前にも書いたことがあるが、今年の3月11日は被災地で過ごそうと思っていた。だが、おりしも感染拡大の真最中だったので、それは断念した。家でじっと過ごすうちに、東日本大震災を契機に書かれた文学を読んでみようと思い立った。そのときわたしの念頭にあったのは、いとうせいこうの「想像ラジオ」と多和田葉子の「献灯使」だった。さっそく「想像ラジオ」を読み、感動したわたしは、いとうせいこうの新作「福島モノローグ」も読み、同様に感銘を受けた。
次に「献灯使」を読んだ。「献灯使」はディストピア小説といわれるが、その一言では括れない要素があることに気付き、その要素にわたしの内面が掻き立てられた。
本作に原発事故という言葉が出てくるわけではないが、明らかに原発事故により、東京23区が壊滅状態になっている。人々は東京の「西域」から長野にかけて移住している。東京の「西域」でも土壌の汚染が進む。食料の流通が滞る。テレビも電話も自動車も使えない。そんな環境のなかで人々は暮らしている。そのひとりの100歳を超える義郎(よしろう)と、曾孫でまだ10代の無名(むめい)の物語が本作だ。
放射性物質の影響だろうか、原発事故の前に生まれた人(=義郎)は、いつまでたっても死ねない。一方、原発事故の後に生まれた人(=無名)は、長生きできずに、早死にする。しかも原発事故の後に生まれた人は、骨や筋肉が極端に弱い。人類は別の生物に(たとえば蛸とか鳥とかに)変化する過程にあるように見える。
だが、それは退化だろうか。義郎が無名を見ていると、無名にはなにか新しい能力が備わっているように見える。たとえば義郎が考えていることを、無名はまるで本を読むようにはっきり理解する。ひょっとすると、新しい人類の誕生かもしれない。無名の世代のすべてがそうだとはいえないが、例外的に存在する新人類のひとりが無名だ。
一方、社会に目を転じると、日本は鎖国政策をとっている。江戸時代のようでもあるが、現代でも近隣の某国のように鎖国政策をとっている国は存在するので、現実性がないわけではない。しかも近隣の某国のように全体主義国家だ。政府は民営化されている。だれがどのように支配しているかはわからない。漠然とした抑圧感が充満する。
だが、そこには秘密結社のようなものが存在するらしい。鎖国をくぐりぬけて、新しい能力を備えた子どもを秘密裏に外国に送る活動をしている。それは日本のためでもあり、また人類のためでもある。秘密結社の構成員は、毎日おこなう儀式がある。その儀式は簡単なものだが、それをおこなうことにより、自分が結社に属することを自覚する。その結社は意外な広がりをもっていることが示唆される。
次に「献灯使」を読んだ。「献灯使」はディストピア小説といわれるが、その一言では括れない要素があることに気付き、その要素にわたしの内面が掻き立てられた。
本作に原発事故という言葉が出てくるわけではないが、明らかに原発事故により、東京23区が壊滅状態になっている。人々は東京の「西域」から長野にかけて移住している。東京の「西域」でも土壌の汚染が進む。食料の流通が滞る。テレビも電話も自動車も使えない。そんな環境のなかで人々は暮らしている。そのひとりの100歳を超える義郎(よしろう)と、曾孫でまだ10代の無名(むめい)の物語が本作だ。
放射性物質の影響だろうか、原発事故の前に生まれた人(=義郎)は、いつまでたっても死ねない。一方、原発事故の後に生まれた人(=無名)は、長生きできずに、早死にする。しかも原発事故の後に生まれた人は、骨や筋肉が極端に弱い。人類は別の生物に(たとえば蛸とか鳥とかに)変化する過程にあるように見える。
だが、それは退化だろうか。義郎が無名を見ていると、無名にはなにか新しい能力が備わっているように見える。たとえば義郎が考えていることを、無名はまるで本を読むようにはっきり理解する。ひょっとすると、新しい人類の誕生かもしれない。無名の世代のすべてがそうだとはいえないが、例外的に存在する新人類のひとりが無名だ。
一方、社会に目を転じると、日本は鎖国政策をとっている。江戸時代のようでもあるが、現代でも近隣の某国のように鎖国政策をとっている国は存在するので、現実性がないわけではない。しかも近隣の某国のように全体主義国家だ。政府は民営化されている。だれがどのように支配しているかはわからない。漠然とした抑圧感が充満する。
だが、そこには秘密結社のようなものが存在するらしい。鎖国をくぐりぬけて、新しい能力を備えた子どもを秘密裏に外国に送る活動をしている。それは日本のためでもあり、また人類のためでもある。秘密結社の構成員は、毎日おこなう儀式がある。その儀式は簡単なものだが、それをおこなうことにより、自分が結社に属することを自覚する。その結社は意外な広がりをもっていることが示唆される。