仏教辞典に「成仏」としてつぎのようにでてきます。「成仏・・1、佛果を成満する義なり。ただし「成」に法爾と修生(もとからある性質と修行して得る性質)の両邊(二種類)あり。法爾につかば「成」とは常恒不壊にして因縁所成の義にあらず。(最初の意味の、「法爾の成仏」というのは修行しないでも皆もとから仏であるということである。)
修生につかば「成」とは成就の義なり。始覚修生の成仏をいふ。(「修生の成仏」とは修行して仏となるということである。)一切衆生は本覚の体なることを覚知するをもって修生成仏というが故に、所詮本修一致に帰るす。(修行して成仏するといってもそのときは本来仏であったと気がついて成仏するわけであるのでこの「法爾の成仏」「修生の成仏」2つの意味は同じである。)大日経疏六にいふ、「自心もとより來不生を覚るがゆえに即ちこれ成仏なり。しかも実には覚なく成なきなり。」(心は不生不滅であることを覚るがゆえにこれが成仏である。しかも実際には覚るということもなく成仏するということもないのです。つまり元から宇宙法界の仏であるのでじたばたすることはないのである。)」
・・・・とでてきます。これからすると葬儀での僧侶の読経等は生きている人にも故人にもこの「元から佛」ということを仏様のお力をお借りして再自覚させるためのものであるわけです。
修生につかば「成」とは成就の義なり。始覚修生の成仏をいふ。(「修生の成仏」とは修行して仏となるということである。)一切衆生は本覚の体なることを覚知するをもって修生成仏というが故に、所詮本修一致に帰るす。(修行して成仏するといってもそのときは本来仏であったと気がついて成仏するわけであるのでこの「法爾の成仏」「修生の成仏」2つの意味は同じである。)大日経疏六にいふ、「自心もとより來不生を覚るがゆえに即ちこれ成仏なり。しかも実には覚なく成なきなり。」(心は不生不滅であることを覚るがゆえにこれが成仏である。しかも実際には覚るということもなく成仏するということもないのです。つまり元から宇宙法界の仏であるのでじたばたすることはないのである。)」
・・・・とでてきます。これからすると葬儀での僧侶の読経等は生きている人にも故人にもこの「元から佛」ということを仏様のお力をお借りして再自覚させるためのものであるわけです。