95歳のブロムシュテットが予定通りN響を指揮した。それだけでも驚異的だが、おまけに曲目がマーラーの交響曲第9番だ。やはり平常心では聴けなかった。第1楽章の冒頭、弦楽器の音色がやわらかい。まるで羽毛で撫でるようだ。それが一気に緊張をはらみ、衝撃的な音にのぼりつめる。わたしはその時点で95歳という年齢を忘れた。
だが、正直にいうと、第1楽章の後半から音楽に重さを感じ始めた。第2楽章では音楽の重さについていけなかった。だが第3楽章になると、テンポが通常の速さに戻り、重さが消えた。第4楽章では弦楽器の渾身の演奏に目をみはった。指揮者への献身は一流オーケストラの証明だ。それは音楽への献身でもある。そんな感動が湧いた。稀有な演奏を聴いたと思う。
ブロムシュテットは椅子に座って指揮をした。ときに上半身を大きく揺らすが、基本的にはまっすぐ座ったまま、指先のわずかな動きで指揮をする。たぶんその動きが鋭いのだろう。音楽が衰えていない。むろん、先ほど述べたように、N響が渾身の力でブロムシュテットをカバーしていたからでもあるだろうが。
それにしてもブロムシュテットには衰えへの甘えが感じられない。それがN響のやる気を引き出し、また聴衆を感動させるのだろう。わかりやすい例だが、ブロムシュテットはステージへの登場の際、車椅子を使わずに、コンサートマスターの篠崎史紀(マロさん)の腕につかまりながら、歩いて出てきた。気丈なのだろう。
報道によれば、ブロムシュテットは6月下旬にシュターツカペレ・ベルリンとのリハーサルの最中に転倒して入院した。その後、ザルツブルク音楽祭への出演をふくむグスタフ・マーラー・ユーゲントオーケストラとのツアーをキャンセルした。その時点でわたしはブロムシュテットの今回のN響登場を危うんだ。だが9月からは演奏に復帰した。ベルリン・フィルとの定期演奏会も無事に終えた。とはいえ、ベルリン・フィルとのプログラムは、シューベルトの交響曲第3番とベートーヴェンの交響曲第7番だ。マーラーの交響曲第9番とはわけがちがう。わたしは最後まで危惧した。
そんな経緯を経ての今回のN響定期だ。平常心で聴けるわけはなかった。そして感動したが、その感動はブロムシュテットへの感動と同じくらい、N響への感動でもあった。
わたしはそのマーラーを聴きながら、人生には別れがつきものだと思った。愛する人との別れとか、人生そのものとの別れとか。何事にも別れがある。それは避けられない。どんなに辛かろうとも。そんな感慨に浸った。
(2022.10.16.NHKホール)
だが、正直にいうと、第1楽章の後半から音楽に重さを感じ始めた。第2楽章では音楽の重さについていけなかった。だが第3楽章になると、テンポが通常の速さに戻り、重さが消えた。第4楽章では弦楽器の渾身の演奏に目をみはった。指揮者への献身は一流オーケストラの証明だ。それは音楽への献身でもある。そんな感動が湧いた。稀有な演奏を聴いたと思う。
ブロムシュテットは椅子に座って指揮をした。ときに上半身を大きく揺らすが、基本的にはまっすぐ座ったまま、指先のわずかな動きで指揮をする。たぶんその動きが鋭いのだろう。音楽が衰えていない。むろん、先ほど述べたように、N響が渾身の力でブロムシュテットをカバーしていたからでもあるだろうが。
それにしてもブロムシュテットには衰えへの甘えが感じられない。それがN響のやる気を引き出し、また聴衆を感動させるのだろう。わかりやすい例だが、ブロムシュテットはステージへの登場の際、車椅子を使わずに、コンサートマスターの篠崎史紀(マロさん)の腕につかまりながら、歩いて出てきた。気丈なのだろう。
報道によれば、ブロムシュテットは6月下旬にシュターツカペレ・ベルリンとのリハーサルの最中に転倒して入院した。その後、ザルツブルク音楽祭への出演をふくむグスタフ・マーラー・ユーゲントオーケストラとのツアーをキャンセルした。その時点でわたしはブロムシュテットの今回のN響登場を危うんだ。だが9月からは演奏に復帰した。ベルリン・フィルとの定期演奏会も無事に終えた。とはいえ、ベルリン・フィルとのプログラムは、シューベルトの交響曲第3番とベートーヴェンの交響曲第7番だ。マーラーの交響曲第9番とはわけがちがう。わたしは最後まで危惧した。
そんな経緯を経ての今回のN響定期だ。平常心で聴けるわけはなかった。そして感動したが、その感動はブロムシュテットへの感動と同じくらい、N響への感動でもあった。
わたしはそのマーラーを聴きながら、人生には別れがつきものだと思った。愛する人との別れとか、人生そのものとの別れとか。何事にも別れがある。それは避けられない。どんなに辛かろうとも。そんな感慨に浸った。
(2022.10.16.NHKホール)