文化 社会◆時評 高村薫
なんとなく改憲?
不備・不透明・強引
政権党の悲願とは別物
憲法施行60周年の今年、これまで現実になるとは思いもしなかった国民投票法(憲法改正手続き法)が14日、成立した。安倍政権の憲法改正のかけ声は、いまや「嘘のようなほんとうの話」になりつつある。
この60年、私たちにとって憲法は、ほとんど空気のようにそこにあり、時代に合うか否かを考えることもなかった。一方で一握りの政治家が改正を目論み、その一人が政権与党の総理総裁になったことで、ある日突然、政治日程に上ってきたのである。
けれども、こうしていよいよ現実のものとして目の前に突きつけられてみると、今日の憲法改正の動きには多くの不備があることに気づかされる。第1に、憲法は国民が主権者であることを保証していると同時に、ときどきの政権が自らの政策の正当性の根拠とするものでもある。そのため、首相や閣僚は憲法の遵守を
義務づけられているのだが、その彼らが率先して憲法改正を叫ぶのは、明らかにおかしい。ましてや政治課題にしたりする性格のものでないのは、言うまでもない。
だいいち総選挙も経ていない政権に、勇ましく憲法改正に踏み出す根拠があろうはずもない。また、憲法を改正するというのなら、何よりまず、衆参両選挙区の一票の格差を是正するのが先だろう。とくに参議院の一票の格差を放置したままの国会に、憲法改正の発議をする資格があるとは思わない。
さらに国民投票法については、有効投票総数の二分の一以上という規定が国会で議論になったが、国のあり方を変えようというときに、棄権者を白紙委任とみなすのは乱暴にすぎる。国はせいぜい啓発に努め、全有権者数を分母とすべきだと思う。
また、同法に併せて設置される憲法審査会は、改正原案を審査する機関だというが、国民を蚊帳の外に置いて、一から条文を書いてゆく場にならないという保証はない。
このように手続きだけをみても実に不透明な改正の動きであるが、改正の目的はさらに不透明である。そもそも憲法改正は自民党結党以来の悲願だが、私たちの悲願ではない。自民党の悲願の原点には、敗戦後の独立回復の過程で、戦勝国による天皇の戦争責任追及を回避するために、心ならずも受け入れた憲法だという思いがあると言われる。しかし国民は、とにかく素直に平和憲法を喜んだのであり、政権与党として尊重すべきは、国民が60年も憲法を享受してきた事実のほうだろう。
私たちの多くは、現行憲法がGHQに押しつけられたものであるか否かを、重要な問題とは考えていない。60年を経た憲法に、何か不都合があるとも感じていない。たとえば戦力不保持の条文と自衛隊のあいまいな関係も、自衛のための最小限の戦力という内閣法制局の解釈で足りているというのが、大多数の感じ方のはずだ。しかもアジア諸国は、日本が集団的自衛権を行使してアメリカ軍とともに世界に軍事展開することを望んでいない。近隣の望まないことをするのが、安全保障上もっともまずい戦略だということぐらい、私たちにも想像はつく。
自民党は、日米同盟強化のために何としても自衛軍を保持したいらしいが、長い目で見れば一時的なものでしかない利害関係のために、国民の憲法を改正してよい道理はない。
憲法は私たちとともにあり、時代や社会とともにあるのだから、私たちが欲すれば、変えることはできる。しかし私たちには、いま憲法を変えるような理由があるか。アメリカと一心同体にならなければ困るような状況が、どこかにあるか。
安倍政権は、美しい国を連呼するだけで、国民のために憲法改正を急ぐべきことの合理的な説明をしていない。そういう政権に、そもそも憲法をいじる資格はないと、私自身はシンプルに考えている。(たかむら・かおる=作家)