川端康成の「眠れる美女」は紛れもない傑作だと思う。三島由紀夫は新潮文庫の解説で「この作品を文句なしに傑作と呼んでいる人は、私の他には、私の知るかぎり一人いる。それはエドワード・サイデンスティッカー氏である」と書いている。解説が書かれたのは1967年11月だ。その後の時代の趨勢により、今では本作品を傑作だと思う人はもっと増えているような気がする。
なぜそう思うかというと、本作品のグロテスクな幻想性が、今の時代に一層精彩を放つようになっていると感じるからだ。正確にいえば、本作品には執筆当時の時代的な制約を受けた部分と、時代を超越した部分があり、時代を超越した部分が、今でも異彩を放っていると感じるのだ。
物語の場所は、海辺の一軒家。その家は老人限定の娼家だ。美女が全裸で眠っている。おそらく強い睡眠薬を飲まされているのだろう。叩いても揺すっても起きない。客の老人はその美女と添い寝をする。老人はすでに男性機能を失っている。だから安全だ。そういう老人でないと客になれない。主人公の江口老人はその家に5夜通う。
5夜の出来事が本作品だ。美女は毎夜異なる。江口老人の欲情と、脳裏に浮かぶ過去の苦い想い出と、そしてその夜に見る悪夢が描かれる。本作品は三層構造だ。
過去の想い出では、悔恨の情が江口老人を押しつぶす。一方、悪夢は、血の滴る凄惨な夢が多い。どこからそのような夢が訪れるのか。深層心理からだろうが、では、深層心理にはなにがあるのか。老いの実感、死への恐れ、性への渇望、悪への衝動、その他諸々。そこは溶鉱炉のような闇の世界というしかない。
第一夜の想い出には、若き日の川端康成の実体験が投影されているのだろう。それは清純な想い出だ。ところがその夜に見る夢は、5夜の中でももっともグロテスクだ。その対比をどう考えたらよいのか。第二夜の江口老人の欲情は、5夜の中でももっとも激しい。それは老いにたいする性の反抗のようだ。第三夜には江口老人は過去に犯した悪を思う。第四夜には江口老人は魔界の存在を思う。そこでは善悪の区別が無意味化する。そして第五夜は死が訪れる。もっとも、死は江口老人に訪れるのではない。だが、三島由紀夫が解説で指摘するところによれば、江口老人も無事ではない。
いうまでもなく、今のジェンダーの視点からは、問題大有りの作品だ。しかし、だからといって、禁忌すべき作品なのかどうか。ジェンダーに真摯に向き合うことと、人間の闇の部分に目を向けることと、両者は両立しないのか。本作品は心の奥底に虚無を抱えた川端康成の、自分も他人も突き放して眺める透徹した視線が交錯する作品だ。
なぜそう思うかというと、本作品のグロテスクな幻想性が、今の時代に一層精彩を放つようになっていると感じるからだ。正確にいえば、本作品には執筆当時の時代的な制約を受けた部分と、時代を超越した部分があり、時代を超越した部分が、今でも異彩を放っていると感じるのだ。
物語の場所は、海辺の一軒家。その家は老人限定の娼家だ。美女が全裸で眠っている。おそらく強い睡眠薬を飲まされているのだろう。叩いても揺すっても起きない。客の老人はその美女と添い寝をする。老人はすでに男性機能を失っている。だから安全だ。そういう老人でないと客になれない。主人公の江口老人はその家に5夜通う。
5夜の出来事が本作品だ。美女は毎夜異なる。江口老人の欲情と、脳裏に浮かぶ過去の苦い想い出と、そしてその夜に見る悪夢が描かれる。本作品は三層構造だ。
過去の想い出では、悔恨の情が江口老人を押しつぶす。一方、悪夢は、血の滴る凄惨な夢が多い。どこからそのような夢が訪れるのか。深層心理からだろうが、では、深層心理にはなにがあるのか。老いの実感、死への恐れ、性への渇望、悪への衝動、その他諸々。そこは溶鉱炉のような闇の世界というしかない。
第一夜の想い出には、若き日の川端康成の実体験が投影されているのだろう。それは清純な想い出だ。ところがその夜に見る夢は、5夜の中でももっともグロテスクだ。その対比をどう考えたらよいのか。第二夜の江口老人の欲情は、5夜の中でももっとも激しい。それは老いにたいする性の反抗のようだ。第三夜には江口老人は過去に犯した悪を思う。第四夜には江口老人は魔界の存在を思う。そこでは善悪の区別が無意味化する。そして第五夜は死が訪れる。もっとも、死は江口老人に訪れるのではない。だが、三島由紀夫が解説で指摘するところによれば、江口老人も無事ではない。
いうまでもなく、今のジェンダーの視点からは、問題大有りの作品だ。しかし、だからといって、禁忌すべき作品なのかどうか。ジェンダーに真摯に向き合うことと、人間の闇の部分に目を向けることと、両者は両立しないのか。本作品は心の奥底に虚無を抱えた川端康成の、自分も他人も突き放して眺める透徹した視線が交錯する作品だ。