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新幹線 よもやま話③ 大阪駅が避けられた訳は・・・・

2011年07月23日 13時22分49秒 | 鉄道のよもやま話

東海道新幹線の開業と同時に開設された駅のうち、新のつく駅は新横浜駅と新大阪駅でした。
開業時は全部で12駅あったのが、三島駅、新富士駅、掛川、三河安城の3駅は、あとで開業されました。

開業と同時にオープンした12駅のうち、9駅は、既存の在来線の駅に乗り入れていますが、その他、例外とされ、新設された駅は、新横浜、岐阜羽島、新大阪の3駅です。

岐阜羽島駅は、在来線のどの駅にも接続せず、新横浜駅は、横浜線と交差する菊名ー小机間に、新大阪駅は、東海道線と交差する東淀川ー大阪間に新設されています。

岐阜羽島駅は、政治駅などと揶揄されて、別の機会に述べるとして、新横浜駅と新大阪駅にはなぜ、在来線の横浜駅とか大阪駅に乗り入れしなかったのでしょうか?

新横浜も新大阪も、戦前の弾丸列車の計画時も、既存の駅の位置ではなかったそうです。
新横浜駅は、弾丸列車を走らす時、既存の横浜駅に乗り入れたのでは、直線とはならず、スピード面から、不可とされ、新幹線当時も同様の考えだったのですが、なかなか決まらず、先に最適と思われるルートを決め、成り行き?で横浜線と交差する場所を駅にしたとか・・・・・

では、新大阪駅はどのようにして決められたのでしょうか?

そもそも、新幹線の起点や終点の駅は、利用客も多く重要度も高い駅なのですが・・・・
新大阪駅は、東海道新幹線開業時、今もそうですが終点となる重要な駅と位置づけられる駅であり、ここが延伸して山陽新幹線にとっては起点となる駅となります。

なぜ、ターミナルと同じ場所ではなく、利用者にとって不便なところに造られたのでしょうか?
実際、今も不便であり、新大阪だけで用が済む場合は、一般人にはほとんどありません。
結局、東海道線に乗り換え大阪駅に出るか、地下鉄で梅田に出るしかありません。

  水彩画 ”岡寺にて”  F10
    飛鳥路 岡寺の本堂  見上げると、柱に永く支えた歴史が感じられました。

 

新横浜と同様、戦前の弾丸列車の計画時点でも大阪駅は避け、吹田付近に設置して用地も取得されていたそうです。
東海道新幹線の建設時点も国鉄はここを利用しようとしており、それを知った大阪市は猛烈に抗議しました。

当然、東京は、東京の中心である東京駅に乗り入れる計画が発表され、大阪も当然、大阪駅に乗り入れるものと思っており、不便さを主張して、一旦見直すとしました。

しかし、一番の難題は土地の確保でした。
駅の土地の確保や山陽新幹線を考えれば西に伸ばす線路の土地も確保しなくてはならず、結局、無理であると結論づけました。
しかし、今から思えば、あの広大な北のコンテナ操作場や、そこの地下も考えられたと思うのですが、当時としては、費用だけではなく、時間がない(オリンピックに間に合わせるという)ということでもあったと思われます。

この結果、工期の短縮と工費の削減圧縮のため、町の中心から離れた場所となり、利用者の利便性は二の次となったのではないでしょうか?

その後、国鉄は、どんな無理をしても大阪駅に乗り入れた方が良かったと思ったのかどうか定かではありませんが、その後の主要駅は、すべて町の中心につくられています。