ケストナー(1899‐1974)の「飛ぶ教室」(1933年)のみずみずしい感性に感銘を受け、また教えられることが多かったので、他の作品も読んでみようと思った。まず読んだのは「エーミールと探偵たち」(1929年)と「ふたりのロッテ」(1949年)。ともにワクワク、ドキドキしながら読んだ。
両作品はある面で対照的だった。ケストナーの児童文学第一作の「エーミールと探偵たち」は、徹底して子どもたちの目線で書かれている。子どもたちの不安と冒険心、そして大人たちへの警戒心など、子どもたちの世界で完結する。大人の「上から目線」は入り込む隙がない。それは潔いくらいだ。
一方、「ふたりのロッテ」は、子どもたちの大活躍によって変わる大人たちの物語だ。子どもたちの喜び、失望、そして絶望的な行動によって、大人たちが自らの至らなさに気付き、また自分を取り戻す。それは大人たちの成長物語だ。
「ふたりのロッテ」は戦後発表された。わたしは同書が、戦争中はナチスから執筆禁止の迫害を受けたケストナーが、戦争が終わって、自由の空気を胸いっぱいに吸い込んで書いた作品だと思った。だが、解説を読んで、それが戦争中に映画の脚本用に書かれたことを知った。映画は制作されなかったので、その脚本を戦後になって児童文学として発表したものだった。
著書がナチスの焚書の対象になるなど、弾圧下にあったケストナーが、よくあれほど明るい、清新な、人間への愛と信頼に満ちた作品を書けたものだと驚くほかはない。おそらくケストナーの強靭な精神力の表れなのだろう。
わたしはさらに、児童文学以外にも、大人向けの「家庭薬局―ケストナー博士の抒情詩」と「ケストナーの終戦日記―1945年、ベルリン最後の日」を拾い読みした。どちらもおもしろかった。たとえば、終戦日記の中では、ケストナーがベルリンで目撃した水晶の夜(1938年)に触れて、同事件がナチスの自作自演だったことが生々しく語られていた。
ケストナーはドレスデンのノイシュタット地区で生まれ育った。ドレスデンはわたしの好きな街で、何度か行ったことがある。わたしが歩き回るのは、歌劇場や美術館がある旧市街のほうだが、あるときエルベ川を渡って、ノイシュタット地区に足を踏み入れたことがある。そのとき、ケストナーの記念館か何かの方向を示す標識を目にした。
わたしは当時ケストナーの作品を読んでいなかったので、標識が示す方向へは行かなかった。今なら行ったのに、と悔やまれる。
両作品はある面で対照的だった。ケストナーの児童文学第一作の「エーミールと探偵たち」は、徹底して子どもたちの目線で書かれている。子どもたちの不安と冒険心、そして大人たちへの警戒心など、子どもたちの世界で完結する。大人の「上から目線」は入り込む隙がない。それは潔いくらいだ。
一方、「ふたりのロッテ」は、子どもたちの大活躍によって変わる大人たちの物語だ。子どもたちの喜び、失望、そして絶望的な行動によって、大人たちが自らの至らなさに気付き、また自分を取り戻す。それは大人たちの成長物語だ。
「ふたりのロッテ」は戦後発表された。わたしは同書が、戦争中はナチスから執筆禁止の迫害を受けたケストナーが、戦争が終わって、自由の空気を胸いっぱいに吸い込んで書いた作品だと思った。だが、解説を読んで、それが戦争中に映画の脚本用に書かれたことを知った。映画は制作されなかったので、その脚本を戦後になって児童文学として発表したものだった。
著書がナチスの焚書の対象になるなど、弾圧下にあったケストナーが、よくあれほど明るい、清新な、人間への愛と信頼に満ちた作品を書けたものだと驚くほかはない。おそらくケストナーの強靭な精神力の表れなのだろう。
わたしはさらに、児童文学以外にも、大人向けの「家庭薬局―ケストナー博士の抒情詩」と「ケストナーの終戦日記―1945年、ベルリン最後の日」を拾い読みした。どちらもおもしろかった。たとえば、終戦日記の中では、ケストナーがベルリンで目撃した水晶の夜(1938年)に触れて、同事件がナチスの自作自演だったことが生々しく語られていた。
ケストナーはドレスデンのノイシュタット地区で生まれ育った。ドレスデンはわたしの好きな街で、何度か行ったことがある。わたしが歩き回るのは、歌劇場や美術館がある旧市街のほうだが、あるときエルベ川を渡って、ノイシュタット地区に足を踏み入れたことがある。そのとき、ケストナーの記念館か何かの方向を示す標識を目にした。
わたしは当時ケストナーの作品を読んでいなかったので、標識が示す方向へは行かなかった。今なら行ったのに、と悔やまれる。