当ブログで2010年12月14日、江戸時代 武士の生活として、年収、俸禄、行政組織、身分費用、交際費について述べてきました。
ここに、再び江戸時代の武士の生活について書いてゆきたいと思います。
今の日本人の生活、習慣などは江戸時代に確立したものが多くあり、江戸時代を知ることによって、今の日本を知ることにもなるのではないでしょうか?
江戸時代は慶長8年(1603年)に徳川家康が征夷大将軍の宣下を受け、それから、今年平成25年(2013年)は410年になります。
この時代の統治は、いわゆる武士階級が握っていました。
そこで、その武士の生活について考えてみました。
江戸時代では、身分階級として、士農工商がありますが、それぞれ居住区が決められおり、武士は武家屋敷の地域に住まなくてはなりません。
武士といっても、大名もいれば、下級武士もおり、俸禄の差が天と地ほどの大差があります。
当然、住居の大きさだけではなく、その様子も違います。
昨年訪れた金沢の長町武家屋敷の長屋門
町人の大半が住んでいた長屋の広さは、畳に換算すると約6畳位だそうです。
その中に玄関から台所、食べたり寝たりするのですから、一人暮らしでも手狭でしょう。
それに比べて武家屋敷は、身分によって大きな差がありますが、100石以下でも100坪から200坪あったそうです。
300石の旗本なら500坪、10万石の大名なら7000坪という広大な敷地に屋敷を構えています。
例えば300石の旗本なら500坪の敷地の中に母屋と使用人が住む平長屋があり、便所やお風呂、井戸など二つあり、協同使用されていました。
使用人として、門番、槍持ち、中間、若党、草履取り、用人、それに下働きなど約10人ほどいました。
母屋には、旗本の家族が暮らしています。
その屋敷も門構えで、格式がわかります。
江戸に限定すれば、左右に開く「開き門」であれば、禄高の多少にかかわらず、旗本であり、門ではなく、木戸の屋敷であれば、御家人の住まいです。
門構えについては、当ブログ 2006年9月22日付けの”門構えで格式が決まる”をご覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/ganbaro433/e/89bf7a75c7b7758d9ff07587a4a6c9bd
さらに、門番がおれば300石以上の旗本ですが、門番がいない旗本の家は、門に並んだ通用口の扉に鎖をつけ、その先に徳利をぶら下げていました。
徳利は、自動ドアの役目をしており、押せば開くが、手を放せば自然に閉まるというもので、「徳利門番」と呼ばれていたそうです。
徳利門番 徳利が錘となり、自動的に締まるというもの。
因幡鳥取藩池田家上屋敷(32万5千石)
左右に向唐破風造の番所を備えた格式高い大名屋敷の門
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