Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

加藤陽子「戦争まで」

2021年01月24日 | 読書
 日本学術会議への人事介入問題で任命拒否された6人のうちの一人、加藤陽子東京大学教授の「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」(2010年第9回小林秀雄賞受賞)を読んで、とてもおもしろかったので、引き続きその続編の「戦争まで」(2017年第7回紀伊国屋じんぶん大賞受賞)を読んだ。これはもっとおもしろかった。

 「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」が、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、日中戦争そして太平洋戦争と続く日本の近現代史の通史であったのにたいして、「戦争まで」は太平洋戦争にいたる過程に焦点を絞り、(結果的に太平洋戦争は起きてしまったが)その前段でのリットン報告書(1932年10月)、日独伊三国軍事同盟(1940年9月)そして日米交渉(1941年4月~11月)とはなんであったかを深掘りする。

 本書を読むと、太平洋戦争はけっして必然的に起きたのではなく、そこにいたるまでに無数の分岐点があり、一つひとつの(偶然に左右された面もある)選択の結果、ほとんどありえない確率で起きてしまったと思えてくる。

 分岐点の例は枚挙にいとまがないが、一つあげると、上記の日米交渉でアメリカのローズベルト大統領と日本の近衛文麿首相は、戦争回避のために、最後の局面打開策として日米首脳会談の開催に合意した。ところがその情報がアメリカの新聞にもれ、日本でも報道されると、国家主義団体が強く反発して、テロまで起きる騒ぎになり、日米首脳会談は実現しなかった。日本に蔓延する国家主義がすでに政府の制御を超えていた一例だろう。

 太平洋戦争はその約3か月後に起きた。もし日米首脳会談が実現していれば‥と考えることは無駄ではない。「歴史に『もし』はない」とよくいわれるが、そのような考え方は古くて、『もし』は将来の役に立つと、本書のどこかに書いてあった(ような気がする)。『もし』を考えることは、今後多くの選択肢を冷静に考える場合の訓練になると。

 本書でわたしが学んだ点は、上記のことのほかに、あと2点ある。一つは「事実は〇〇ではなかった」ということだ。その○○には多くの事象が入る。たとえば「リットン報告書は中国寄りではなかった」とか、「日独伊三国軍事同盟は、破竹の進撃を続けるドイツ軍を見て、『バスに乗り遅れるな』と結んだ同盟ではない(真の目的は別にあった)」とかだ。本書では史料を読みこみながらそれらを検証する。なるほど、そうだったのかと腑に落ちる。

 もう一つは、日本人は受動的な言い方を好むということだ。たとえば「○○が××したから止むを得ず開戦に踏み切った」のような受動的な言い方は、事実とは微妙に異なるのだが、日本人には好まれる。なので、為政者は多用する。それはいまも変わっていない。
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