植物は陸上動物の食料のほとんどを供給する命の源。そして植物のほぼ100%が、ごくわずかに植物
工場を例外として、土の上で育つ。土壌は動植物の死骸や老廃物を有機質肥料として分解し、作物
に養分を供給する役割を果たし、農耕を開始して約1万年になる。土壌のこうした機能は、人間は
は真似ることができるのだろうか?もし土壌が有機物を無機養分に変換する機能を失ったら、農業
が不可能で、地上は腐敗した動植物の死骸で覆われ、陸上動物は絶滅してしまうという(篠原信『
土を使わず有機肥料だけで栽培できる新養液栽培技術』)。
このことは簡単に追体験できる。生ごみをコンクリートの土や人工樹脂の中など、土壌以外の場所
で分解してみる。生ごみは異臭を放って腐敗→腐敗した生ごみに種子を蒔く→発芽しても多くが枯
れる。土壌なしには有機質肥料は使えない。ここで、「腐敗」とは人間に不都合な悪い微生物分解
のことをさすが、逆に都合のよい分解を「発酵」なら、土壌中の有機質肥料の分解は「発酵」というこ
とになる。土壌だけが有機質肥料を「発酵」できるのか?その鍵を握るのが、硝酸化成である。
植物にとって最も重要な養分か窒素であり、窒素の分解は2つの反応がアンモニア化成と硝酸化成
となる。タンバク質などの有機略の窒素はまずアンモニアに分解→硝化菌の作用を受けて硝酸イオ
ンに変換分解する。陸上植物の多くが好硝酸性植物であるため、健全な生育には硝酸イオンが不可
欠で、このタイプの植物に硝酸イオンを与えないでアンモニアだけを与えると生育が悪化し(アンモ
ニア過剰傷害)、最悪の場合枯れる。このため、硝酸イオンの供給は陸上植物にとって、不可欠なの
だ。
ところで奇妙なことに、有機物が存在すると硝化|菌は有機物を嫌うため硝酸化成が阻害されてしま
うのだという。この「硝化菌」には、アンモニアを酸化して亜硝酸を生成するアンモニア酸化菌と、
亜硝酸を酸化し硝酸を生成する亜硝酸酸化菌の2種類の細菌が含まれ、絶対好気性、独立栄養、有
機物を嫌うという共通の特徴をもつが、何故、硝化菌が有機物を嫌うメカニズムは分かっていない。
いくつかの有機物を例外として、硝化菌は有機物の曝露を受けると活動を停止、寒天培地に含まれ
る寒天さえ有機物として認識するのかコロニーを形成しないという。
そこで篠原は、(1)微生物にとって毒性のある物質を少量ずつ与えることで耐性をつけるという微
生物培養法であると(2)アンモニア化成と硝酸化成分けずにする混合培養法を試みる。その結果、
(1)微生物源として土壌を少量(5g/リットル)加える(2)有機肥料を徐添加する(0.1~0.5g/
リットル程度、有機物の添加は3~7日程度で中断)(3)2週間以上l曝気するという3つの注意
点を守れば、水中でも有機肥料を分解して硝酸イオンなどの無機イオンを回収できることを発見し、
土壌と同じ反応を水中でも再現できるようになる(上図)。こうして、アンモニア化成と硝酸化成を
同時併行的に進める並行複式無機化法で水耕液として用いると、世界初の実用的な養液栽培技術、有
機肥料活用型養液栽培が実現したのだ。
なお、並行複式無機化法は下水処理と似ているが、下水処理は脱窒(硝酸が窒素ガスに変換される反
応)を伴うのに対し、並行複式無機化法は脱窒を極力抑えている点である(上図)。もし脱窒が起きてし
まうと、培養液から硝酸イオンが失われ、これを養液栽培の培養液として用いても、植物を育てるこ
とはできないという。アンモニア化成・硝酸化成は促進しつつ、脱窒を抑えることが、植物栽培にお
いて極めて重要なのだ。
このようにして、無機肥料製造と土壌創生の2つが生み出される。生ごみなどの有機資源から無機肥
料を製造することは、持続可能能性を高める上で重要で、無機肥料のほとんどは化学肥料の形で供袷
されているが、化学肥料の原料は枯渇性の地下資源であり、合成には大厦の化石燃料が必要である。
このため、資源が枯渇すると化学肥料の供給に懸念が発生。『世界を養う』の著者、バーツラフ・スミ
ルによる試算では、化学肥料がなければ地球は30~40億人程度の人口しか養えなえず、化学肥料に代
わる無機肥料の製造法の開発が必要とされ、並行複式無機化法は生ごみなどの有機質資源から無機肥
料を製造する可能性を秘めている。だが、篠原の方法ではわずかな量の有機質肥料しか分解できず、分
解に2週間以上もかかり効率が悪すぎるため、効率的な無機肥料製造方法の開発を行う,それがカラ
ム法である(下図)。
並行複式無機化法で培養した微生物群をウレタンや炭などの多孔質の担体に固定化し、カラム状に充
填すると、有機物から無機肥料を効率よく製造できるカラムとなる。カラムの上部に有機物を加え、
一晩静置して水でカラムを洗浄すると下から方から無機肥料の水溶液を回収できる。この操作を60日
以上毎日続けても性能低下しない。カラム1リットル当たり1g/日以上の有機物を無機肥料に変換で
き、水中での並行複式無機化法と比べ、効率は10~100倍に向上。曝気は不要で有機物と水を加える
作業以外にエネルギーを必要とせず、生ごみなどの有機質資源から無機肥料を製造する技術として、
2012年農林水産研究成果10大トピックスにも選ばれている。
さらに、「有機物を加えたら翌日水で洗う」という簡単な操作で効率よく無機肥料が製造できるように、
(1)非湛水型…下方の排出口は常時開放し、担体間の間隙からは水が抜け、通気性が高い構造とす
ることで、硝酸化成に必要な酸素供給が容易となる(2)粗密構造…担体は多孔質なた毛細管現象に
より水分を長時間保持し、これに対し担体間隔が大きいので水が抜けて通気性が高く、担体間を「粗」
担体内部を「密]の構造をとり、保水性と通気性(水と酸素の供給)の両立を可能とする(3)有機物・
硝酸の空間的隔離…微生物が付着した担体は疎水クロマトグラフィーのような性質を示し、添加した
有機物は上層の浅い部分に集中。これに対し硝酸イオンは担体に吸着しにくく、カラム全体に拡散し、
有機物と硝酸イオンの存在する場所が空間的に隔離され、脱窒が起きにくくなる(脱窒菌は有機物を
エネルギー源、硝酸イオンを酸素源にするので、両方が併存しないと脱窒しにくくなる)(4)有機
物・硝酸の時間的隔離… 有機物が分解し硝酸イオンが生成する頃には有機物は分解されて失われ、有
機物を新たに添加する場合、その前に水洗浄を行うのでカラム内には硝酸イオンがほとんど残らない。
このように有機物と硝酸イオンのそれぞれがカラム内で存在する時間帯かすれ、脱窒が起きにくくな
る。以上の4つのエ夫により脱窒を可能な限り抑え、硝酸生成の効率を向上させている。
さらに、もう1つの重要な派生技術が、土壌創出,カラム法で用いていた微生物相体は、実は土壌の
代替物として利用することができるので、多孔質の媒体、例えばウレタンやメラミンなどの人工樹脂、
木質チップや炭などの天然物、バーミキュライトなどの鉱物に、並行複式無機化法による培養液を添
加し、微生物を固定化することで、土壌の基本機能の「有機質肥料を分解し植物に養分を供給する」
機能を付与できる(Soilization(土壌化))。通常、非土壌に有機質肥料を加えると分解がアンモ
ニア化成で止まり腐敗して植物は育たないが、土壌化した媒体では有機質肥料を加えて植物を育てる
ことができるようになる(上図)。この技術の応用例として「作土層の創出」が挙げられる、例えば
放射性物質で汚染された表土を除去すると、それが耕作地の場合、最も地力の高い「作土層」を破壊
する。土壌化技術で、新たに加える客土に一定程度の地力(有機肥料を分解し養分を供給する微生物
活性)をつけ、早期に作上層を回復させることができる可能性がある。また、軽量のウレタン樹脂な
どを土壌化すれば、屋上緑化などに適した人工土壌として利用できる、土壌化技術は、様々な実用場
面か考えられ、土壌化技術は農学史上の重要なブレークスルーとして可能性が広がる。解析困難だっ
た土壌が、解析可能な対象に変わるからである。自然土壌には雲母、石英、長打、カンラン石等々、様
々な鉱物が含まれ、土壌サンプルの採取場所が1cm離れるだけで土壌鉱物の構成が違ってしまい、
鉱物の影響を受けた微生物相も大きく変化。このため土壌は「カオス(渾沌)」であり、再現性のあ
るデータを得ることが極めて困難だったが、例えば雲母のような特定の鉱物だけを土壌化することで
鉱物種ごとに土壌微生物への影響を調べることが可能で、土壌の解析が急速に進むのではと期待され
ている。また、植物を有機質肥料で栽培するには「有機物から硝酸イオンを生成する」ことが不可欠
であることが明確になり、「有機物から硝酸イオンを生成する」という機能を再現に、どこまで少数
の微生物種で可能なのか、微生物の絞り込みを行えば、それらは「土壌微生物エレメント」と見なすこ
とができ、土壌を科学的に解析することがますます容易になると期待される。
以上、このレポートをみながら1989年の書いた『引き寄せられる混沌』を思い出した。科学技術の急
激な、あるいは急激な人類の欲望膨張に対する「地球環境変化」によるリスクへの恐れであり、複雑
系や荘子の傾斜であったことをだ。篠田はこのことをこの技報の「おわり」で触れている。とは言え
このブログのコア・テーマである「新弥生時代」の若きホープであることに惜しみない称賛を送りた
い。
※ 関連知財
・特開2012-239952 還元性有機物を原料とするフェントン反応触媒 独立行政法人農業・食品産業技
術総合研究機構
・特開2012-228253 植物栽培用養液の製造法 独立行政法人農業・食品産業技術総合研究機構
・特開2012-200692 水熱反応利用の汚泥メタン発酵処理方法及びシステム 鹿島建設株式会社 他
・特開2012-026704 エアー供給装置 株式会社八光電機
・特開2011-212518 コーヒー粕あるいは茶殻を原料とするフェントン反応触媒 独立行政法人農業・
食品産業技術総合研究機構
・特開2010-088360 植物の養液栽培に用いる軽石培地の製造方法、前記方法から得られた軽石培地を
用いた、植物の養液栽培装置、並びに、植物の養液栽培方法 独立行政法人農業・食品産業技術総
合研究機構 他
・特開2010-088359 並行複式無機化反応の触媒として最適化された微生物群の種菌の製造方法 独立
行政法人農業・食品産業技術総合研究機構
・特開2010-088358 並行複式無機化反応を行う微生物群が固定化された固体担体、触媒カラム、およ
び、植物栽培用固形培地の製造方法 独立行政法人農業・食品産業技術総合研究機構
・特開2008-296192 循環型連続式亜臨界水反応処理装置 公立大学法人大阪府立大学 他
・ 特開2007-119260 バイオミネラル含有物の製造方法および有機養液栽培法 独立行政法人農業・食
品産業技術総合研究機構
駅からマンションまで一人で歩いて帰るあいだ、つくるはずっととりとめのない思いに囚わ
れていた。時間の流れがどこかで左右に枝分かれしてしまったような奇妙な感覚があった。彼
はシロのことを考え、阪田のことを考え、沙羅のことを考えた。過去と現在が、そして記憶と
感情が、並行して等価に流れていた。
おれという人間の中には何かしら曲がったもの、歪んだものが潜んでいるのかもしれない、
とつくるは思った。シロの言ったとおり、おれには表の顔からは想像もできないような裏の顔
があるのかもしれない。いつも暗闇の中にある月の裏側のように。おれは自分でも気づかない
まま、どこか別の場所で、別の時間性の中で、本当にシロをレイブし、彼女の心を深く切り裂
いてしまったのかもしれない。卑劣に、力尽くで。そしてそんな暗い裏側はやがていつか表側
を凌駕し、すっぽりと呑み込んでしまうのかもしれない。赤信号で横断歩道を渡りそうになり、
急ブレーキをかけたタクシーの運転手から、彼は激しい罵声を浴びせられた。
部屋に戻ってパジャマに着替え、ベッドに入ったとき、時計は十二時近くを指していた。そ
してそのときになって、まるで思い出したように勃起が戻っていることにつくるは気づいた。
それは石のように硬く揺らぎない完璧な勃起だった。それほど硬くなれるなんて、自分でも信
じられないくらいだ。皮肉なものだ。彼は暗闇の中で長く深いため息をついた。そしてベッド
を出て部屋の明かりをつけ、棚からカティーサークの瓶を出し、小さなグラスに注いだ。そし
て本のページを開いた。一時過ぎになって急に雨が降り出した。時折まるで嵐のように風が強
くなり、大きな雨粒が横殴りに窓ガラスを打った。
この部屋のこのベッドで、おれはシロをレイブしたことになっているのだ、とつくるはふと
思った。酒に薬を混ぜ、身体を痺れさせ、服を脱がせ、無理に犯した。彼女は処女だった。そ
こには激しい痛みがあり、出血があった。そしてそれを境に、多くのことが変化してしまった。
今から十六年前のことだ。
窓を打つ雨音を聞きながら、そんな考えを巡らせているうちに、部屋背怖がいつもとは違う
異質な空間になったように感じられてきた。まるで部屋そのものがひとつの意思を持っている
かのようだ。その中にいると、いったい何か真実で何か真実でないのか、彼には次第に判断が
つかなくなってきた。ひとつの真実の相にあっては、彼はシロに手を触れてもいない。しかし
もうひとつの真実の中では、彼は卑劣に彼女を犯している。自分が今いったいどちらの相に入
り込んでいるのか、考えれば考えるほど、つくるにはわからなくなってくる。
結局、二時半まで眠ることができなかった。
PP.228-229
村上春樹 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
しかしヘルシンキ行きの飛行機に乗る数日前、つくるはふとした偶然で沙羅の姿を目にする
ことになった。ただ沙羅はそのことを知らない。
彼はその夕方、クロヘの手土産を買うために青山に足を運んだ。彼女のための小さな装身具
と、子供のための日本の絵本。そのような買い物に適しか店が、青山通りから少し裏に入った
ところにあった。一時間ほどかけて買い物を済ませたあと、少し休みたくなって、表参道に面
したガラス張りのカフェに入った。窓際の席に座り、コーヒーとツナサラダのサンドイッチを
注文し、夕暮れの先に染まった通りの風景を眺めていた。彼の前を通り過ぎていく人々の多く
は、男女のカップルだった。彼らはいかにも幸福そうに見えた。みんなどこか特別な場所に向
かって、何か楽しいことが待ち受けている場所に向かって、歩を運んでいるようだった。人々
のそんな姿は彼の心をますます静謐な、動きのないものにしていった。風のない冬の夜の、凍
りついた樹本のようにひっそりした心持ちだ。しかしそこには痛みはほとんど含まれていない。
長い歳月の間に、特別な痛みを感じなくてすむほど、つくるはそのような心象に價れてしまっ
ていた。
それでもやはり、沙羅がここに一緒にいてくれればいいのだがと、つくるは思わないわけに
はいかなかった、でも仕方ない,つくる自身が彼女に会うことを断ったのだ、それが彼の求め
たことだった。彼が自らの裸の枝を凍りつかせたのだ。この爽やかな夏の夕暮れに。
それは正しいことだったのだろうか?
つくるには確信は持てない。その「直感」は果たして信頼に足るものなのだろうか? それ
は実は直感でも何でもなく、根拠のないただの思い込みに過ぎないのではないか?「フォース
と共に歩みなさい」と沙羅は言った。
つくるはしばらく、本能なり直感なりに従って暗い海を長く旅する鮭たちのことを考えてい
た。
ちょうどそのとき、沙羅の姿がつくるの視野に入った。彼女はこの前に会ったときと同じミ
ントグリーンの半袖のワンピースを着て、薄茶色のパンプスを履き、青山通りから神宮前に向
けて緩やかな坂を下っていた。つくるは息を呑み、思わず顔を歪めた。それが現実の風景だと
は信じられなかったからだ。数秒の間、彼女の姿は自分の孤立した心が作り上げた精巧な幻影
のように思えた。しかし疑いの余地なくそれは生身の、現実の沙羅だった。つくるは反射的に
椅子から腰を浮かし、危うくテーブルをひっくり返しそうになった。コーヒーがソーサーにこ
ぼれた。しかし彼はすぐに上げかけた腰を下ろすことになった。
彼女の隣には中年の男がいた。がっしりした体格の中背の男で、濃い色合いのジャケットを
着て、ブルーのシャツに、小さなドットの入った紺のネクタイを締めていた。きれいに整えら
れた髪には、いくらか白いものが混じっている。たぶん五十代前半だろう。顎が少し尖ってい
るが、感じの良い顔立ちだった。表情には、その年代のある種の男たちが身につけている、無
駄のない物静かな余裕がうかがえた。二人は仲よさそうに手を繋いで通りを歩いていた。つく
るは目を軽く開いたまま、二人の姿をガラス越しに目で追った。まるで形作りかけていた言葉
を途中で失ってしまった人のように。彼らはつくるのすぐ前をゆっくり歩いて通り過ぎたが、
沙羅は彼の方にはまったく目を向けなかった。彼女はその男と話をするのに夢中で、まわりの
ものごとはまるで目に入らないようだった。男が短く何かを言い、沙羅は目を開けて笑った。
歯並びがはっきり見えるくらい。
そして二人は薄暮の人温みの中に呑み込まれていった。つくるは彼らが消えていった方向を、
ガラス越しにそのあとも長く見つめていた。沙羅がまた引き返してくるのではないかと微かに
期待しながら。彼女はつくるの姿がそこにあったことにはっと気づき、僻情を説明するために
戻ってくるかもしれない。しかし彼女はそのまま姿を見せなかった。様々な顔つきの、様々な
身なりの人々が次々に前を通り過ぎていくだけだった。
彼は椅子に座り直し、氷水を一口飲んだ。あとにはひっそりとした哀しみだけが残った。胸
の左側が、尖った刃物で切られたようにきりきりと痛んだ。生温かい出血の感触もあった。た
ぶんそれは血なのだろう。そんな痛みを感じるのは久しぶりのことだ。大学二年生の夏、四人
の親しい友人たちに切り捨てられて以来かもしれない。彼は目を閉じ、氷に体を浮かせるよう
に、しばらくその痛みの世界を漂っていた。痛みがある方がまだいいのだ、彼はそう考えよう
とした。本当にまずいのは痛みさえ感じられないことだ。
様々な音がひとつに混じり合い、耳の奥できんという鋭いノイズになった。それはどこまで
も深い沈黙の中でしか聴き取ることのできない特殊なノイズだ。外から聞こえて来るものでは
ない。彼自身が臓器の内側から生み出している音だ、人は誰しもそのような固有の音を持って
生きている、しかし実際にそれを耳にする機会はほとんどない。
目を開けたとき、世界の形がいくらか変化してしまったように思えた。ブラスティックのテ
ーブル、白いシンブルなコーヒーカップ、半分残されたサンドイッチ、彼の左の手首につけら
れた古い自動巻きのタグ・ホイヤー(父親の形見だ)、読みかけの夕刊、道路に沿って並んだ
街路樹、明るさを増していく向かいの店のショーウィンドウ。すべてがほんの少しずついびつ
に歪んで見えた。その輪郭はあやふやで、正しい立体感を与えられていない。縮尺も間違って
いる。彼は何度か深く呼吸をし、少しずつ気持ちを落ち着けた。
彼が感じている心の痛みは嫉妬のもたらすものではなかった。嫉妬がどういうものか、つく
るは知っていた。夢の中で一度だけそれを生々しく体験したことがある。そのときの感触は今
でも身体に残っている。それがどれほど息苦しいものか、どれほど款いのないものかもわかっ
ている。しかし今感じているのは、そのような苦しみではなかった。彼が感じるのはただの哀
しみだった。深く暗い縦穴の底に一人ぽつんと置かれたような哀しみだ。しかし結局のところ
それはただの哀しみに過ぎない。そこにあるのはただの物理的な痛みに過ぎない.そのことを
つくるはむしろありかたく思った。
彼をいちばん苦しめているのは、沙羅が他の男と手を繋いで通りを歩いていたことではなか
った。あるいは彼女がこれからその男と性的な関係を持つのかもしれないという可能性でもな
かった。彼女がどこかで服を脱ぎ、他の男性とベッドに入るところを想像するのは、つくるに
とってもちろんきついことだった。その情景を頭から追い払うのにずいぶん努力をしなくては
ならなかった。しかし沙羅は三十八歳の自立した女性で、独身で自由なのだ。彼女には彼女の
人生がある。つくるにつくるの人生があるのと同じように。彼女には好きな相手と好きなとこ
ろに行って、好きなことをする権利がある。
つくるにとってショックだったのは、沙羅がそのとき心から嬉しそうな頗をしていたことだ
った。彼女はその男と話をしながら、顔全体で大きく笑っていた。彼女はつくると一緒にいる
とき、それほど開けっぴろげな表情を顔に浮かべたことはなかった。ただの一度も。彼女がつ
くるに見せる表情はどのような場合であれ、いつも涼しげにコントロールされていた。そのこ
とが何より厳しく切なくつくるの胸を裂いた。
PP.239-243
村上春樹 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
【若鮎のアヒージョ】
アヒージョは、オリーブオイルとニンニク、鷹の爪、塩とシェリー酒を使ったスペイン料理で、作
り方は簡素だ。また、シェリーは、チェリーリキュールや蒸留酒に勘違いされることがあるが、百
%ブドウを原料とした白ワインで、 透明に近い黄色から琥珀色、茶褐色、黒い色をしたものまで
あるが、シェリーはどんな色をしていても白ワインに分類されているもの。原料となる白ブドウはパ
ロミノ、ペドロ・ヒメネス、モスカテルの三種で、この地域独特の石灰分を多く含んだアルバリサ
と呼ばれる土で作られる。普通の白ワインと同様に、収穫されたブドウはワイン工場に運ばれるが
甘口や極甘口を作るときは天日干しされレーズン状になってから処理されることもあるとか。アル
コール発酵によってアルコール度が11~12%になると、酵母の栄養分である糖分が少なくなり、ア
ルコール発酵が終了する。
そして、アルコール発酵の終わった白ワインの表面に、フロールと呼ばれるシェリー特有の酵母膜
が現れ、シェリー特有の味を作るが、フロールとはスペイン語で「花」を意味し、その由来は形成
された産膜酵母が白い花のように見えるから、または花が咲く春と秋に酵母の活動が活発化するか
らといわれている。なんでこんなことを書いたといと、これから鮎が身近となる季節、海老や鰻だ
けじゃなく、鮎をアヒージョすることを思いつく。もっとも、料理するのは彼女だけれど、シェリ
ー酒は家にないものだからこれだけは近々買ってこようと思っている。これは楽しみが増えた。