ノット指揮東響の定期演奏会は、マーラーの交響曲第6番「悲劇的」が演奏されたが、その前にリゲティのピアノ曲「ムジカ・リチェルカータ」から第2番が演奏された。ピアノ独奏は小埜寺美樹。新国立劇場でおなじみの人だ。照明を落として、舞台奥のピアノにスポットライトが当たる中で、演奏された。はっきりした発音の演奏だった。消え入るように終わりかけると、照明が次第に明るくなり、オーケストラが浮かび上がる。そしてマーラーの演奏が始まった。
マーラーの交響曲第6番とリゲティの「ムジカ・リチェルカータ」第2番に音楽的なつながりがあるかどうかは別にして、聴衆の身からは、演奏会でいきなりマーラーが始まるよりも、その前にリゲティの小品があったほうが、精神を集中する効果があった。
余談だが、「ムジカ・リチェルカータ」はわたしの好きな曲だ。全11曲からなり、第1曲は2音、第2曲は3音、第3曲は4音と、次第に使われる音が増え、最後の第11曲では12の音がすべて使われる仕掛けだが、そのおもしろさよりも、わたしには11曲がどれもドビュッシーのように美しく感じられる。
「ムジカ・リチェルカータ」第2番が終わると、そっとマーラーの交響曲第6番の第1楽章の行進曲の刻みが始まった。文字通り、そっとだ。けっして威圧的ではない。柔らかい音で音楽的な弾みをもって刻まれる。すぐに充実したトゥッティの強奏に達するが、その音も硬くはない。あくまでも音楽的だ。けっして音がつぶれない。そこまでの経過がこの演奏の基本的な性格を物語る。尖った音でのスリリングな演奏ではない。
中間楽章は、第2楽章スケルツォ、第3楽章アンダンテの順で演奏された。そのスケルツォも過度に第1楽章をパロディ化するのではなく、至極まっとうな演奏であり、またアンダンテも過度に甘美ではない。カウベルのエピソードも、コラージュ風に浮き上がるわけではなく、楽章全体の流れの中に収まる。
第4楽章はショックだった。ハンマーが5回打ち下ろされたからだ。よく2回か3回かと話題になるが、そんなものではなく、5回だ。提示部で1回、そしてコーダで1回打ち下ろされ、両方ともショックだった。初めての経験だ。こうなると、悲劇の主人公が闘争に立ち上がる都度、それを打ち砕くように運命の一撃に見舞われるというよりも、初めから運命の打撃音が一定間隔で鳴り続けるように感じられる。
長谷川京介氏のブログ「ベイのコンサート日記」によると、ハンマー5回はマーラーの出版前の自筆譜にあるそうだ。珍しい体験をさせてもらった。
(2023.5.20.サントリーホール)
マーラーの交響曲第6番とリゲティの「ムジカ・リチェルカータ」第2番に音楽的なつながりがあるかどうかは別にして、聴衆の身からは、演奏会でいきなりマーラーが始まるよりも、その前にリゲティの小品があったほうが、精神を集中する効果があった。
余談だが、「ムジカ・リチェルカータ」はわたしの好きな曲だ。全11曲からなり、第1曲は2音、第2曲は3音、第3曲は4音と、次第に使われる音が増え、最後の第11曲では12の音がすべて使われる仕掛けだが、そのおもしろさよりも、わたしには11曲がどれもドビュッシーのように美しく感じられる。
「ムジカ・リチェルカータ」第2番が終わると、そっとマーラーの交響曲第6番の第1楽章の行進曲の刻みが始まった。文字通り、そっとだ。けっして威圧的ではない。柔らかい音で音楽的な弾みをもって刻まれる。すぐに充実したトゥッティの強奏に達するが、その音も硬くはない。あくまでも音楽的だ。けっして音がつぶれない。そこまでの経過がこの演奏の基本的な性格を物語る。尖った音でのスリリングな演奏ではない。
中間楽章は、第2楽章スケルツォ、第3楽章アンダンテの順で演奏された。そのスケルツォも過度に第1楽章をパロディ化するのではなく、至極まっとうな演奏であり、またアンダンテも過度に甘美ではない。カウベルのエピソードも、コラージュ風に浮き上がるわけではなく、楽章全体の流れの中に収まる。
第4楽章はショックだった。ハンマーが5回打ち下ろされたからだ。よく2回か3回かと話題になるが、そんなものではなく、5回だ。提示部で1回、そしてコーダで1回打ち下ろされ、両方ともショックだった。初めての経験だ。こうなると、悲劇の主人公が闘争に立ち上がる都度、それを打ち砕くように運命の一撃に見舞われるというよりも、初めから運命の打撃音が一定間隔で鳴り続けるように感じられる。
長谷川京介氏のブログ「ベイのコンサート日記」によると、ハンマー5回はマーラーの出版前の自筆譜にあるそうだ。珍しい体験をさせてもらった。
(2023.5.20.サントリーホール)