極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

昨日の友は今日の敵

2016年03月28日 | 政策論

 

 

   この社会に生きることのどこにいいところがあるのか、言われたら、どこにもないよと言うより仕方がない。

                                                               吉本 隆明

                                   

                                          Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924-16 Mar, 2012 

          ※ ひとは、時間軸を無限に外延し内省すれば漆黒の空に至る。そこから「生」の全を考え行動する。
                                                     

 


 【中国の思想: 戦国策Ⅱ】
 

  ● 目 次

   解題

   
   
   楚
   趙
   魏
   韓
   燕
   西周・東周・宋・衛・中山 

 

   斉

  釣をしていて周の文王に認められた呂尚(太公が待ち望んでいた人だから。太公望’といわれ、後世、釣り師
 の代名詞となる)を始祖とする斉の国は、現在の山東省にあった。紀元前十一世紀いらいその子孫が君臨してい
 たが、前三七九年、重臣の田氏がこれをうばって王となった。前四世紀後半、威王、宣王の代には学問のメッカ、
 百家争鳴の中心地となる。
 そ の国都臨溜は、春秋中期すでに戸数四万二千(『国語』)戦国時代になると戸数七万、男子人口二十一万、
 街のにぎわいは肩と肩がふれるほどだった(『史記』)という。が、その後ふるわず、前二二一年、秦に滅ぼさ
 れる。

  「蛇足をなす者、ついにその酒を亡えり」
  「猿、摺孤(びこう)も、木を錯てて水に拠らば、魚駈(ぎょべつ)にしかず」
  「狡兎は三窟あり」
  「いやしくも民なくんば、何をもってか君あらん」



 ● 本末転倒

    斉王・建は趙の威后のもとに使者をやって、ご機嫌を伺わせた。威后は手紙を開きもせずに、使者に問うた。
 「今年の作柄はどうなの? 民の暮し向きは? 王にも変りはない?」
  使者は不満そうな顔をした。

 「王の使いとして参りましたのに、王のことは二の次ぎ、まず作柄や民の暮し向きをおたずねになる。王を後
 まわしになさるのは、順序がまちがってはいませんか」

 「いいえ。作柄がよくなければ、民は生きられません。そうなれば、工も生きられません。根本を問わないで
 末節を尋ねるほうがまちがっています」

  威后は、身を乗り出して言葉をついだ。

 「斉に鎮座子という浪大昔がいたはずですが、元気ですか。あの男は、人々に着るものや食べるものを不自由
 ないようにさせる大。これこそ王を助けて民を養う人物です。どうして浪人などさせておくのかしら?それか
 ら、葉賜は変りありませんか。あの男はやもめを哀れみ、孤児や身よりのない老人をいつくしみ、貧乏人に衣
 食を補助しています。これこそ王を助けて民を洽める人物。どうして浪人などさせておくのかしら?また北宮
 の嬰兄子という女はどうしていますか。あの女は、耳飾りもつけず、お嫁にも行かずに、父母を養っています。
 これこそ民に孝行を教える手本です。どうして朝廷に入れてやらないの? このような人たちをほったらかし
 ておいて、どうして国を洽めることができましょう。それから於陵の子仲はまだ生きていますか。あの男は臣
 下としての礼をつくしません。自分の家の世話もみません。諸侯とも交わりません。あんな男がいては、民が
 役立たずになるばかり。どうしていつまでも生かしておくの?」

 〈斉王・建〉 建は斉の最後の王(在位・前二六四~二二一年)。龍二二一年、秦王政(始皇帝)によって国
        都臨溜をせめおとされ、捕えられた。秦は斉を最後に諸国併呑を完成する。

 

 


● 折々の読書  『China 2049』18 


                                  秘密裏に遂行される「世界覇権100年戦略」     


                                                    マイケル・ピルズベリー 著
                                                    野中香方子 訳   

ニクソン政権からオバマ政権にいたるまで、米国の対中政策の中心的な立場にいた著者マイケル・ピルズベリーが
自分も今まで中国の巧みな情報戦略に騙されつづ
けてきたと認めたうえで、中国の知られざる秘密戦略「100年マラ
ソン( The Hundred-Year Marathon )」の全貌を描いたもの。日本に関する言及も随所にあり、これから
の数十年先の
世界情勢、日中関係そして、ビジネスや日常生活を見通すうえで、
職種や年齢を問わず興味をそそる内容となって
いる。 

 

  序 章 希望的観測
 第1章 中国の夢
 第2章 争う国々
 第3章 アプローチしたのは中国
 第4章 ミスター・ホワイトとミズ・グリーン
 第5章 アメリカという巨大な悪魔
 第6章 中国のメッセージポリス
 第7章 殺手鍋(シャショウジィエン)
 第8章 資本主義者の欺瞞
 第9章 2049年の中国の世界秩序
 第10章 威嚇射撃
 第11章 戦国としてのアメリカ
 謝 辞
 解 説 ピルズベリー博士の警告を日本はどう受け止めるべきか
     森本敏(拓殖大学特任教授・元防衛大臣)  

 

   第3章 アプローチしたのは中国 


                                   東の呉と組み、北の魏と戦う-『三国志演義』(配元前200年)

                                         毛主席への覚え書き(1969)より引用  

  中国は、勢を読み、アフガニスタンとベトナムにおいてソ連による包囲を破るには、アメリカの支援が必要だ
 と考えたに違いなかった。ソ連による包囲は、毛沢東がアメリカからもらったものより、さらに多くもらうこと
 を正当化した。こうして郵は、アメリカからかなりの支援を取り付けた(注62)。

  1982年から89年にかけて アメリカとベトナム共和国軍は、中国、タイ王国軍、シンガポール、マレー
 シアの支援を受けて、カンボジアプログラムをバンコクで展開した。これは、アメリカから中国への11番目の
 プレゼントとなった。この内密の協力はむしろ公然と行われたために、20年にわたって、世間に気づかれなか
 った。USAID(アメリカ国際開発庁)は、カンボジアで非戦闘的な人道支援を進めるための二つの基金(提
 唱者であるフロリダ州選出の共和党のピル・マコラム下院議員と、ニューヨーク州選出の民主党のステファン・
 ソラーズ下院議員にそれぞれちなんで名付けられた)を提供した。レーガンは、これらのプログラムに年間20
 0万ドル相当の支援を秘密裏に提供するよう、CIAに命じた。ケネス・コンボイによると、その金額は198
 6年までに1200万ドルに膨らんだそうだ(注63)。このプログラムはタイが「プロジェクト328」と呼ぶ
 作戦と合わせて遂行された。中国、マレーシア、シンガポール、タイも、このブログラムに武器と資金を提供し
 た。シンガポールのリー・クワンユー首相さえバンコクを訪れ、秘密基地を視察した。わたしは1985年と8
 6年にその基地を訪れ、CIAの職員から簡単な説明を受けたが、その職員はCIA本部の極東部門の長を務め
 た人物だった。彼はそのプロジェクトを、冷戦という状況下にあって、中国と連携してソ連に立ち向かうための
 「不本意ながらやむをえない方策」と見ていた(注64)。

  カンボジアでのプログラム開始から2年後の1984年の夏、中国はソ連をアフガニスタンから追い出すため
 に、密かにアメリカに協力しはじめるが、やがてその規模はカンボジアでの協力の50倍に達した。
  当時、わたしたちは、勢と逆包囲について理解しておらず、アフガンの反乱軍を助けるアメリカの主要な武器
 供給源になることによって、中国がソ連の復讐というリスクを負うことになるとは考えてもいなかった。それに
 気づいたのは、中国の標準語(北京語)を話すCIAの優秀な協力者、ジョー・ディトレイニーだ(注65)。米
 中のつながりは極秘にされており、タイラーによると、この作戦を知っているのはCIA全体で10人足らずだ
 った。現在でも中国側は、当時このような武器の提供を行ったことを認めていない。著書『チャーリー・ウィル
 ソンズ・ウォー』でジョージ・クライルは、アメリカが中国に最初に注文したのは、AK47狙撃ライフル、機関
 銃、対戦車ロケット砲、地雷だったと記している(注66)。

  1984年、チャーリー・ウィルソン下院議員は、アフガン反乱軍への支援を増やすために、5000万ドル
 を獲得した。クライルによると、CIAはそのうちの3800万ドルで中国から武器を買うことにしたそうだ。
 1990年、ワシントン・ポスト紙は、匿名の情報として、米中が密かに協力していたこの6年間に、中国から
 買い入れた武器の総額は20億ドルを超えたと報じた。 

  米中の秘密協力はレーガン政権時にピークに達した。ニクソンとフオードはソ連の情報を中国に提供した。カ
 ーターは、チェスナット盗聴作戦を確立した。だが、秘密裏にではあるが、中国を戦略上の対等なパートナーと
 して遇したのはレーガンだった。米中が協力した三つの主な作戦は、アフガニスタン、カンボジア、アンゴラに
 おける反ソ勢力への秘密支援だった。当時わたしは、中将に相当する文民の位にあり、国防総省で政策の策定と
 秘密活動に取り組み、そうした諸々を政策担当幹部であるイクレに報告していた。イクレとわたしは、キッシン
 ジャーが1973年に中国を支援したことやカーター大統領がチェスナット・ブログラムを遂行したことを知る
 限られた人間だった。彼とわたしは、中国がアメリカの同盟国になることを本気で望んでいるのかどうかを調べ
 たいと思っていた。答えがイエスなら、アメリカの上級幹部はこの先何年も中国に肩入れすることになるだろう。

  わたしの任務は、イスラマバード、バンコク、アンゴラ南部を訪れ、反ソ勢力のリ-ダーから、計画と要望を
 聞き出すことだった。また、助言、承認、支援を得るために中国も訪れた。わたしたちはレーガン大統領にNS
 DD166(アフガンヘの直接支援を可能にし、支援内容を拡大させた)への署名を勧めた。アフガンでの抵抗
 運動の 高まりが、ソ達による報復を誘発しかねないからだった(注67)。アメリカは中国による状況の評価と、
 願わくば、支援を必要としていた。



  20年後、ジャーナリストのスティープ・コールは、「中国の共産主義者はCIAがまとめた武器取引で莫大
 な利ざやを稼いだ」と主張した(注68)。反ソ勢力に送るためにアメリカが中国から買い入れた武器の総額が2
 0億ドルを超えたという主張が本当なら、中国がアメリカから購入した軍装備品の5億ドル以上という金額は少
 なく思える
  中国は反ソ勢力のための武器をアメリカに売っただけでなく、秘密協力をどう進めるかについての助言もした,
 その助言
から、傾きかけた覇権国、この場合はソ達に対する中国の戦略がいくつか見えてくる。まず中国は、ソ
 連の弱みを見つける
ことを強調した。そして第一の戦略は、ソ達朗のコストを上げることだと説いた。アフガン
 とアンゴラの反乱軍にスティンガー
対空ミサイルを提供することをわたしが提案すると、それでヘリコプターや
 ジェット戦闘機を撃ち落とせば、ソ達にとては高く
つくと、彼らは大喜びした。

  第ニの戦略は、他者を戦わせることだ。言うまでもなく、「無為」という戦国時代の戦略である。

  第三の戦略は覇権国の同盟国を攻撃することだ。カンボジアの反乱軍は、ソ達の傀であるベトナムと戦った。
 アンゴラの反乱軍は、ソ連の航空機でアンゴラに送られ
たキューバ人を追放したが、もしスティンガー対空ミサ
 イルを持っていたら、その航
空機を撃墜していたことだろう。アメリカは中国と協力して、これらすべてと、そ
 れ
以上のことを行った。

  わたしは中国の代表に、さらに二つのことをするのは、あまりにも挑発的だろうか、と尋ねた。その一つは、(
 冷戦の問でさえ行われなかったことだが、アフガンの反
乱軍を支援して、ソ連領内で破壊工作をさせることで、
 もう一つは、アフガンの要求
に応えて長距離狙撃銃、暗視ゴーグル、同国に駐在するソ連高官の居場所を掲載し
 
地図を提供し、暗殺を成功させることだ。わたしの同僚は、中国もさすがにそれには賛成しないだろうと考え
 ていた。一方わたしは、中国の歴史書をたくさん読んでいた
ので、彼らは賛成するのではないかと予測した。し
 かし、そんなわたしでさえ、中国
がこの提案のどちらにも諸手を挙げて賛成した時には、あまりの情け容赦ない
 さまに
当惑した。
  スティーブ・コールは、ピュリツアー賞を受賞した著書『アフガン諜報戦争』で、アフガンからのこれらの要
 請を却下したのはアメリカ側だと述べている。CIAの法
律顧問が、それはほとんど「暗殺行為」であり、現地
 のCIA支局長が「手錠をかけ
られる羽目になる」と警告した、とコールは語る(注69)。そういうわけで、狙
 撃銃は
承認されたが、地図と暗視ゴーグルは承認されなかった。また、ソ連領内で奇襲攻撃を仕掛けるという案
 も、まもなく取り下げられた。中国側はその案をいたく気に入
り、傾きつつある覇権国に心理的ショックを与え
 ることができると、しきりに推した
のであったが(注70)。

  1985年、アメリカは中国のマラソンを支援するために、武器さえ提供するようになった。レーガン政権が、
 10億ドル超の六つの主要な武器システムを中国に売る手
はずを整えたのだ。その狙いは、中国の陸軍、海軍、
 空軍を増強し、さらには海兵隊
の拡大を支援することにあった(注71)。そして1986年3月、レーガン政権
 は、遺
伝子工学、知能ロボットエ学、人工知能、自動化、バイオテクノロジー、レーザー、スーパーコンピュー
 ター、宇宙工学、有人宇宙飛行に焦点をあてた中国の八つの国立
研究センターの設立を支援した(注72)。ほど
 なく中国は、1万を超すプロジェクトで
著しい進歩を遂げた。それらは中国の了フソン戦略にとって極めて重要
 なものだった
が、西側諸国の支援がなければ、到底なし得なかったはずだ。レーガン政権は、中国を後押しすれ
 ばソ連に対抗できると信じ、レーガンをはじめとして誰もが、積極的に
自由化を進めているという中国の主張を
 信じようとした。

  仲間に支援してもらってソ連の包囲を破るという中国の戦略は成功しつつあった。1989年、ソ連はアフガ
 ニスタンから退却し、まもなくベトナムもカンボジアから
撤退した。では、アメリカと中国は、信頼の土台を築
 き、真の同盟国になれたのだろ
うか。なれた、と当時のわたしは考えていた。しかし、戦国時代の原理に則れば、
 中
国はついに真の覇権国と向き合うべき時を迎えていた。その相手は、アメリカであ 勢の重要な要素の一つは、
 包囲を仕掛けてくる敵を迎え撃つことだ。1989年2
月、鄭小平は、北京でジョージ・H・W・プッシュ大統
 領と会談した折に、「ソ連によ
る包囲は、中国にとって致命的な脅威だった」と語った。おそらくそれは本音だ
 った
のだろう。だが、今、囲碁の形勢は逆転し、弱体化したソ連を中国が包囲しつつあった。そして、ソ連が衰
 退しはじめ、アメリカの覇権が拡大しつづけている時に、中国
が勢をどう読み取るかは、誰にも予測できなかっ
 た。
  

武力という悪魔が跋扈する『国家覇権戦略』に取り憑かれるとどうなるか?国家主義という大魔王は罪なき民の生命
が奪う――現代中国史から「
覇権」に翻弄される世界をこの著書は炙り出す。そのひとつが「払暁の友は、昨夜の敵」
の中ソ(ロシア)間の内ゲバを通し、中越戦争、カンボジアの大虐殺、アフガニスタン紛争、9・11、イラク侵攻、
北アフリカ・中東紛争と南沙諸島紛争まで貫く。鬱陶しくも興味深い読書時間を提供してくれる。

                                             この項つづく

      

注63  Conbov.Cambodian Wars, 288.
注64 同上、226-27.
注65 Mary Louisc Kclly,"Intelligcnce Veteran Focuses on North Korea.” NPR, Octobcr 13, 2006.以下のサイトで入手可能,
    http://www
.npr.org/templates/story/story.php?storyld=6259803.
66. Crile,Charlie Willsu's Wαe,and Conboy, Cambodian Wars.
注67. NSDD 166, US Policy. Programs,and Strategy in Afghanistan,March 27, 1985,以下のサイトで入手可能。
    http://www.fas.org/irp/
offdocs/nsdd/nsdd-166.pdf
注68.. Steve Coll, Ghost Wars: The Secret History of  the CIA, Afghnistan, and Bin Laden, from the Soviet Invasion to Septem
           10, 2001(New York: Penguin Press, 2004),66.

注69.  同上、137.
注70.  同上。このすべてでわたしが果たした役割は3冊の本に記されている。レイモンド・L・ガーソフは「マイケル・ピルズベ
    リーは当
初、1975年秋のフォーリン・ポリシー誌のかなり話題になった記事で、中国への武器輸出と、中国との広範囲
    にわたる軍事安全保障関係
を提案した。当時知られていなかったのは、ピルズベリーが中国当局者と内密の会談を
    行ってきたことだ。(中略)彼の報告書は秘密文書と
して、国家安全保障会議、国防総省、国務省の10名あまりの幹部
    に回
覧された」としている,Raymond L.Garthoff,Dètente and Confronation: American-Soviet Relations from Nixon to
           Reagan (
Washington,DC: Brookings lnstitution, 1983),696. マフムード・アリによれば、「ランド研究所の中国分析家、
           マイケル・ピルズベリ
ーは(中略)1973年夏、中国の国連監視団という名目でアメリカに来ていた人民解放軍将校たち
           と密かに会った。(中略)国防総省の命によ
るものだ」。Mahmud Ali,US-China Cold War CoLLaboration; 1971-1989.
          
(New York: Routledge, 2005),81.アフガニスタンからの退却についてソ連と交渉した国連事務次長、ディエゴ・コルド
           ベスに
よると「当初、スティンガー・キャンペーンの陣頭指揮をとったのは、国防次官フレッド・イクレと、攻撃的なアフガ
           ニスタン問題の調
整官、マイケル・ピルズベリーだった。(中略)スティンガー支持者は最終的に勝利を収めたが、官僚
           は  最後の最後まで激しく抵抗した」。
Dicgo Cordovcz,Out of Afghanistan: The Inside Story of theDiegoCordovez, Out
           of Afghanistan: The Inside Story of the
Γ・(New York: Oxford university Prcss, 1995),195.クリントン大統領の副司法
           長官、フィリップ・ヘイマンは次のように潜いた。「秘密行動委□会は3~4週間ごとに集まった,その存在は公には知ら
           れていなかったが、こうした委員会はアイゼンハワー以来、全政権で運営されていた。例えば、ケネディ政権では、40
           委員会と呼ばれていた。秘密行動についての情報はすべて「VEIL」
というセキュリティーシステムで保護されていた」。
    Philip Heyman Living the Policy Process(Ncw York: Oxford univcrsity Prcss, 2008),44.
注71 KarI D. Jackson,Mernorandum for the lnteragency Group on U.S--China Military Relations,Subject: U.S.-China 
           Military Relations: A Roadmap,September 10,1986,Department of Defense,lntermational Security Affairs,
           Douglas Paal file. Reagan Presidential Librarv.
 
注72.  同上。以下も参照。Feigenbaum,China's Techno-Warriors.      

 

  ● 今朝の朝食              

懐かしい、万平ホテル製のランチョンマット、山中漆器の榛(ハンの木)のプレートに「マッシュパンプキンと卵の
厚巻きオープントーストのルッコラとミニトマト添え」を戴くことに。ハンの木のプレートが 新鮮だったので慌て
てデジカメする。 
                     

 

 

 

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