8回まで村田のホームラン1本に押えてきた久保に代わって、9回、藤川がストライクが入りません。
藤川でも、緊張している様子がありありと感じます。
四球二人を出し、村田に、今日2本目のホームランを打たれ、逆転負け。
甲子園最終戦、逆転負け、それも押えの球児が逆転3ランを打たれ、最悪の幕切れとなりました。
1 2 3 4 5 6 7 8 9 R H
YB 0 0 0 1 0 0 0 0 3 = 4 5
T 0 0 1 1 1 0 0 0 0 = 3 11
矢野の引退試合も、台無しとなり、結局、矢野の出番がありませんでした。
せめて、最終回にマスクをかぶらせたかったのですが、もし、それで逆転されたら余計に矢野の引退を汚すことになったことでしょう。
死神に抱きつかれたトラは、今年も嫌な終わり方をしました。
まだ、終わっていないのですが、なにかすべて終わったように感じてしまいました。
マジック7で、ファンも優勝を期待していたものの、正直、難しいのは分かっているつもりです。
が、それにしても呆気なく、悪夢を見たように感じたのは僕だけでしょうか?
野球とは、こんなものと割り切れれば良いのですが・・・・・
矢野の引退セレモニーで、村田が矢野に花束を渡したのには、複雑です。
トラから言えば、横浜も、空気を読め と言いたいですが・・・・・
こうなれば、CSでは、甲子園で出来るように2位をキープしてほしいものです。
映画”十三人の刺客”を見てきました。
この時代劇は、昔の時代劇とは、少し違うようです。
西部劇的な要素と映画”七人の侍”を彷彿させる時代劇活劇です。
ということで、娯楽として見ると大いに楽しめる時代劇でした。
少々矛盾したところがあるのが、この映画の特徴で、そこは観客が勝手に想像してくださいと言っているようです。
想定に無理がある点、残忍な描写もあり、少し顔をしかめるところもあるのですが・・・・
つまり、サドとかマゾとかいわれる類の場面が時折出てくるのには、少々精神的に苦痛を伴いました。
しかし、それが、この映画の重要な部分であり、それがこの物語の発端となるからです。
この物語は、その史実は、後で脚色して造られたのは当然なのですが、その発端とした事件は、実際にありました。
明石藩が参勤交代で、尾張藩内を通過するとき、行列の前を三歳児が横切り、無礼打ちにあったのを、憤慨した尾張藩は、その明石藩の通過を拒み、そのため、行列を組まずに、農民に身を代えて通ったという記録があり、それをもとに創作されたものと思われます。
暴君、将軍の弟、明石藩の藩主松平斉韶(稲垣吾朗)を諌めるため、老中大井大炊頭(平幹二郎)の門前で切腹するところから物語は始まります。
斉韶は、将軍から次の老中に推挙されており、老中大井は、この暴君が老中になることを避けるため、暗殺を企てます。
直に言えませんが、腹心目付の島田新左ェ門(役所広司)は、その意を察し、目付の役を解き、斉韶(なりつぐ)の暗殺の計画を立てます。
暗殺は、参勤交代で領地明石領にもどる途中に襲うこととし、12人の同志を集めます。
ここから、斉韶の参謀の鬼頭半兵衛(市村正親)との神経戦が始まります。
先回りするため、奥深い山を抜けようとしますが、道に迷い、途中、山の民と呼ばれる木賀小弥太(伊勢谷友介)に助けられ、この山の民を加え、これで13人がそろいます。
落合宿で迎え討つ作戦をとり、この村を家ごと買い取り、色々な仕掛けを作り、迎え討つ準備中、当初は70名程と思われた供の者は、なんと200人に増えていると物見が伝え、13人に衝撃が走ります。
ここから、映画は、その200人対13人の戦いが始まります。
壮絶な戦い、切り合いをしますが、切っても切っても新手が繰り出し、200人どころか300人以上いるのではと思われ、ここがこの映画の面白いところで、切っても切っても、また切られても切られても、猛烈な死闘を繰り広げ、なにか無残ささえなければゲーム感覚とさえ思われます。
まして、首に小刀が刺されて一度死んだかに見えた山の民と言われる木賀が、あとで何食わぬ顔して出てくるのには、唖然としますが、これも、この映画の矛盾点で、こちらで考えるシーンなのかもしれません。
最後は、島田と鬼頭の一騎打ちとなりますが、島田は、最初から鬼頭に腹部を刺されますが、なんで??このハンディを乗り越え、鬼頭の首を落します。
今まで自分の身を守ってくれた鬼頭の首を斉韶が蹴っ飛ばします。
その神経は如何にと思われ、ゾーとしました。
その斉韶も島田も死にますが、その様子は劇場で見てください。
そして、最後に生き残ったのは・・・・・
ラストシーンは、明治23年と表示され、そこには、遊女おえん(吹石一恵)が玄関先で、微笑んでいたところで、終わります。
おえんが、刺客を送り出す時、もう帰らないかも・・・と言い残し、お彼岸には帰ると・・・
その最後の人が、23年も経って帰ってきたのか、どうか、これも観客が勝手に想像してくださいということなのでしょう。
ともかく、今までの時代劇とは、一味違うようです。
主役の役所広司は、勿論、十三人も特徴のある脇役が固め、そこに松方弘樹、沢村一樹、伊原剛志などの剣のさばきはさすがと思わせられました。
そこに松本幸四郎、平幹二郎と多彩で、そこに暴君役としての稲垣吾朗の熱演は、この映画をより現代的な時代劇に仕上げたようです。
今年は”サムライ シネマ キャンペーン”と称して、映画会社がこぞって、時代劇を立て続けに封切りします。
この”十三人の刺客”を手始めに”雷桜””桜田門外の変””最後の忠臣蔵””武士の家計簿”などだそうです。
この時代劇は、昔の時代劇とは、少し違うようです。
西部劇的な要素と映画”七人の侍”を彷彿させる時代劇活劇です。
ということで、娯楽として見ると大いに楽しめる時代劇でした。
少々矛盾したところがあるのが、この映画の特徴で、そこは観客が勝手に想像してくださいと言っているようです。
想定に無理がある点、残忍な描写もあり、少し顔をしかめるところもあるのですが・・・・
つまり、サドとかマゾとかいわれる類の場面が時折出てくるのには、少々精神的に苦痛を伴いました。
しかし、それが、この映画の重要な部分であり、それがこの物語の発端となるからです。
この物語は、その史実は、後で脚色して造られたのは当然なのですが、その発端とした事件は、実際にありました。
明石藩が参勤交代で、尾張藩内を通過するとき、行列の前を三歳児が横切り、無礼打ちにあったのを、憤慨した尾張藩は、その明石藩の通過を拒み、そのため、行列を組まずに、農民に身を代えて通ったという記録があり、それをもとに創作されたものと思われます。
暴君、将軍の弟、明石藩の藩主松平斉韶(稲垣吾朗)を諌めるため、老中大井大炊頭(平幹二郎)の門前で切腹するところから物語は始まります。
斉韶は、将軍から次の老中に推挙されており、老中大井は、この暴君が老中になることを避けるため、暗殺を企てます。
直に言えませんが、腹心目付の島田新左ェ門(役所広司)は、その意を察し、目付の役を解き、斉韶(なりつぐ)の暗殺の計画を立てます。
暗殺は、参勤交代で領地明石領にもどる途中に襲うこととし、12人の同志を集めます。
ここから、斉韶の参謀の鬼頭半兵衛(市村正親)との神経戦が始まります。
先回りするため、奥深い山を抜けようとしますが、道に迷い、途中、山の民と呼ばれる木賀小弥太(伊勢谷友介)に助けられ、この山の民を加え、これで13人がそろいます。
落合宿で迎え討つ作戦をとり、この村を家ごと買い取り、色々な仕掛けを作り、迎え討つ準備中、当初は70名程と思われた供の者は、なんと200人に増えていると物見が伝え、13人に衝撃が走ります。
ここから、映画は、その200人対13人の戦いが始まります。
壮絶な戦い、切り合いをしますが、切っても切っても新手が繰り出し、200人どころか300人以上いるのではと思われ、ここがこの映画の面白いところで、切っても切っても、また切られても切られても、猛烈な死闘を繰り広げ、なにか無残ささえなければゲーム感覚とさえ思われます。
まして、首に小刀が刺されて一度死んだかに見えた山の民と言われる木賀が、あとで何食わぬ顔して出てくるのには、唖然としますが、これも、この映画の矛盾点で、こちらで考えるシーンなのかもしれません。
最後は、島田と鬼頭の一騎打ちとなりますが、島田は、最初から鬼頭に腹部を刺されますが、なんで??このハンディを乗り越え、鬼頭の首を落します。
今まで自分の身を守ってくれた鬼頭の首を斉韶が蹴っ飛ばします。
その神経は如何にと思われ、ゾーとしました。
その斉韶も島田も死にますが、その様子は劇場で見てください。
そして、最後に生き残ったのは・・・・・
ラストシーンは、明治23年と表示され、そこには、遊女おえん(吹石一恵)が玄関先で、微笑んでいたところで、終わります。
おえんが、刺客を送り出す時、もう帰らないかも・・・と言い残し、お彼岸には帰ると・・・
その最後の人が、23年も経って帰ってきたのか、どうか、これも観客が勝手に想像してくださいということなのでしょう。
ともかく、今までの時代劇とは、一味違うようです。
主役の役所広司は、勿論、十三人も特徴のある脇役が固め、そこに松方弘樹、沢村一樹、伊原剛志などの剣のさばきはさすがと思わせられました。
そこに松本幸四郎、平幹二郎と多彩で、そこに暴君役としての稲垣吾朗の熱演は、この映画をより現代的な時代劇に仕上げたようです。
今年は”サムライ シネマ キャンペーン”と称して、映画会社がこぞって、時代劇を立て続けに封切りします。
この”十三人の刺客”を手始めに”雷桜””桜田門外の変””最後の忠臣蔵””武士の家計簿”などだそうです。