EXPRESS DIARY~鉄人日記~

鉄道に関することを日々徒然なるままに書いて行こうと思います。

南海空港線

2007年08月11日 | 近畿

051127kuko505012  南海空港線にはJR関西空港線のところにも書いたが、開港1年後の95年にりんくうタウンまで南海の初乗りとともにチョイ乗りをしている。その後、JRのフリーチケットで関空に入線するまでは乗っていない。前にも書いたがこの時初めてラピートに乗り、29分の短いトリップを堪能した。これ以来ラピートには乗っていないが、その時乗ったDXシートは贅沢過ぎるので、一般車にもう一度乗ってみたいものだ。とはいえ、国内の鉄活動ばかりしていて関空を利用するような旅行(海外)には行っていないし、航空利用は家から近い大阪空港ばかりなので、鉄活動で訪れる以外関空訪問の機会はない。今後もラピートに乗る機会は少ないと思われるが、ラピートに比べて好調なはるかに対抗して再起して欲しいものだ。

 これ以外に関空は2回ほど鉄活動で訪問しているが、1度は空港急行、もう一度はダイヤ改正後に普通関西空港行きに乗っている。折り返しは例にもれずJRを利用しているが、関空快速が歪なダイヤながら20分毎を確保しているのに対し、南海は度重なるダイヤ変更もあり、空港急行が30分毎に減便され、残りの半分に普通が運転されているのは南海の台所事情が垣間見えるようで痛々しい。実質空港線は増発された形になっているが、なんば直通が減り、泉佐野乗り換えを強いられる点は荷物が多い空港利用者にとってはマイナスだろう。本線ダイヤとの兼ね合いなどもあるだろうが、何とかラピートともども空港輸送の再興を願いたいところだ。


富山地鉄市内軌道線

2007年08月10日 | 北陸

060708toyamac80034  富山地鉄しない軌道線には06年7月8日、9日の北陸遠征にて乗車している。この時は7日大阪発の急行きたぐにで高岡に入り、早朝から距離の長いウォーキングをして高岡~西高岡間で夜行列車群を撮影して、倶梨伽羅、東富山~水橋間などの有名撮影地で、JRの撮影をこなして、午後から富山ライトレールに乗り、夕方近くになってようやく富山地鉄市内軌道線に乗った。予定ではもっと早く富山地鉄に乗る予定で、万葉線までこなすつもりにしていたが、富山ラインとレールで時間を食ってしまい、万葉線は翌日回しとなった。富山駅前から乗り潰しをはじめ、まずは大学前まで乗り、大学前から南富山駅前まで乗り通して乗り潰しを達成している。南富山からは不二越線に乗ったが、不二越線の本数が少なく、待ち時間が長かったので、南富山でしばらく行き来する市内軌道線の路面電車を撮影して時間を潰した。市内軌道線は将来的にはJR富山駅高架化などが完成した時に富山ライトレールとの相互直通も検討されているようで、そうなればまた乗りに行かなければならないという嬉しい悲鳴となる。新しいLRV車両で揃う富山ライトレールに対して地鉄の方は古いタイプの車両も多く、そのあたりが相互直通時にどうなるのか注目したいところだ。


JR東北新幹線

2007年08月09日 | 東北

070721tohokuse3  JR東北新幹線には03年8月13日に初乗車を果たしている。北海道遠征の途上に乗車したのだが、それまで一度も乗っていなかったので、東北新幹線の初代顔である200系を飛び越してE2系はやてに乗って八戸まで乗り通している。当初日本海を使うルートを考えていたが、日本海は発売即売り切れとなり、次にながらを使うルートも検討したが、こちらもながらが満席ということで、空いていた銀河で東上することにした。サンライズののびのびの線もあったのだが、乗り継ぎが厳しいということでパスした。はやてに乗ったはいいが、お盆期間のため指定が取れても通路側ということで、駅弁を食した以外は後は眠りに就くだけの道中だった。

 2度目の東北新幹線は04年1月1日の東北遠征で、正月パスを利用して、仙台から朝一のこまちに乗って秋田新幹線乗り潰しをして、秋田から快速~山形新幹線を乗り継いで、福島から東北新幹線に入って東京へ戻るルートを組んで乗車している。朝一のこまちはさすがに空いており、盛岡まで各停で走るものの空席が目立つ状況だった。東京対東北各都市の東北新幹線から東京を抜くとまったくのローカル新幹線に落ちぶれてしまうということを実感した形だった。山形新幹線は新庄からほぼ満席状態で、山形からは自由席では立ち客が出るような乗り具合だった。元旦の上りでこの混雑というのは異常とも言えるのではないか?と思ったものだ。それだけ新幹線が東京~山形間の輸送を牛耳っているということなのだろう。

 04年の盆休みには東北乗り潰し旅行に出ており、04年8月13日の夜に山田線を乗り潰した後、時間の関係で盛岡~八戸間ではやてに乗っている。盆休みとはいえ、末端部の夜の利用だけに利用者はほとんど降り立っており、車内は閑散とした面持ちだった。この遠征では東北を訪れた割にこの1回しか新幹線には乗っていない。

 05年7月16日には再び東北・北海道遠征をしており、この時も日本海縦貫経由で行くつもりが、仕事が片付かず日本海に乗り遅れ、急遽ムーンライトながらに変更して東上して、大船でスーパーレールカーゴを下手くそな流し撮りで撮って、睡眠を取るために空いているやまびこに盛岡まで乗っている。やまびこといっても200系ではなくE2系なので、はやてに乗るのと何ら差のない乗り心地だった。盛岡からはIGRいわて銀河鉄道、青い森鉄道の初乗りをしている。この年には8月に再度東北・北海道遠征をしており、北海道完全制覇と東北もほぼ手中に収めるという状態にまで持って行けた。7月と同じように銀河で登場して03年の北海道行き同様東京から八戸まではやてに乗っている。03年と違うのははやての窓側を取れていたことぐらいで、時間帯等は同じ列車だった。八戸で少しブレイクタイムして、ホタテなどを賞味して、485系つがるに乗り込み、浅虫温泉まで行き、同駅隣接の道の駅にある温泉で一風呂浴びて、スーパー白鳥に乗って青函トンネルを抜けて渡道している。北海道の鉄を乗り尽くして、急行はまなすで青森まで戻り、青森から奥羽線で大館へ出て同駅から花輪線の乗り潰しをして盛岡まで出た。ここまでは順調に行程を消化してきたのだが、盛岡駅前の松屋で遅い朝飯と昼飯を兼用した食事をしている時に宮城県で大地震が発生した。盛岡でもかなり揺れたが、この程度なら新幹線もすぐ動くだろうと最初はタカをくくっていたが、駅の待合室のニュースで宮城県ではかなりひどいことになっており、東北新幹線は復旧の見通しが立たないというニュースを見てがく然とした。とりあえず乗車する列車の発車時間に近かったのでホームに入ってみたが、すぐに復旧する見通しではなかった。居場所もないし、いつ復旧するかもわからないので、とりあえずホームで本などを読んでしばらく待ってみたが、いつまで経っても復旧しそうにないので、その日の帰阪は諦めて、盛岡でホテルを取ることにした。何とか駅近くのホテルに泊まることができたが、新幹線の指定券を取っていたため、夜になってから東北及び東京から先の東海道新幹線の指定をキャンセルしに盛岡駅まで出向いた。私と同じように切符の変更や払い戻しをする人でみどりの窓口は大混雑していた。改札付近にはその日のうちに復旧することを期待して列車を待つ人で溢れ返っており普段は静かと思われる盛岡駅もその日に限ってはてんやわんやの状態だった。ホテルに戻ってニュースを見るととりあえず深夜に全線で運転を再開したということだったが、途中徐行運転などを行うため明日以降もダイヤは大幅に乱れる見通しということだった。これは朝から動かないことにはまずいことになると思い、早起きして盛岡駅へ向かい、時刻表でとりあえずの目星をつけて自由席があるやまびこに乗ろうと思いホームに上がった。しかし、やまびこの運転はなく、はやてを全車自由席扱いということで運転する旨の放送があった。八戸方面はあまり地震の影響がなかったはずだが、車両の遣り繰りがつかないのかダイヤは大幅に乱れており、はやては30分ぐらい遅れて盛岡に到着した。盛岡からは当然ながら立ちん坊で、乗れただけでも幸せという状態だったが、仙台に近づくにつれて列車の速度は落ち、途中何度も停止を繰り返して仙台には1時間以上の遅れで到着した。仙台からはMAXやまびこの運転もあったようだが、ここからははやても回復運転とまではいかないでも通常の走りはするだろうと思った。現に大宮までは先行列車に当たって何度かスピードを緩めながらも快調に走っていた。しかし、大宮から先は列車がつかえているため、大宮から東京方面へは在来線をご利用くださいという案内があった。大宮では2時間遅れというのが微妙な時間だったので、これは東京まで乗り通さねばと思い、東京まではやてに乗って特急料金の払い戻しを受けようと思った。しかし、これがとんだ間違いで、大宮からはそれこそ在来線よりも遅い速度で走るというより長時間信号待ちのため各所で停車するという状態で大宮から上野まで1時間ほどかかってしまった。上野到着で既に特急料金の払い戻し云々の状態を越えていたので、上野ではやてに見切りをつけて、上野駅のみどりの窓口で払い戻しを受けて、山手線で東京へ出て、漸くの思いでのぞみに乗って帰阪した。東北新幹線にはこのような苦い思い出があり、ある意味においては忘れられない新幹線となっている。

 なお、苦い思い出以降も東北遠征が何度かあり、05年年末の東北遠征では仙台空港から東北に入り、大船渡線に乗るために仙台~一ノ関まで東北新幹線に乗っている。この時乗ったのは各駅停車のやまびこだったが、間合い運用なのかE3系+E2系のこまちはやて編成を使用した列車だった。古川では正規列車のこまち・はやてに追い抜かれ、一瞬ではあるがE3系同士の追い抜き劇を見ることができた。この遠征では北東北の天候が荒れており、北上線を乗り潰して秋田方面へ出て男鹿線を乗り潰して秋田空港からバースデー割引で帰阪する予定にしていたが、低気圧の影響で大雪及び突風が吹き荒れる秋天候となり、秋田方面への遠征を断念して北上の宿で色々策を講じて、東北新幹線で仙台へ出て、仙台から常磐線の乗り潰しをすることにした。E2系やまびこで仙台へ出て意気揚揚と仙台駅に降り立ち、バースデー割引のキャンセルは痛いなと思いながらもとりあえず安全策を講じたということで、開放的に仙台駅で撮影に興じて常磐線に乗り込もうと思ったところで携帯電話をやまびこの車内に忘れたことに気づいた。仙台駅の忘れ物センターで問い合わせてもらい、とりあえず見つかり次第連絡を頂く(もう一台携帯を持っていて助かった)という手筈で、常磐線に乗り込み、途中で車内で携帯が見つかったという連絡を貰い、東京駅の忘れ物センターで受け取るということで段取りがついた。東北へ行くと忘れ物をするというジンクスがあり、山形ではマフラーを忘れて、着払いの宅急便で自宅へ送ってもらったことがある。苦い思い出は地震だけではなく携帯を忘れたという苦い思い出もある…そういったことも含めるとあまりいい思い出がない新幹線と言える。

 いい思い出がない新幹線の割に、その年の正月には再度東北新幹線に乗っており、正月パスを利用して秋田からわざわざ在来線で盛岡まで出て、盛岡から指定が取れたはやてに大宮まで乗っている。東京までの指定を取っていたが、大宮で撮影をしようということで大宮で途中下車している。大宮からは上越新幹線に乗り換えてガーラ湯沢への乗り潰しをしてJR全線乗り潰しを達成している。その後は東北とは縁が切れた形になっていたが、私鉄で乗り残していた福島交通、山形鉄道、仙台空港鉄道に乗るために07年7月21日に遠征した時に、東京から福島までMAXやまびこに乗っている。3列非リクライニングシートの自由席に乗ったのは初めてと思われるが、狭苦しく堅苦しい車内だが、2階建てからの景色はよく、1時間ほどの乗車なら苦にはならんかなと思った。


JR予讃線

2007年08月08日 | 四国

060909yosan80003  JR予讃線は当然ながら四国遠征にて全線制覇を果たしている。それより以前に91年夏に四国に遠征した折に高松から観音寺までの乗車をしている。121系と111系が走りまわっていたのを覚えているが、観音寺以西がまだ非電化だったため、気動車も走っており、まだまだ近代化前の四国という感じだった。多度津であすかを見てまだまだおぼこい鉄だった私はそれに大喜びしたのを思い出す。予讃線にはサンライズ瀬戸に初乗りした時にも瀬戸大橋線の延長として乗車しており、高松で讃岐うどんを食べて速攻マリンライナーで折り返したのを思い出す。91年に高松駅を訪れた時にはまだ宇高連絡船時代を思い起こさせる(実際にあ乗ったことはないが)駅だったが、サンライズで訪れた時にはまだ工事中だったとはいえ、駅の位置は現在位置に移設されており、連絡船時代は記憶の彼方に消えていくことになりそうだ。

030906yosan1132  その後、待望の四国遠征を99年2月に行ったが、この時に旧線は乗り残したものの高松~宇和島間の乗り潰しを達成している。宇和島までの乗り潰しは、宇和島まで予土線に乗って、宇和島から特急宇和海、松山で特急いしづちに乗り換えて全線制覇をしている。高松に泊まってその夜に腹痛を起こして一部行程を変更したが、とりあえず翌日の行程をこなして、高松でもう1泊して、次の日に午前中のいしづちで松山入りしている。周遊きっぷ利用だったが、松山行きは自由席が先頭になるため、一番前の席に座り、少し見えにくいが、前面かぶりつきを松山まで楽しんだ。松山では伊予鉄に乗ったり、道後温泉に行ったりして松山観光を楽しんだ。この当時はインターネットはあってもインターネットで宿を予約するというシステムが確立されていなかったこともあり、あまり宿を予約して旅行するということはせず、現地で安いホテルを探して飛び込みで空きを探すということをしていた。高松の宿は事前に電話予約していたが、松山では予約を入れずにガイド本やホテル案内の本などで安いホテルの目星だけ付けて現地に赴いている。駅に近い安いホテルをうまく見つけて泊まり、翌朝道後温泉で一風呂浴びてから、午前中のしおかぜに乗って岡山で新幹線に乗り換えて帰阪している。

040719yosan1853105  続いて四国に遠征したのは04年7月17日~19日で、この時も周遊きっぷを利用し、16日に高松まで移動して高松で一泊して、17日朝から高徳線~牟岐線~阿佐海岸鉄道などの乗り潰しをして、徳島へ戻り、徳島線~土讃線で高知へ入っている。土佐電の乗り潰しなどをして、高知に泊まり、翌18日には土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線、中村・宿毛線に乗り、予土線に乗って宇和島へ出て、宇和島から予讃線に乗って松山へ出ている。19日には伊予鉄の乗り潰しと予讃線で乗り残していた旧線に乗り、四国征伐を成し遂げた。予讃線旧線では185系の格下げ車両が使用されており、そのまま使えばいいサービスになるのにわざわざ固定クロス化するという手間のかかるサービスダウンをしていた。185系は国鉄末期に四国の経営基盤強化のために造られた車両だが、後に登場したキハ2000系と比べるとかなり見劣りし、JR四国も使い勝手に苦慮している。一部は九州へ売り飛ばされ、四国でもアイランド四国2や普通車への改造が行われたりして、本来の特急としての姿よりも改造車の方が目立つ状態になっている。予讃線旧線の利用は少ないので、185系をそのまま使っても罰は当たらないと思うが、特急利用者のことを考えれば普通と差のない特急では示しがつかないので固定化しているのだろう。

 全線制覇は達成したが、撮影に関しては国分でチョイ撮りしただけだったので、本などでよく見る海岸寺付近の撮影地で瀬戸内バックの写真が撮りたくて06年9月10日に18きっぷの余りを利用して遠征した。海岸寺の撮影地へ来た時にはまだ晴れ間もあったが、土讃線の吉野川近辺で撮り歩きをしている時には大雨が降ってきて、おまけに三脚のハンドルを落として、気づかぬまま高松まで戻り、高松の宿舎に入り、上りサンライズ瀬戸の撮影をしに高松駅に入ってから三脚のハンドルを落としたことに気づいた。雨に濡れるわ三脚のハンドルを落とすわで最悪な遠征となった。翌日も朝から雨が降り、まともに撮影できないまま朝のうちに四国を抜け出して、西明石で新幹線の撮影をして帰った。060910yosan285


JR土讃線

2007年08月06日 | 四国

060909dosann20005  JR土讃線の初乗りは91年夏に初めて18きっぷを利用して旅をした時に、多度津~阿波池田間で行きはムーンライト高知、折り返しの帰りはキハ58・65系普通に乗っている。暗闇の中の道中と帰りは山の中の道中で景色がはっきりわからない路線というイメージだけが残っている。この時多度津に大阪からあすかが来ていたのだけが印象に残っており、土讃線のイメージはあまり残っていない。これが高校生の頃の話で、私は高校時代は鉄活動というものをほとんどしていなかったので、当然ながら乗る機会はなかった。その後学生になって本格的に乗り潰しじみたことを始めたが、四国はいつでも行けるという感覚で後回しになっていた。漸く四国征伐にとりかかろうとしたのが卒業間近の99年2月のことだった。

Js28  大阪から未明のムーンライト高知のカーペット車に乗って高知に着いた。それまで周遊券は九州と北海道、信州などで使ったことがあったが、周遊券から変更された周遊きっぷを利用したのはこの時が初めてだった。グリーン車扱いのムーンライト高知に乗車したのも周遊きっぷ利用だったからと言える。18きっぷならまず利用していなかっただろう。朝高知に着いて乗り継ぎにしばらく時間があったので、駅前の喫茶店で朝食を取り、土佐電に乗りに行った。喫茶店で頼んだモーニングにトーストとコーヒー、サラダに加えて味噌汁がついてきたのが非常に印象に残っている。ご当地モーニングを調べてみるのも面白そうだなとその時は思っていたが、実行には移していない。土佐電にははりまや橋辺りまで乗っただけで全線乗り潰しまではしなかった。時間が中途半端だったので、乗り潰しをしていると予定していた宿毛方面行きの特急に乗れなくなるため、土佐電の乗り潰しは断念した。当時高知でキャンプを張っていた西武ライオンズ(今もかな?)の宿舎などを見て選手が出てこないかと見ていたが、朝食の時間なのか出て来なかった。そうこうしている間に時間が過ぎ、宿毛行き特急に乗るべく高知駅まで戻った。

040717dosan2008nanpu  高知から再び土讃線の旅を再開し、特急南風に乗りこみ、土讃線終点の窪川を通り越して土佐くろしお鉄道の宿毛まで行った。折り返しは窪川から予土線に入ったのでこの時は土讃線からはここで離れた。再び土讃線を訪れたのは翌日のことで、予定では高徳線~牟岐線などを乗り潰して、徳島へ戻り、徳島線~土讃線と廻って高松へ戻るルートを考えていたが、前夜に腹痛を起こし、あまり眠れなかったため牟岐線は断念することにした。経路を短絡して高徳線~徳島線~土讃線と廻ることにしたため、時間に余裕ができたので、阿波池田から高知まで一旦出て、高知から折り返して琴平まで行って、琴平から琴電に乗ることにした。寒い冬の時期だったが、阿波池田は雪が積もっており、まさか四国で雪を見るとは思ってもみなかったので少々感動を覚えた。聞くところによると四国山地では冬場結構雪が降るらしい。百聞は一見にしかずというが四国でも雪が降るという貴重な体験ができたのはよかった。

040718dosan2007  阿波池田から乗った高知行きの特急南風は雪のせいか空いており、高知までは余裕の旅を楽しんだ。しかし、折り返しの岡山方面行きは混雑している上、短編成のため席にありつけなかった。土讃線に乗ると四国山地の山奥に堂々と聳え立つ高速道路が見え隠れするが、急峻な山の中をトンネルで抜ける高速道路との差を感じてしまう。高速道路の開業により、土讃線特急は利用を減らし、岡山連絡の南風はともかく高松始発のしまんとはかつての勢いはどこへ行ったのかという風情だ。この当時はまだしまんともそれなりに格好を付ける形になっていたが、2度目の四国周遊となった04年7月に乗った時はしまんとのダイヤが整理され、一部は分割併合もなしで、多度津や宇多津にて快速列車に連絡というダイヤになっていたりした。

040718dosan2824772  04年遠征の時も南風やしまんとに乗車する機会があったが、7月の3連休という書入れ時にも関わらずどの列車も余裕があった。高知以南では高速道路が途中までしか開業していないこともあり、まずまずの乗りとだったと思うが、こちらは絶対数が少ないということもあり、満席になるというような乗り具合ではなかった。絶対数の少なさは特急の停車駅の多さと反比例することからも推察でき、車掌が集札を行うような無人駅にも特急が停車するというのにも驚かされた。JR東日本はこんなところにも駅員が配置されているのかというローカル駅があったり、ワンマンよりもツーマン運転が多いことに驚かされる。その逆にJR四国では究極的に合理化を進めたせいもあってか、特急停車駅でも無人化されていて驚かされる。JR九州のようにワンマン特急はまだ登場していないが、利用がさほど多くないと思われる徳島線特急や牟岐線特急、高知以南の特急などはワンマン化されてもおかしくない。

060909dosan65694  土讃線にはこの他琴電の乗り潰しをした時に琴平~多度津間で利用したりしているが、本格的に利用したのは06年9月10日の遠征ぐらいだ。この時は18きっぷを使って、土讃線、予讃線の撮影を中心とした旅をしている。予讃線の観音寺、土讃線の箸蔵で降りて撮影している。予讃線は瀬戸内海をバックにした有名な撮影地で撮影を行い、土讃線では吉野川を行く特急などを撮っている。坪尻のスイッチバックなども見学したかったが、列車の都合で見物することはできなかった。次回訪問する機会があれば是非とも見物したい駅だ。


富山地方鉄道不二越線

2007年08月05日 | 北陸

060708fujikoshi14763  富山地鉄不二越線には地鉄乗り潰し計画(07年7月28日、29日)より前の06年7月8日に南富山駅前まで地鉄市内軌道線を乗り潰して、その折り返しに不二越線に乗っている。頻繁に電車が来る市内軌道線と違い、不二越線は1時間に1本程度の悠長な運転間隔で、利用者は高校生とお年寄りが中心のローカル線の様相だった。南富山では市内軌道線との並びが見られ、線路もつながっているようで、やろうと思えば直通運転も可能なようだ。不二越線とは直接関係ないが、上滝線沿線から市内軌道線に入り、富山市中心部への乗り入れを行えば利便性は増すのではなかろうか。上滝線沿線は田園地帯が広がる長閑な路線だが、南富山寄りは宅地開発もされているので、市内線乗り入れの効果は出るはずだ。

 不二越線の方は市内軌道線への乗り入れはスイッチバックになるし、あまり効果もないと思われるので、現状のまま推移していくしかないだろう。変化があるとすれば立山線との連携で、岩峻寺から立山線に乗り入れて、立山アルペンルートの短絡線とすることだが、線路規格が低い不二越・上滝線では急行運転をしても本線~立山線経由とさほど所要時分が変わらないだろうから実現性は低い。

 07年7月28日の地鉄遠征でも不二越線には乗車している。06年に乗車した時は地鉄14760系だったが、今回は元京阪3000系の10030系だった。昼下がりの電車だったが、今回は高校生の姿は少なく車内は閑散としていた。夏休みの土曜だったので富山へ遊びで出る人が乗ってもおかしくはないが通勤通学以外の利用は少ないようだ。富山県、富山市の鉄道は思い切った改善を行い、全国的に見ても先進性を感じるところがあるが、不二越線も何らかの施策で思い切った改善を行って欲しいものだ。まずは悠長な60分毎運転を30分毎なり、20分毎なりに増発することが望まれるところだ。


富山地方鉄道立山線

2007年08月04日 | 北陸

070728tateyama16012  富山地鉄立山線には念願の富山地鉄乗り潰し計画を先ごろ(07年7月28日、29日)に実行し、初日の28日に立山線制覇を成し遂げた。本線の時にも書いたが、富山地鉄は長い間計画をしては頓挫してきたので、やっと乗り潰せたという感慨がある。感慨無量とまではいかないが、今はほっとした気分だ。28日はサンダーバード1号で富山入りし、電鉄富山駅で2日間の電車全線2日間フリー乗車券を購入し、早速10時40分の立山行き普通に乗り込んだ。車両は元京阪3000系の10030系で、富山に来たというより淀屋橋か京都三条にでも来た気分になった。世代的には京阪3000系を知る世代ではあるが、京阪沿線の住民ではなかったので3000系特急に乗ったのは数えるほどである。私の中では京阪3000系は本の中の車両である。ワンマン化改造され、運転席直後にあったかぶりつきシートは見事になくなり、中央に料金箱が置かれていた。私が乗った電車は急行だったが、10030系は普通に用いられる多いようで特急車ではないようだ。特急には元西武レッドアローや自社ブランドの14760系が中心に運用されているようだ。富山地鉄は狭軌のため、足回りは京阪時代のものではなく他社の廃車品を流用しているようで、京阪時代の快足を味わうという感じではなかった。それでも富山地鉄は地方私鉄にしては結構走る方で、本線のみならず立山線でも結構な速度で走っていたのが印象的だ。

 立山到着後、折り返し時分が短かったので、1本見送って、立山駅周辺を鉄散策することにした。同駅周辺には立山アルペンルートへのケーブルや立山砂防軌道などがあり、マニアには興味深い場所になっている。まず、上り電車を常願寺川橋梁で撮影した。天気が悪かったので今一つの出来だったが、諦めて駅へ引き返そうとしたところで大雨が降ってきた。突然の大雨にずぶ濡れになり、駅へ向かわずとりあえず砂防関連の資料館方面へ歩いていき雨宿りすることにした。折りたたみ傘を持っていたものの役に立たないぐらいの豪雨だった。山の天気は変わりやすいというが山の麓でも思わぬ天候に巡り合うものだと思った。雨がいつまで降るかわからないので、豪雨の中資料館の裏手にある立山砂防軌道のヤードを撮影しに屋外へ出て、またずぶ濡れになった。しばらくすると豪雨が嘘のように止み、立山を出るころには晴れ間すら覗くようになっていた。ずぶ濡れになっているのは私一人という状態で折り返し電車に乗り、岩峻寺で降りて上滝・不二越線の乗り潰しに向かった。


富山地方鉄道上滝線

2007年08月03日 | 北陸

070728kamidaki10036  富山地鉄上滝線には07年7月28日の富山地鉄遠征で初乗車している。上滝線とワンセットになっている不二越線については市内軌道線乗り潰しの時に、南富山~電鉄富山間を先行して乗り潰しているが、南富山以南の上滝線については乗っていなかった。立山線を乗り潰しての帰りに岩峻寺から上滝線に乗って電鉄富山へ戻っている。立山線では往復とも10030系でそろそろ地鉄オリジナル車の登場を期待…と思って岩峻寺駅に降り立ったが、向い側を見ると見慣れた京阪3000系の車体があり、またしても10030系だった。利用者は少なく岩峻寺を出てからも大量に乗ってくるという駅はなかった。パラパラっと高校生が乗り降りするぐらいで、地元利用者は南富山でなんぼか乗ってきたぐらいだった。上滝線沿線は岩峻寺寄りは田畑が広がる長閑なところで、沿線人口もあまり多くないと思われる。富山の中心部へはクルマ移動という人も多いだろうが、それ以前にあまり中心部へ出る機会が少ないという人も多いのではないかと思う。そういった中で利用者を増やすのは容易ではないが、南富山近辺では結構住宅があり、新しい宅地もなんぼか行われているので、市内軌道線のリンクあるいは相互直通なども視野に入れて改善を進めていけば、利用者を増やしていける素地はあると思われる。現在のように60分毎の悠長な運転では利用者が少なくて当然ともいえる。市内軌道線の電車が直接乗り入れてくれば、富山市内中心部へのアクセスも良くなるし、運転頻度も高くなる。反面不二越線へ悪影響を及ぼす可能性もあるが、あちらでも運転頻度を高めれば相互に利用者を増やしていけるのではなかろうか。安易な発想ではあるが、運転頻度の向上とスピードアップ、車内や駅の美化というのは利用者を増やすための基本アイテムと言える。富山は鉄道の再生に積極的な都市である。その施策に乗って上滝・不二越線、市内軌道線も改善を進めていってほしいものだ。


富山地方鉄道本線

2007年08月02日 | 北陸

070729toyama14771  富山地方鉄道本線には06年7月の遠征で電鉄富山~稲荷町間のみ乗車していたが、それ以外の区間についてはしばらく自分の乗り潰しの中でも懸案事項として残っていた。何度か計画しては天候や予算の都合などで中止しており、毎年計画しては中止し、また計画を立てるということを繰り返していた。それを漸く実行に移せたのが07年7月28日、29日での富山遠征となった。当初の計画では急行きたぐにで魚津まで行き、能登や北陸、日本海4号などの撮影と絡めて午前中に富山地鉄本線と黒部峡谷鉄道を乗り潰して、午後から立山線や不二越・上滝線の乗り潰しにかかり、高岡に泊まって、朝の夜行の撮影後、金沢へ移動して北陸鉄道2路線の乗り潰しをする計画を立てていた。この計画では富山地鉄が駆け足で過ぎ去ってしまう感じだったので、宿を魚津にとって、2日目に黒部峡谷鉄道乗り潰しを持ってきて、午後から金沢へ移動して北陸鉄道は浅野川線だけを乗り潰す計画に変更した。ほぼ後者の計画通りことを進めて帰ってきたが、誤算は新潟中越沖地震の影響で急行きたぐにが運休し、その他日本海縦貫夜行が軒並み運休となったため、JRの撮影はほとんどなしで帰ってきたことだ。これについては北陸鉄道石川線の乗り潰しと組み合わせて再度訪問することを考えている。

 前置きが長くなったが、7月28日にサンダーバード1号で富山入りし、速効電鉄富山駅で2日間地鉄全線フリーの切符を購入し、立山行きに乗車。これで電鉄富山~寺田間の本線を乗り潰し、立山からの折り返しは不二越・上滝線経由で電鉄富山へ戻り、昼食をとってから再び立山行き普通で寺田へ。ここで誤算だったのは特急アルペンの運転で、時刻表では特急アルペンを見落としており、アルペンが運転しない時に運転される電鉄富山~宇奈月温泉間の特急うなづきが運転されるものと思い込んでいたため、計画と実際とで電鉄富山の発車時間に差があり、電鉄富山での滞在時間が計画よりも少なく、駅そばを急いで掻き込んでの出発となった。昼食をゆっくりとる間はなかったが、寺田でスイッチバックする特急アルペンを見られたのは収穫だった。スイッチバックを見物して、特急アルペンに乗り込みじっくり車窓を…と思っていたが、早朝からの活動の疲れのためか、上市でのスイッチバック後、いつの間にやら眠り込んでしまった。気がついたら列車は既に終点手前まで来ており、本線最初の乗車はほとんど記憶の外で終わっていた。070728toyama14770

 宇奈月温泉で黒部峡谷鉄道の撮影や翌日の切符を入手して、折り返し地鉄本線普通で電鉄魚津まで戻り、その日は魚津で宿泊した。この日乗った地鉄の電車のうち半数が元京阪3000系の10030系?で、富山地鉄に乗っているというより京阪電車の旧型車両を楽しみに来たという感じだった。大井川鉄道では京阪3000系は走っているのを見るだけで近鉄16000系ばかりに当たっていたが、富山地鉄では京阪3000系によく当った。

070728toyama16012  翌日は朝2番の電車で電鉄魚津を発ち、宇奈月から朝一番の黒部峡谷鉄道トロッコ列車に乗り、空いている間に黒部峡谷鉄道を楽しんだ。この判断は正しく、2本後ぐらいの列車からはトロッコ列車は観光客でいっぱいで列車を楽しむという様な状況にはなかった。欅平までの往復をして、宇奈月温泉から電鉄富山まで特急うなづきで一直線の旅となった。天気が良ければどこかで撮影でもしようかと思いながら特急うなづきにかぶりついていたが、雨こそ降らないものの天気がよろしくなく撮影は断念して、電鉄富山まで乗り通した。昼前の電車ということもあって車内は空いていたが、魚津、070729toyama14773 滑川あたりから富山まで出るにはJRの方が速いし、それ以前にクルマを利用するということもあって、特急うなづきの利用者は予想以上に少なかった。宇奈月温泉からは観光客の堅い需要があるが、それ以外の地域間の利用に関してはあまり多くないというのが現状なのだろうか。富山近郊では普通電車の増発などにより下駄電としての利用が増える可能性はある。しかし、都市間を結ぶ特急については途中上市でのスイッチバックなど所要時分の面で、並行するJRやクルマに比べて不利となる面が大きいようだ。地方鉄道の特急としてはそれなりの走りをする特急うなづきだけに利用を喚起するようなウルトラCが出ることを期待したいものだ。


仙台空港鉄道

2007年08月01日 | 東北

070722sendaisa101  仙台空港鉄道に初乗りは開業後しばらく経ってからの07年7月22日だ。同鉄道が開業する前から航空とのリンクで乗車しようと目論んでいて、よく利用するバースデー割引で利用しようかと模索していたら、ANAから旅割が売り出され、ちょうど夏の時期にチケットが取れそうな便があったので、2ヶ月前に購入という博打を冒して計画を立てた。2ヶ月前に当日の天候の予想などは立たないのは当たり前で、きっちり7月21日は雨模様、22日は曇りぎみとなってしまった。それでも前週は台風が来て全く話にならない状態だったので、それに比べたらマシだったし、22日は仙台では晴れ間も見えていたので十分鉄活動をできる状態だったので贅沢は言えない。

070722sendai721p604  朝から板谷峠を越えて、福島から東北本線で仙台へ出て、夕暮れ時しか乗っておらず懸案事項と思っていた仙石線を乗り撮りして、松島から東北本線経由で仙台へ戻った。昼飯もろくに食わずに鉄活動に専念していたので、昼下がりではあったが、仙台でから揚げそばというけったいなそばを食した。おにぎりと一緒に頼んだら、出てきたそばを見てびっくり大きなから揚げが2つもど~んと乗っかっており、見ただけで満腹という代物だった。お腹も膨れたところで、再度鉄活動に戻り、仙台近郊の撮影として、長町と太子堂、名取で東北本線の撮影を行い、空港へ出向くのにちょうどよい頃合いを見計らって名取から仙台空港鉄道に乗車した。同鉄道の電車は全て仙台まで直通しており、長町までの移動に乗った電車は2両編成で空港利用以外の人も乗るので、結構な乗り具合だった。私が名取から乗った電車は夕方の離発着のピークに対応するためか4両編成で運転されており、余裕でかぶりつきができる程度の乗り具合だった。実際仙台空港に着いた時の降車状況をみると結構な数が乗っており、2両編成だったらかなりの混雑になっていたものと思われる。実のところ仙台空港に来るのはこれが2度目で、最初は05年12月に件のバースデー割引を利用して東北遠征を敢行しており、その際に大阪~仙台線を利用している。ここの時は空港からバスに乗って館腰の駅まで行き、東北本線で仙台へ出て、大船渡線乗り潰しのために仙台から一ノ関まで新幹線を利用した記憶がある。あの時空港鉄道があれば新幹線の無駄な出費は抑えられたかもしれないのでは…と思う。仙台空港には鉄道開業後もバス路線がたくさん残っており、仙台駅直行のバスなどもまだ運行されているようで空港鉄道とライバル関係を続けていくようである。仙台空港鉄道は利用動向を見る限り、開業フィーバーを考慮しても結構な利用があるようで、無用の長物と揶揄されることはないと思われる。