EXPRESS DIARY~鉄人日記~

鉄道に関することを日々徒然なるままに書いて行こうと思います。

JR山陰本線(出雲市~益田間)

2007年07月07日 | 山陰

Saninseibu3  JR山陰本線の出雲市~益田間を全線制覇したのは01年12月31日のJR西日本の年末年始の乗り放題切符を利用した時に、未乗区間だった出雲市~江津間を乗って達成している。江津~益田間については、98年夏の中国遠征の際に、美祢線で長門市まで出て、長門市から益田まで特急いそかぜでワープして、益田から快速石見ライナーに乗って江津まで乗っている。江津からは三江線に乗ったため、江津~出雲市間が未乗区間として残ってしまったのだ。01年末の遠征の際は、急行だいせんで米子へ出て、米子から特急スーパーおきに乗って江津まで行き、折り返しスーパーくにびきに乗って米子まで戻っている。帰りのくにびきは先頭の自由席に陣取ってかぶりつきをしている。

Kunibiki5  山陰本線西部は景色がいいイメージがあったが、乗ってみると確かに風光明媚な海岸沿いの景色が広がるが、結構山がちなため、トンネルとの合間に絶景が広がり、一瞬にしてまたトンネルに入るという区間も少なくなかった。それだけ線路条件も厳しいようで、本線とは思えぬ走りだったが、今は高速化されて、特急はキハ187系、快速は126系が投入されているので、以前のイメージはなくなってしまっている。山陰本線には国鉄型車両が似合うと個人的には思うが、いまや国鉄型が残るのは西部の末端と逆に京都口~鳥取にかけての区間の方が多く、鳥取~益田間などの中央部はJR型が主流となっている。山陰本線の近代化が急速に進んだという印象を受けるが、新型のキハ187系やキハ126系は新しく、足も速いが、如何せん重厚感に欠ける印象がある。キハ181系、キハ58系と比べてしまうからどうしてもその点で安物くさい印象となってしまうのは否めない。それでもアコモデーションなどは上記の先輩車両に比べて格段に良くなっているし、山陰の顔として定着していって欲しいものだ。


JR木次線

2007年07月06日 | 山陰

040828kisukiokuizumoorochi  JR木次線は98年夏の中国遠征の締めくくりに乗っている。三江線で三次に入り、三好で一泊して翌朝芸備線で備後落合に出て、備後落合から木次線キハ120に乗って、宍道へと出ている。私が乗った列車は確か松江まで直通する列車だったように思う。途中3段スイッチバックで有名な出雲坂根でおろち号と行き違いをしたのを思い出す。その待ち時間にホームにある延命水を飲んだのを覚えている。木次線はその後04年8月28日にも訪問しているが、このときに出雲坂根に確か延命水があったということを思い出し再度ホームにて飲み、ペットボトルに入れて延命水を飲みながら大阪まで帰ったものだ。延命水の効き目があるならかなり延命されたはず?だ。一度目は全く乗るだけだったので、2度目は道中出雲坂根040828kisukiizumosakane14 で途中下車して、3段スイッチバックに入るおろち号の撮影などをして木次線らしい光景をカメラに収めて帰っている。出雲坂根では出店などが出て、おろち号到着を盛り上げていた。しかし、鉄道利用の人よりも駅前を走る国道を行く人の方が断然多く、おろち号は半ば見世物状態であった。それでも夏休みだったこともあり、木次線の利用もまぁまぁ多かったが、夏休みなのにこの程度の利用かという見方もできなくはなかった。県都松江に近いということもあり、三江線よりは生き残る目はありそうだが、おろち号を除けば厳しい現実があることには違いない。鉄道マニアを喜ばせる資源は豊富といえるので、それを売りにするのもいいだろうが、肝心の地域輸送を活発にするには木次線列車の松江乗り入れ再開は必須なのではなかろうか?

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JR三江線

2007年07月05日 | 山陰

Sanko1201  JR三江線には98年夏の遠征で乗っている。同線に乗ったのはこの1度きりで、全線乗り通していつ廃止になってもおかしくないなと思った割には10年弱経った今でも立派に廃止されずにいるのは驚きだ。現在災害による不通が続いているが、復旧しないという話は聞かないので、廃止という話もないのだろう。一度きりの乗車の際には夕方江津から三次まで通しで走る数少ない列車に乗ったが、部分部分では利用者もいたが、途中自分たち以外に乗っている人が数人というレベルの状態が長く続いていた。新型のキハ120を投入し、路線も一部区間は鉄道建設公団が造った贅沢な新線もあり、廃止するには惜しい路線ではあるが、如何せん利用者が少な過ぎる。山陰西部と広島を結ぶには中途半端な位置を走っているし、陰陽連絡で岡山、大阪方面と結ぶというにもロケーション的に無理がある。地域輸送に徹するしかないというのが三江線の生き残る道だろうが、過疎化が進んでいると思われる沿線がいつまで三江線を支えてくれるかが鍵となるだろう。JR西日本は赤字路線をたくさん抱えており、東海や東日本のように経営的に楽ではないので、今後の動向によっては三江線も廃止という結論が簡単に出てしまい兼ねないのではなかろうか?


JR山口線

2007年07月04日 | 山陰

030830yamaguti187473501  JR山口線には98年夏の中国地方遠征のときに乗っている。益田まで山陰本線に乗り、同駅から津和野まで山口線気道車に乗って、津和野でレンタサイクルを借りて観光をしている。津和野城跡から山口線を俯瞰できる場所があったが、この当時は撮影には興味がなく、コンパクトカメラで列車を狙ってみたが、さっぱり撮れていなかった。津和野での観光の後、山口線気動車列車で山口まで行き、ここでも乗継ぎに時間があったものの、県庁所在地の駅にしては駅の周りにめぼしいものがなく、手持無沙汰な時間を過ごした記憶がある。山口から小郡まで乗って、その日は小郡で宿泊して、何度も書いているが、翌朝小野田線クモハ42に乗りに行っている。この遠征のときには残念ながらSLやまぐち号は見ていない。津和野に転車台があったように思うが、当然ながら撮影などは何もしていない。

030830yamagutislyamaguti6  山口線にはこの他に、1度だけ小郡~山口間に乗っている。03年8月30日の遠征の時で、散々書いてきたが、仙崎支線の乗り潰しと美祢線の乗りなおしをした後に、小郡で少し時間をとって、山口駅でSLやまぐち号の撮影を試みている。シャッターを早く切り過ぎた写真になってしまい、加工も何も施していないので、おかしな仕上がりになっている。やまぐち号撮影後は普通列車で小郡へ戻り、山陽本線を東上して広島まで出て、広電の乗り潰しをしている。山口線山口以北へも乗りたかったが、山口以北は普通列車の本数が極端に減るので断念した。次に乗るときには特急スーパーおきに乗るか、やまぐち号を本格的に撮るかしたいものだ。


JR山陰本線(益田~下関間)

2007年07月03日 | 山陰

030830saninnagatosi3_1  山陰本線長門市~下関間には98年夏の中国地方遠征で制覇している。この時はムーンライト九州で門司まで行って、当時はまだ門司まで乗り入れていた山陰本線気動車に乗って、長門市まで乗っている。山陰本線は益田以北が景色がいいイメージがあったが、下関~長門市間もなかなか海沿いを走るところもあり景色が良かった印象がある。長門市で少々ブレイクタイムして、時間の都合で乗れなかった仙崎支線の終点仙崎を見るだけ見て長門市まで戻り、長門市からキハ23非冷房車に乗って益田まで行っている。益田からは山口線に入り、津和野で途中下車して津和野観光をして、夕方の列車で小郡まで出て宿泊している。

Jw8_2  翌日は小野田線などに乗り、美祢線で再び長門市まで出て、前にも書いたが、前日のキハ23非冷房車に参った経験を活かし?今度は快適にキハ181系いそかぜに乗って益田まで行っている。18きっぷ利用だったので、別料金を支払って乗っているが、貧乏学生には痛い出費ではあったが、今となってはキハ181系いそかぜに乗っておいてよかったと思える。益田からはこちらも貴重なキハ58系快速石見ライナーで江津まで行っている。

 山陰本線下関口には後1回美祢線の乗り直しと仙崎支線の乗り潰しをした03年8月30日に訪問している。この時もムーンライト九州に乗り、下関で降りて山陰本線気動車に乗って長門市まで行っている。雨の中の道中で景色を楽しむにも土砂降りだった印象があり、さらに途中山間部にて、毛虫が線路を占拠して車輪が空転して勾配を上れないという事態になり、何度もエンジンを吹かして上りきろうとするものの、何度も失敗して、30分ぐらい立ち往生して、何とか山を登り切り、30分遅れで長門市に着いた。長門市での仙崎支線との連絡は時間に余裕があったが、到着時には既に出発時刻を過ぎており、連絡待ちがなければ乗れない状況だったが、ここは同じJR西日本だけに融通を利かしてくれて連絡待ちしてくれていた。98年に乗れなかった仙崎支線のリベンジを果たして、折り返し長門市まで戻り、長門市から美祢線の乗り直しをして山陽筋に出ている。全国津々浦々鉄旅行をしてきた中で何番目かに数えられるほどのピンチを迎えた山陰本線の道中であった。

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JR美祢線

2007年07月02日 | 山陰

030830mine58kanekomisuzu2  JR美祢線には98年夏の中国遠征にて制覇している。この時は小野田線や宇部線の時にも書いたが、小野田線本山支線のクモハ42がメインで遠征していたので、行程の方も必然的にそちらを優先する行程となっていた。クモハの興奮冷めやらぬ中、宇部線経由で厚狭へ出て、厚狭で美祢線列車待ちの間少し時間があったので駅前のコンビニでおにぎりなどを買い込んで朝食をとった。美祢線も列車本数が少ないので厚狭では小1時間ほど待ったはずだ。美祢線のキハ120はロングシートで確かトイレも付いていないタイプだったと思うが、なんせクーラーの効きが悪く車内が非常に暑かったのを思い出す。前日山陰本線でキハ23の非冷房車に乗って暑い車内にうんざりしていたので、美祢線でも新しい気動車なのになんでクーラーの効きが悪いんだと怒っていたはずだ。最近は寛容?なので、こういったことは付き物ということで、鉄活動に専念していけるようになったが、この頃はこういった要因で鉄活動にやる気をなくす短気さがあった。我ながら情けない過去である。そういったこともあり、一度目に乗った時には暑さに参っただけで美祢線の記憶はあまりない。直前に大嶺支線が廃止されていたので、その跡をかすかに確認したぐらいで後は何も印象に残っていない。長門市到着後は前日のキハ23に参らされたので、長門市からまともな快速列車のある益田までキハ181系いそかぜに乗る贅沢をしている。

 それ以来美祢線に乗ることはなかったが、ホームページ拡張のため、乗った路線のページを全部作るという方向性が決まり(勝手に決めただけ)、それに即して乗ってない路線は乗り、乗った路線でも写真などのデータのない路線はとりあえず写真を撮りに行くという方向で動き出したので、何も痕跡を残してこなかった美祢線については乗り直しすることにした。03年8月30日に訪問しているが、この時は山陰本線仙崎支線の乗り潰しも兼ねて訪問している。ムーンライト九州で下関まで行って、下関から山陰本線を北上していき、長門市から仙崎支線に乗って、折り返して長門市から厚狭まで美祢線に乗っている。雨降りだったため、前面かぶりつきなどはしていないが、美祢線名物の貨物列車も少しだけ見られたし、行商のおばちゃんがたくさん乗っていることも見られたので、とりあえず前回乗った時よりも充実した乗車だったように思う。厚狭では臨時列車の金子みすず?号だったかを撮ることもできたし、美祢線としては前面展望撮影と貨物列車の撮影に心残りはあるが、とりあえずしばらく乗ることはないと思われる。