ノット指揮東京交響楽団の定期演奏会。1曲目はシェーンベルクの「5つの管弦楽曲」。シェーンベルクが12音技法に達する前の無調の時代の作品だ。わたしは結局シェーンベルクではこの時代の作品が一番好きだ。なぜだろう。それを考えながら聴いた。そのとき思い出したのは画家のカンディンスキーだ。周知のように、カンディンスキーとシェーンベルクは親交があった。そして興味深いことに、シェーンベルクが「5つの管弦楽曲」を書いたころに、カンディンスキーは具象画が揺らぎ、抽象画に進もうとした。二人とも芸術上の危機にあった。その歩みが似ている。
シェーンベルクは無調の音楽が飽和状態に陥り、一方、カンディンスキーは具象画が揺らぎ始め、それを押しとどめられない状態に陥る、二人のその時期の作品に表れる緊張感が、わたしは好きなのだろうと思う。
演奏は見事だった。第1曲「予感」では(音楽の衝動的な動きに)オーケストラが一体となって動き、また第3曲「色彩」では各パートの音色のつながりが緊密だった。そしてどの曲でも、細かい音型が埋もれずに、よく聴きとれた。その感覚は、たとえば藪を覗きこむと、そこにはもつれ合った枝葉や小さな虫が見えるのに似ていた。
2曲目はウェーベルンの「パッサカリア」。ウェーベルンの作品番号1の曲だ。これも好きな曲なのだが、なぜかシンプルで物足りなく感じた。「5つの管弦楽曲」の後で聴いたからか。演奏は良かったと思うが。
3曲目はブルックナーの交響曲第2番。ブルックナーの中でも「稿」と「版」の問題が複雑な曲だ。プログラムに差し込まれた告知によれば、ノーヴァク版第2稿(1877年稿)による演奏だが、ノットの意向で随所に第1稿(1872年稿)を取り入れるという。細かい点は多々あるが、もっとも端的な例としては、第2楽章と第3楽章の演奏順が、スケルツォ→緩除楽章になっていた(周知のようにこの曲は、マーラーの交響曲第6番と同様、第2楽章と第3楽章の演奏順に異稿がある)。
演奏はとても良かった。ウォルトンの「ベルシャザールの饗宴」やショスタコーヴィチの交響曲第4番といった20世紀音楽であれほど鮮烈な演奏を聴かせたノットが、ブルックナーでは息の長い時間の流れを感じさせる演奏を聴かせる。その芸の多彩さに脱帽だ。
第3楽章(緩除楽章)のコーダでは、第2稿にあるクラリネットではなく、第1稿のホルンが吹いた。たしかに筋が通る。当楽章ではホルンが主役だからだ。そのホルンを聴いていると、人っ子ひとりいない夕暮れの山野にたたずむ人の姿が思い浮かんだ。
(2022.10.23.サントリーホール)
シェーンベルクは無調の音楽が飽和状態に陥り、一方、カンディンスキーは具象画が揺らぎ始め、それを押しとどめられない状態に陥る、二人のその時期の作品に表れる緊張感が、わたしは好きなのだろうと思う。
演奏は見事だった。第1曲「予感」では(音楽の衝動的な動きに)オーケストラが一体となって動き、また第3曲「色彩」では各パートの音色のつながりが緊密だった。そしてどの曲でも、細かい音型が埋もれずに、よく聴きとれた。その感覚は、たとえば藪を覗きこむと、そこにはもつれ合った枝葉や小さな虫が見えるのに似ていた。
2曲目はウェーベルンの「パッサカリア」。ウェーベルンの作品番号1の曲だ。これも好きな曲なのだが、なぜかシンプルで物足りなく感じた。「5つの管弦楽曲」の後で聴いたからか。演奏は良かったと思うが。
3曲目はブルックナーの交響曲第2番。ブルックナーの中でも「稿」と「版」の問題が複雑な曲だ。プログラムに差し込まれた告知によれば、ノーヴァク版第2稿(1877年稿)による演奏だが、ノットの意向で随所に第1稿(1872年稿)を取り入れるという。細かい点は多々あるが、もっとも端的な例としては、第2楽章と第3楽章の演奏順が、スケルツォ→緩除楽章になっていた(周知のようにこの曲は、マーラーの交響曲第6番と同様、第2楽章と第3楽章の演奏順に異稿がある)。
演奏はとても良かった。ウォルトンの「ベルシャザールの饗宴」やショスタコーヴィチの交響曲第4番といった20世紀音楽であれほど鮮烈な演奏を聴かせたノットが、ブルックナーでは息の長い時間の流れを感じさせる演奏を聴かせる。その芸の多彩さに脱帽だ。
第3楽章(緩除楽章)のコーダでは、第2稿にあるクラリネットではなく、第1稿のホルンが吹いた。たしかに筋が通る。当楽章ではホルンが主役だからだ。そのホルンを聴いていると、人っ子ひとりいない夕暮れの山野にたたずむ人の姿が思い浮かんだ。
(2022.10.23.サントリーホール)