今まで、江戸時代の庶民の生活として書いてきた庶民とは、江戸に住む庶民が対象でした。
このシリーズでは、上方に住む庶民の生活について書いてゆきます。
江戸が武士の町であったのに対して、上方は庶民の町といえます。
そこには、「天下の台所」とも云われた大阪(そのころは大坂ですが、このシリーズでは大阪と記載します)には商才たけた商人や今も残る文学をつくり上げた文化人、そして京都には天皇を中心とする独自の文化が育っていました。
「今日の着倒れ、大阪の食い倒れ、神戸の履き倒れ」と言われていますが、これは何時ごろから言われたのでしょうか?
神戸の町が世に広まったのは、幕末以降であり、江戸時代には神戸と言う町は認識されていませんでした。
と言うことは、神戸を含めてのこれらの言葉は、少なくとも明治以降に言われたようです。
では、神戸の・・・以外は、何時から言われたのでしょうか?
江戸時代の書物(1856年)には 「諺に京の着倒れ、江戸の食い倒れといふ如く、浪花の地も京師(京都)と同様に衣服をば殊に貯ふる風俗なり」 とあり、これによれば、食い倒れの町は江戸で、大阪は、京都と同様着倒れだと言っています。
その着倒れも、京都と大阪では、様子が違うようです。
京都は、西陣織に代表されるように豪華さが売りですが、大阪の着倒れとは「金々めかす」と言われていたようです。
江戸の町で「金々めかす」というのは、垢ぬけした粋(いき)と言われるのに対して、大阪での「金々めかす」とは、キラキラとした着こなしを言ったようです。
インドの綿の縞織物とか羅紗(オランダや中国からの輸入品)などの高級品が出回っていたとか・・・
又、江戸後期には、下記の戯文が描かれているものもあります。
「京の着倒れ、大坂の喰い倒れ、江戸の呑み倒れ」と書かれています。
と言うことは、江戸の後期には、大坂の食い倒れということも言われており、神戸の履き倒れ以外は、
江戸時代の後期には、云われていたようです。