平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

硫黄島からの手紙

2007年08月04日 | 洋画
 人は生死に関し言葉を求める。
 本土防衛の最後の砦ともいうべき硫黄島。
 迫り来る敵。膨大な数の艦船。
 援軍は送れないと言う大本営。
 島民避難指示。
 玉砕の覚悟。

 西郷(二宮和也)が自分に課した言葉は「どんなことがあっても生きる」。
 それは出征前、妻とお腹の子供に言った言葉。
 その言葉を拠り所にしているから、仲間が自決していく姿を見て震える。
 「栗林中将は玉砕の指示など出していない」「玉砕という無意味な死に方はしたくない」と言って死を拒む。
 西郷は戦場にありながら日常の中にいる。
 だから海岸線に防衛戦を作ろうとする無意味な仕事に不満たらたら。
 また日常の中にいるということは、「生きたい」「家族と暮らしたい」「おいしいものを食べたい」という想い。
 それは戦場の狂気とは180度違うもの。

 物語はこの西郷の視点を中心にして様々な人間の生き死にを描いていく。

 まず西郷の対極にあるのが伊東中尉(中村獅童)だ。
 彼は「国のために潔く死ぬこと」を自分に課した言葉としている。
 熱狂の中、死に向かって走っている。
 だから西郷を殴る。罵る。
 そんな彼が爆弾を抱えてひとり敵の戦車を待つうち、死への熱狂が覚めていく所が興味深い。
 彼は敵兵が着て玉砕するどころか投降する。
 日常の死が怖い普通の人間に戻ったのだ。
 この伊東の描写は、死への熱狂の本質が何であるかを現している。

 西郷と伊東の中間にいるのが陸軍中将の栗林(渡辺謙)と西中佐(伊原剛志)だ。
 彼らはいずれも外国での生活経験があり、合理主義を身につけている。
 だから伊東の様な狂気にとらわれることなく常に冷静。非合理なことを許さない。
 そして自分が死ぬことに関して迷っている。
 「生きたい」という自分と「軍人、指揮官」という自分との間で引き裂かれ、迷っている。
 彼らは合理的に物事を処理し、部下を無駄死にさせないことには明瞭な言葉を持っているが、自分の死に関しては言葉を持っていない。
 というより「普通」と「軍人・指揮官」というふたつの自分がいて、どちらの言葉も選べないでいる。
 最期に栗林が出せた結論は、自分は死に「生きたい」と思う西郷を生かすこと。

 西郷、伊東、栗林と西。
 「硫黄島からの手紙」は戦場での三様の生き死にを描き、戦争とは何かを描いた。
 戦争の愚かさを描いた。

★追記
 元憲兵隊の清水(加瀬亮)は西郷と同じタイプ。
 生きるために投降する。
 結果は戦場の狂気の犠牲になるのだが、彼が憲兵隊をクビになった出来事が興味深い。
 夜回りをしているとうるさく吠える犬。
 憲兵隊の上官は犬を殺すように言うが、清水は殺せない。
 結局、空に銃を撃って殺したふりをするが、上官のところに戻ってくると犬の鳴き声。これで彼はクビになり戦場に送られる。
 ここで怖ろしいのは、吠えただけで犬を殺そうとする上官の狂気だ。
 やはり日常感覚からはかけ離れている。
 上官の中では当たり前で何の疑問もないことが怖ろしい。

 この憲兵隊の上官や伊東(あるいは手榴弾を爆発させて自殺する兵士たち)は戦争が人を狂気に駆り立てることを教えてくれる。
 

 
コメント (2)
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