Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

小川洋子「密やかな結晶」

2022年05月01日 | 読書
 小川洋子の「密やかな結晶」は1994年に刊行されたので、新しい作品ではないが、近年英訳され、2019年度全米図書賞の翻訳部門にノミネートされ、また2020年度英国ブッカー賞の最終候補になったと、数か月前に新聞各紙で報道された。その記憶が残っていたので、読んでみた。小川洋子の作品を読むのは初めてだ。

 「密やかな結晶」はある島の話だ。鉄道が通っているので、けっして小さな島ではなさそうだ。その島ではある日突然、何かが消えてなくなる。たとえばリボン。島中のリボンが突然「消滅」する。住民の記憶からも消える。万が一リボンを隠し持っている人がいたとしても、他の人々がそれを見たとき、人々はもうそれをリボンとは認識できない。たんなる布切れだ。同じようにして、鈴とか、エメラルドとか、切手とか、その他いろいろなものが消えていく。大物でいえば、フェリーが消えた。人々はもう島から出られない。だが、人々はそんな事態を黙って受け入れる。文句をいわない。

 不思議なことに、記憶が消えない人たちがいる。遺伝子に要因があるのかもしれない。ともかく少数者だ。島には秘密警察がある。それらの人々を取り締まる。記憶が消えたふりをしても、何かの拍子に発覚すれば、秘密警察に捕らえられる。捕えられたら最後どうなるかは、だれもわからない。そのため記憶が消えない人たちは隠れて暮らす。支援のための地下組織もあるようだ。一方、秘密警察は「記憶狩り」をする。街の一画を何台ものトラックで囲み、あらゆる家を調べる。隠し部屋がないかどうか、しらみつぶしに。

 主人公の「わたし」は小説を書く女性だ。記憶が消える普通の人だ。一方、出版社の担当者「R氏」は記憶が消えない特殊な人だ。「わたし」はあるときそれを知る。「R氏」を自宅の秘密部屋に隠す。

 「アンネの日記」をベースにしたスリリングな物語だ。並行して「わたし」の書く小説が挿入される。メインストーリーと小説と、両者で「声」が重要な役割を果たす。メインストーリーでは、あらゆるものが消えた後に、声だけが残る。一方、小説では、主人公が声を失う。市民が独裁国家で声を奪われるように。小説のほうはディストピア社会の寓話のように読める。他方、メインストーリーもそうなのだが、声が最後まで残ることに、未来への希望を託す――というようにも読める。

 他の読み方もできそうだ。記憶が消えるという点でいえば、わたしたちはだれでも、子どものころは感受性に満ちているが、大人になるにつれてそれを一つずつ失い、やがて死に至る。そのアレゴリーとして読めば、本作品は人の一生の寓話になる。また、小川洋子が語るところによれば、島の人々が(フェリーが消滅したので)島から出られない状況を、コロナに閉じ込められた社会のアレゴリーのように読んだ人もいたそうだ。

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