Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

アラン・ギルバート/都響

2017年04月19日 | 音楽
 アラン・ギルバートが都響に客演して、ジョン・アダムズ(1947‐)の新作「シェヘラザード.2」(2014年世界初演、「シェヘラザード・ポイント・トゥー」と読むそうだ)を日本初演した。

 世界初演のときも指揮はギルバート、オーケストラはニューヨーク・フィル。同曲は独奏ヴァイオリンを伴うが、独奏者は世界初演も今回もリーラ・ジョゼフォウィッツ。すでにロンドン響、アムステルダム・コンセルトヘボウ管、ベルリン・フィルなどでも演奏されている。独奏者はいずれもジョゼフォウィッツだ。

 リムスキー=コルサコフの「シェヘラザード」を下敷きにした曲だが(もっとも、全4楽章のうち、スケルツォ楽章と緩徐楽章とは順番が逆になっている)、それはジョン・アダムズがリムスキー=コルサコフの曲を‘リコンポーズ’したのではなく、現代社会の問題を扱うドラマのベースにしているということだ。

 では、現代社会の問題とは何かというと、女性に対する抑圧、強制、暴力といった事象だ。ジョン・アダムズはアラブの男性中心社会を念頭に置いているが、それがアラブ社会に留まらないことは、もちろん十分承知の上だ。

 全4楽章を通して、女性に対する迫害(第1楽章)、愛の場面(第2楽章)、原理主義者による宗教裁判(第3楽章)、女性の逃亡(第4楽章)が描かれ、ジョン・アダムズのストーリーテリングのうまさに惹きこまれる。

 女性は逃亡して‘聖域’に到達するが、そのときわたしは戸惑いを感じた。‘聖域’は現実のものか、それとも死の前の幻影か。リムスキー=コルサコフの場合は、船の難破というカタストロフィーの後に平穏が訪れるが、ジョン・アダムズの場合はカタストロフィーがないので、わたしの戸惑いはそのドラマトゥルギーの違いに起因するのかもしれない。

 演奏は、ジョゼフォウィッツのヴァイオリン独奏が、鋭い悲鳴から静かな瞑想まで、余すところなく描ききり、またオーケストラも確信を持った演奏を展開した。なお、オーケストラにはツィンバロンが加わり、縦横無尽の活躍を見せたが、一昔前にはコダーイの「ハーリ・ヤーノシュ」くらいしか出番がなかったこの楽器、近年復権が目覚しいのはなぜだろうと思った。

 プログラム1曲目にはラヴェルの「マ・メール・ロワ」が演奏された。艶やかな音色が柔和なテクスチェアを織り、メルヘンの世界を現出した。
(2017.4.18.東京オペラシティ)
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