Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ポール・オースター「オラクル・ナイト」

2021年03月23日 | 読書
 友人と隔月で開いている読書会は、コロナ禍のために、昨年3月からはメールで済ませているが、それでも続いている。テーマ作品は交互に決めている。今月は友人の番でポール・オースターの「オラクル・ナイト」(柴田元幸訳、新潮社刊)になった。わたしは著者も作品名も知らなかった。そこでこれも一興と、なにも調べずに、いきなり読み始めた。未知の作品との出会いも読書会の楽しみのひとつだ。

 読み始めてまずわかったことは、舞台がニューヨークということ。主人公の「私」はマンハッタンから川を一本隔てたブルックリン地区に住んでいる。名前はシドニー・オア。若手の作家だ。シドニー(愛称:シド)には妻がいる。名前はグレース。出版社のデザイナーをしている。シドは小説「架空の弟との自画像」の出版のために、その出版社を訪れ、グレースに出会った。やがて二人は結婚して幸せに暮らしている。

 ――というのが物語の前提だ。なんの変哲もない設定だが、ひとつだけ奇妙な点があるとすると、それは「架空の弟との自画像」という題名だ。「私」と架空の弟との二重肖像画だが、なぜ架空の弟を加えるのか。その架空の弟とはどんな存在なのか。「私」の内面のなにかを表象するのだろうが、それはなにか。じつは「架空の弟との自画像」という題名は第二次世界大戦後のアメリカで起きた抽象表現主義の画家のひとり、ウィレム・デ・クーニングの鉛筆ドローイングの題名にあるらしいが、それはどんな作品か。

 その「私」と架空の弟との二重性は本作の特異な構造を象徴する。本作は大小さまざまな二重構造からなっている。言い換えると、イメージや出来事が繰り返される。本作の前半では「私」はリアルな生活を送る一方で、ノートに小説の構想を書き進む。そのリアルな生活と小説の構想とが奇妙な相似形をなす。読者はいま読んでいる部分が「私」のリアルな生活か、ノートに書き進められている小説の構想か、混乱する仕掛けになっている。

 後半は一気に進む。正直にいうと、わたしはリアルな生活と小説の構想とが迷路に入って行き詰り、閉塞状態で終わることを期待した面がある。だが、作者はそれを明快に否定し、決着をつける。プロの作家(ポール・オースターは人気作家らしい)とはそういうものかもしれない。

 で、物語は終わるが、その終わり方にも二重構造が秘められている。物語は1982年9月18日に始まり、それから数日間の出来事を追う。何月何日、何時何分と明確に書かれている(それは場所がニューヨークの何地区の何通りと明確に書かれていることとパラレルだ)。ところが「私」が物語を書いているのは、約20年後の「今」だ。約20年の間になにが起きたか。それはなにも書かれていない。「私」も妻も物語の前と後とで同じであるはずはない。では、二人はその後どうなったか。読者の思いは空をさまよう。
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