此の體と用の熏習を分別すれば復た二種あり。云何爲二。一は未相應。謂く凡夫と二乘と初發意の菩薩等は、意・意識の熏習を以て、信力によるが故に而かも能く修行するも、未だ無分別の心が體と相應することを得ざるが故なると、未だ自在業の修行が用と相應することを得ざるが故なり。二は已相應。謂く、法身の菩薩は無分別の心を得て、諸佛の智の用に相應し、唯だ法の力に依るのみにして自然に修行し、眞如に熏習して無明を滅するが . . . 本文を読む
「高野山興廃記・奥院御拝殿七寶塔福御舎利三粒事」
「新院の御宇、承久二年1220庚辰八月二十六日癸未、東寺御舎利二粒幷に室生寺御舎利一粒を奥院御塔に副納さる。是則ち宣陽門院の御安置矣。御使者権少僧都行遍也。于時寺家検校法橋覚海執務の間の事也。弘法大師御入定三百八十六年の事也。」
後白河法皇の第六皇女宣陽門院は当時権勢を誇ったようです。弘法 . . . 本文を読む
今日は歴代天皇の持仏堂である御黒戸を初めて設けられた光孝天皇崩御の日。
光孝天皇は仁和三年八月二十六日五十八歳で崩御されています(国史大辞典)。
仁和寺では毎年九月八日開山忌法要では宇多天皇とその父君の光孝天皇(仁和寺開山計画を作られた)
を供養しているようです。元慶八年884にはじめて宮中に御黒戸を設置されたと大鏡(後出)にあります。
『日本三代実録』に「天皇少く(わかく)して聡明、好み . . . 本文を読む
第二十八番下総滑河(現在も第28番は滑河山龍正院(滑河観音))
総之下州楫取郡滑河山龍正院は、往古此の地の領主
小田宰相将治之開基、伽藍締構の制は慈覺大師の上足、修圓法師の功也。本尊十一面の像は常総の境川(小田川と云)朝日の淵より出現也。長一寸二分、龍宮の鋳造にして閻浮檀金の聖容也。後に法橋定朝丈二尺の像を彫み、将治感得の小躯を以て、新像の胸間に収め奉る焉。按ずるに定朝は人王五 . . . 本文を読む
「東寺長者補任」に「延喜十年910八月二十六日、僧都観賢、神泉に於いて孔雀経法。雨を祈る為也。五箇日を限り修す。」天皇は醍醐天皇。観賢僧正は延長3年6月11日(925年7月4日))に73歳で入滅されています。真雅について出家・受戒し、聖宝より三論・真言密教の教学を学んで、寛平7年(895年)に灌頂。仁和寺別当・弘福寺別当・権律師・東寺長者・東大寺検校,醍醐寺初代座主・金剛峯寺検校、般若寺を創建。高 . . . 本文を読む
用熏習とは即ち是れ衆生外縁の力なり。是の如き外縁には無量の義あるも、略説すれば二種なり。云何爲二。一は差別縁。二は平等縁。差別縁とは此人が諸佛菩薩等に於いて、初發意に始めて求道の時より乃至得佛まで、中において若しくは見、若しくは念ずるによって、或は眷屬や父母や諸親となり、或は給使となり、或は知友となり、或は怨家となり、或は四攝を起こし乃至、一切の所作と無量の行縁が、大悲の熏習の力を起こすを以て、能 . . . 本文を読む
坂東三十三所観音霊場記巻之九
第廿七番銚子飯沼(現在も第27番は飯沼山円福寺(飯沼観音))
下総國海上郡銚子浦飯沼山圓福寺は弘法大師の開基、本尊十一面観自在は海中より出現の像、漁夫両人の感得也。伽藍初建之檀主、海上長者の某也。人王四十五代聖武帝の御宇神亀五年戊辰(728)の春、銚子の浦俄に荒出し漁夫等一の小魚も不得こと已に両三月に曁ける。實に前代未聞の不猟と浦人怪しみ患る所に、 . . . 本文を読む
又諸佛の法には因もあり縁もあれば、因縁を具足すれば乃ち成辦することを得る。木中の火性は是れ火の正因となるも若し人知ることなくして方便を假らざれば能く自ら燒木することこの処あることなきがごとし。衆生亦た爾り。正因の熏習の力ありと雖も、若し諸佛菩薩善知識等に値遇しこれを縁とせざれば能く自ら煩惱を断じて入涅槃することは則ち是の処りあることなし。若し、外縁の力ありと雖もしかも内の淨法に未だ熏習力あらざれば . . . 本文を読む
第廿六番常州清瀧(現在も第26番は南明山清瀧寺)
干立國(ひたちのくに)筑波郡小野村南明山清瀧寺は筑波権現降遊の砌、行基大士艸創の地也。本尊正観世音菩薩は御長丈六(5m)、同じく開山大士の彫造。今の堂地中興の事は、花山法皇御叡慮也。清瀧寺の北背に筑波根に續く山あり。土俗是を小野山と称す。山の高さ一里半余り、東西は長く南北は狭し。是の故に又布引山と云。當初筑波二柱神諸神を率いて此の . . . 本文を読む
此の二義によって恒常に熏習し、有力を以ての故に能く衆生をして生死の苦を厭い、涅槃を樂求し、自ら己身に眞如の法ありと信じて法發心修行せしむるをいう。問曰。若し如是の義ならば、一切衆生悉有眞如にして等しく皆な熏習せんに、云何んが有信と無信と無量に前後に差別するや。皆な應に一時に自ら眞如法有と知って、勤修方便して等しく涅槃に入るべけんや。答曰。眞如本より一なり。而れども無量無邊の無明ありて、本より已來、 . . . 本文を読む
承和元年834八月二十三日は大師が「勧進して仏塔を造り奉る知識の書」を書かれた日です。「それ諸仏の事業は大慈をもつて先とし、菩薩の行願は大悲をもつて本とす。慈よく楽を与え、悲よく苦を抜く。抜苦与楽の基、人に正路を示すこれなり。いわゆる正路に二種あり、一には定慧門、二には福徳門なり。定慧は正法を開き、禅定を修するをもって旨とす。福徳は仏塔を建て、仏像を造るをもつて要とす。三世の諸仏、十方の薩埵、みな . . . 本文を読む
憲淳は醍醐寺報恩院第四世。一に国師僧正といい、粟田口一品良教の子。報恩院覚雅の室に入り出家。正応五年八月具支灌頂を本師に受け、苦修精練して瀉瓶の印璽を付嘱せらる。乾元二年二月二十六日遍智院聖雲親王は師に印可を授ける。憲淳は後宇多天皇の幼少期に侍童としてお仕えする。徳治三年二月、憲淳病篤きに及ぶや法皇は勅書を下して法流伝授を求めたまふ。憲淳は三月二十五日、請文を奉って受法心得を進言。四月三日法皇重ね . . . 本文を読む
. 史料綜覧 巻五 / 文永六年(1269)八月廿三日条「廿三日・・・大神宮 及ビ宇佐大神宝使ヲ発遣シテ 異国降伏ヲ祈ル」天皇は後宇多天皇。鎌倉幕府は北条時宗。この年二月、蒙古の使節が日本を訪れるが幕府は入国を許さず、使節は対馬の住民を拉致して帰国しています。 . . . 本文を読む
お大師様は、紀州高野山開創に当たり、有縁の人々の支援を求るべく「勧進して仏塔を造り奉る知識の書」を今日8月23日書かれています。「勧進して仏塔を造り奉る知識の書」 の全文です。「夫れ諸仏の事業は、 大慈を以て先と為し、 菩薩の行願は、 大悲を以て本と為す。 慈は能よく楽を与へ、 悲は能く苦を抜く。 抜苦与楽の基、 人に正路を示す、 是なり。 謂いう所の正路に、 二種有り。 一には定慧門、 二には福 . . . 本文を読む
今日は国宝神護寺梵鐘が作られた日国宝神護寺梵鐘は貞観17年(875年)の銘が入る梵鐘で、日本三名鐘の1つ(「銘の神護寺」「姿の平等院」「音の三井寺」)。この梵鐘は、橘広相が詞書を書き、菅原是善(道真の父)が銘を選び、藤原敏行が揮毫と、当時一流の3名の合作で「三絶の鐘」とも呼ばれます。卜書に「貞観十七年八月二十三日、治工志我部海維以銅千五百斤令鋳成。橘広相之詞、菅原是善銘、藤原敏行書」とあり。 . . . 本文を読む