ウルバンスキが指揮する東響の定期演奏会。1曲目はラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。ピアノ独奏はデヤン・ラツィック。わたしは初めて聴くピアニストだ。濃厚なロマンティックな表現も、また聴衆を熱狂させるダイナミックな表現もある。加えて、生き生きしたリズム感がある。そのリズム感はたとえば第1楽章の展開部に現れた。何でもない淡々とした流れがそのリズム感で生き生きした音楽になった。全般的にオーケストラのバックも雄弁だった。濃厚なロマンティシズムはラツィックに劣らなかった。
ラツィックはアンコールに不思議な音楽を演奏した。何ともつかみどころのない音楽だが、リズムに魅力があり、鮮明な印象を残した。だれの何という作品だろうと思った。ショスタコーヴィチの「3つの幻想的舞曲」よりアレグレットとのこと。ショスタコーヴィチとは思わなかった。曲が変わっているのか、それとも演奏が変わっているのか。
ラツィックは大変な才能だ。クロアチアのザグレブ出身とのこと。プロフィールには年齢が書いてないが、指揮者のウルバンスキと同世代だとすれば(見た目にはそう見えた)40歳前後か。特徴のあるピアニストだ。
2曲目はショスタコーヴィチの交響曲第6番。実演ではめったに聴く機会のない曲だが、そんなレアな曲の、これは名演だった。わたしの今までの経験では、ラザレフ指揮日本フィルの演奏が記憶に鮮明だが、それに次ぐ名演(性格は異なるが)に接した思いがする。
いうまでもなく本作は3楽章からなり、緩―急―急の変則的な構成だが、その第1楽章の濃密な音の世界(音楽の進行につれて濃密さが増す)、一転して第2楽章、第3楽章と諧謔性を増し、最後は躁状態のバカふざけに至る流れが、じつにスマートに、しかも鮮烈に表現された。東響も個々の奏者の妙技が光った。とくに第1楽章後半のフルート・ソロが存在感のある演奏だった(竹山愛さんだったろうか)。
久しぶりに聴くこの曲はおもしろかった。英雄的な交響曲第5番の次に来る曲だが、英雄的な要素は皆無で、悲劇的な要素(第1楽章)とおどけた要素(第2楽章・第3楽章)からなるこの曲は、大方の期待を裏切り、戸惑わせただろう。それをどう考えたらよいか。形式的には緩―急―急の構成は直前の弦楽四重奏曲第1番を踏襲する(弦楽四重奏曲第1番の場合は緩―緩―急―急)。また内容的には、おどけた要素は交響曲第9番に通じる。そんな微妙な位置にある曲だ。
ウルバンスキはますます脂がのっている。2024/25年のシーズンからは母国ポーランドのワルシャワ・フィルとスイスのベルン響の音楽監督に就任したそうだ。
(2024.10.12.サントリーホール)
ラツィックはアンコールに不思議な音楽を演奏した。何ともつかみどころのない音楽だが、リズムに魅力があり、鮮明な印象を残した。だれの何という作品だろうと思った。ショスタコーヴィチの「3つの幻想的舞曲」よりアレグレットとのこと。ショスタコーヴィチとは思わなかった。曲が変わっているのか、それとも演奏が変わっているのか。
ラツィックは大変な才能だ。クロアチアのザグレブ出身とのこと。プロフィールには年齢が書いてないが、指揮者のウルバンスキと同世代だとすれば(見た目にはそう見えた)40歳前後か。特徴のあるピアニストだ。
2曲目はショスタコーヴィチの交響曲第6番。実演ではめったに聴く機会のない曲だが、そんなレアな曲の、これは名演だった。わたしの今までの経験では、ラザレフ指揮日本フィルの演奏が記憶に鮮明だが、それに次ぐ名演(性格は異なるが)に接した思いがする。
いうまでもなく本作は3楽章からなり、緩―急―急の変則的な構成だが、その第1楽章の濃密な音の世界(音楽の進行につれて濃密さが増す)、一転して第2楽章、第3楽章と諧謔性を増し、最後は躁状態のバカふざけに至る流れが、じつにスマートに、しかも鮮烈に表現された。東響も個々の奏者の妙技が光った。とくに第1楽章後半のフルート・ソロが存在感のある演奏だった(竹山愛さんだったろうか)。
久しぶりに聴くこの曲はおもしろかった。英雄的な交響曲第5番の次に来る曲だが、英雄的な要素は皆無で、悲劇的な要素(第1楽章)とおどけた要素(第2楽章・第3楽章)からなるこの曲は、大方の期待を裏切り、戸惑わせただろう。それをどう考えたらよいか。形式的には緩―急―急の構成は直前の弦楽四重奏曲第1番を踏襲する(弦楽四重奏曲第1番の場合は緩―緩―急―急)。また内容的には、おどけた要素は交響曲第9番に通じる。そんな微妙な位置にある曲だ。
ウルバンスキはますます脂がのっている。2024/25年のシーズンからは母国ポーランドのワルシャワ・フィルとスイスのベルン響の音楽監督に就任したそうだ。
(2024.10.12.サントリーホール)