オーデンの詩に付曲しているので、同じくオーデンの台本によるオペラ「ポール・バニヤン」(1941)と同じ頃かもしれない。クールマンの濃厚な表情付けに翻弄された。
アンコールにはシェーンベルクのキャバレー・ソングを期待したが、シューベルト、リスト、ライターが各1曲ずつという、当夜のプログラムを凝縮したような選曲だった。
(2017.4.7.東京文化会館小ホール)