Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

追悼 ペンデレツキ

2020年04月09日 | 音楽
 3月29日にポーランドの作曲家ペンデレツキ(1933‐2020)が亡くなった。享年86歳。日本人には「広島の犠牲者に捧げる哀歌」(1960年)で鮮烈なデビューを飾ったが、後年その題名は、当初は「8分37秒」だったが、ポーランドのオーケストラの日本公演用に改題したものだったことがわかり、わたしたちを落胆させた。だが、考えてみると、「広島の‥」への改題はプロモーション的にはあり得ることだった。別に目くじら立てることでもなかったかもしれない。

 その「広島の‥」を2018年9月にカンブルラン指揮の読響が演奏した。それは呆気にとられるくらいエモーショナルな要素を排除した演奏だった。わたしには前衛的な実験作のように聴こえた。この曲の真の姿を見た思いがした。

 ペンデレツキは指揮者としても活動した。わたしはその指揮を5度聴いた。そのうちの2度は自作のヴァイオリン協奏曲第2番「メタモルフォーゼン」(1992‐95年)を指揮した。1度目は1999年11月に日本フィルを指揮したもの。ヴァイオリン独奏は諏訪内晶子で、オーケストラ共々、気迫に富んだ演奏だった。2度目は2019年6月に都響を指揮したもの。ヴァイオリン独奏は庄司紗矢香で、それはよかったが、オーケストラは精彩がなかった。いま思うと、その頃ペンデレツキはもう大分弱っていたのかもしれない。

 わたしが聴いた5度の演奏会では、ペンデレツキはベートーヴェンの交響曲第7番を2度、メンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」を2度、そしてドヴォルジャークの交響曲第8番を振った。いずれも古き良き時代のヨーロッパを思わせる指揮だった。前衛作曲家のイメージとは乖離していた。最初は戸惑ったが、だんだん慣れた。ペンデレツキとはそういう人なのだと。

 よく言われるが、当初ペンデレツキは前衛作曲家として出発したが、1970年代から新ロマン主義の作風に転換した。興味深い点は、その転換が武満徹(1930‐1996)と軌を一にすることだ。武満徹も前衛作曲家として出発したが、1970年代に「タケミツ・トーン」の作風を確立した。

 武満徹は「比喩的に言えば生涯ただひとつの「歌」を歌い続けた」(林光「現代作曲家探訪記」所収「回想 武満徹」)が、ペンデレツキはマーラー、ショスタコーヴィチに連なる交響曲作曲家に変貌した。交響曲以外にも記念碑的な傑作「ポーランド・レクイエム」や多数の協奏曲を書いたが、その生涯を特徴づけるものは全8曲の交響曲だろう。なかでも第7番「イェルサレムの7つの門」(1995‐96年)と第8番「はかなさの歌」(2005年)はその到達点だ。ペンデレツキは思いがけない所に着地した。
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