Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

桐野夏生「日没」

2021年08月03日 | 読書
 桐野夏生の「日没」の書評をどこかで読み、それ以来気になっていた。桐野夏生とはどんな作家か、なにも知らなかったが、「日没」を読んでみた。

 主人公の「マッツ夢井」はエンタメ作家だ。世間の良識やタブーに反する性愛の描写を得意とする。そんなマッツ夢井にある日「総務省文化局」の「文化文芸倫理向上委員会」(通称「ブンリン」)から召喚状が届く。じつは数カ月前に出頭の「願い書」が来たのだが、無視していた。そうしたら、今度は「召喚状」が届いたのだ。マッツ夢井は仕方なく千葉県と茨城県との県境の駅に出向く。マッツ夢井を出迎えた職員は、そこから車で一時間ほど茨城県側に入った海辺の「療養所」に連れていく。その療養所は作家を世間の良識に沿った作風に矯正する収容所だった。

 本書が発行されたのは2020年9月だ。初出は『文学』の2016年7・8月号~同年11・12月号と『世界』の2017年4月号~2020年3月号。それらの日付が気になったのは、「日没」で描かれたディストピアが、2021年6月に閉会した通常国会で争点となった入管法改正案(廃案になった)と土地利用規制法(強行採決されて可決した)により、現実味を帯びたように感じられるからだ。

 入管法改正案の審議では、名古屋の入管施設で亡くなったスリランカ人女性のウィシュマさんの死にいたる経緯が問題になった。7月末には出るはずだった法務省の最終報告書はまだ出されず、焦点のヴィデオの開示は依然として拒まれているが、それにもかかわらず漏れ伝わる入管施設の実態は、「日没」の収容所がすでに社会の片隅で現実のものになっていると思わせる。

 また土地利用規制法では、監視対象その他の運用が政府の意のままであることが問題視された。すでに成立した以上、今後の運用によっては「日没」の世界が現実のものになる可能性がある。たとえば「日没」では政府がある作家を拘束する根拠法は「ヘイトスピーチ法」であり、また収容所では作家同士の会話は厳禁され、会話した場合は「共謀罪」で罰せられる。法律の定義を少しずらすだけで、予期せぬ結果が招来される。

 「日没」では政府がある作家を収容対象と認定するのは、上記の「ブンリン」のホームページに書き込まれる読者からのメールに基づく。マッツ夢井の場合は、以前定期的に手紙を送ってくる読者がいて、その読者はマッツ夢井に作品の材料を提供しているつもりらしいが、平凡な材料なので無視していたので、ブンリンのホームページにメールを送られたようだ。現実社会でも、つい先ごろ、政府が各飲食店のコロナ対策の実施状況について、グルメサイトへの投稿によって情報収集しようとした。その発想は「日没」と似ている。「日没」で描かれたディストピア社会はすぐそこまで来ているようだ。
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