いよいよ激動の歴史モード。
今回はふたつの歴史的教訓。
★憎しみは憎しみを呼ぶ。
大老井伊(中村梅雀)の「安政の大獄」の始まり。一橋派の弾圧。
井伊の目指す「強い幕府」実現のためだが、やり方がよくない。
暴力で押さえつけると、押さえつけられた側は怒りや憎しみを抱くんですね。
そして暴力と力で返そうとする。
いわゆる『憎しみの連鎖』『暴力の連鎖』だ。
これは井伊大老の最期を見れば明らか。
暴力で押さえつけたから、井伊は凶刃に倒れた。
それは薩摩での斉興(長門裕之)も同じ。
斉彬派の一掃。
大久保(原田泰造)らは熱くなってそれに反発する。
この『憎しみの連鎖』『暴力の連鎖』は現代でも続いている。
アメリカのテロとの闘いは何を生んだか?さらなるテロでしかない。
確かにテロや戦争は荒療治で一時的には効果を発揮するものなのかもしれないが、劇薬で結局はすべてを滅ぼす。
人間は歴史から学ぶことなく同じことを繰り返している。
★立場が変われば……
西郷(小澤征悦)と月照(高橋長英)のエピソードは象徴的だ。
斉彬が藩主であれば彼らはヒーロー。
しかし斉彬と別の立場に立つ人間が藩主になれば捕らえられる。
同じ行動をとっていても立場が違えば善にも悪にもなるのだ。
これも歴史の教訓。
人間の行動とはそんな頼りない所に立脚しているとも言える。
結局は自分が何を正しいと思って生きるかしかないのだが、立場が違えば自分の行動は悪にも成りうるということを頭の隅に置いておかなくてはならない。
今回は天璋院(宮崎あおい)パートは家茂(松田翔太)が「母上」と呼んだことにのみ。
後は幾島のことをちょっと。
歴史パートが多くなり、今までの感情ドラマが少なくなっている。
天璋院も主人公ではなく登場人物のひとりになっているし。
だから今までの「篤姫」を期待していた人間にはいささか物足りない。
やはり家定様の存在は大きかった。
今回はふたつの歴史的教訓。
★憎しみは憎しみを呼ぶ。
大老井伊(中村梅雀)の「安政の大獄」の始まり。一橋派の弾圧。
井伊の目指す「強い幕府」実現のためだが、やり方がよくない。
暴力で押さえつけると、押さえつけられた側は怒りや憎しみを抱くんですね。
そして暴力と力で返そうとする。
いわゆる『憎しみの連鎖』『暴力の連鎖』だ。
これは井伊大老の最期を見れば明らか。
暴力で押さえつけたから、井伊は凶刃に倒れた。
それは薩摩での斉興(長門裕之)も同じ。
斉彬派の一掃。
大久保(原田泰造)らは熱くなってそれに反発する。
この『憎しみの連鎖』『暴力の連鎖』は現代でも続いている。
アメリカのテロとの闘いは何を生んだか?さらなるテロでしかない。
確かにテロや戦争は荒療治で一時的には効果を発揮するものなのかもしれないが、劇薬で結局はすべてを滅ぼす。
人間は歴史から学ぶことなく同じことを繰り返している。
★立場が変われば……
西郷(小澤征悦)と月照(高橋長英)のエピソードは象徴的だ。
斉彬が藩主であれば彼らはヒーロー。
しかし斉彬と別の立場に立つ人間が藩主になれば捕らえられる。
同じ行動をとっていても立場が違えば善にも悪にもなるのだ。
これも歴史の教訓。
人間の行動とはそんな頼りない所に立脚しているとも言える。
結局は自分が何を正しいと思って生きるかしかないのだが、立場が違えば自分の行動は悪にも成りうるということを頭の隅に置いておかなくてはならない。
今回は天璋院(宮崎あおい)パートは家茂(松田翔太)が「母上」と呼んだことにのみ。
後は幾島のことをちょっと。
歴史パートが多くなり、今までの感情ドラマが少なくなっている。
天璋院も主人公ではなく登場人物のひとりになっているし。
だから今までの「篤姫」を期待していた人間にはいささか物足りない。
やはり家定様の存在は大きかった。