極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

トレッキングと修景 Ⅲ

2016年05月09日 | 滋賀のパワースポット

 

 

   
       わが国の当面している問題は、まったく欧州共同体と逆だといっていい。本来の経済的な規模からいえば、
       とうにちちこまとした国家主義や民族主義を越えて国家を開くべき段階にあるのに、逆流は農産物や文化
        の鎖国現象にあらわれて悩まされているのではないだろうか。

                            「国際問題の一年:情況との対話」サンサーラー 1994

     

                                                                    

                                  Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924 - 16 Mar, 2012 

 

 

 

   竜王山/滋賀の山々Ⅰ

【トレッキングと修景 Ⅲ】

 

 

 7日予定通り。眼底頭痛ひどいなか午前10時に家をでる。天候は微風で曇天である。湖岸を南下し、先日、砂づり藤を
鑑賞した志
那町の三体神社(「ピスタチェリーと砂ずり藤」2016.05.02)の葉山川沿いに県道31号線をまっすぐ一路南
下、栗東市手原町に
向い、国道8号線交差し県道55線号を経て県道12号線に入り、一旦、道の駅「こんぜの里」でト
イレ休憩。




ここで気になるのは、太郎坊宮駅から竜王までのトレッキングであり、(1)中山道の「愛知川」→「武佐」→「守山」
→「草津」をウォーキングあるいは周辺の遊歩道を組み込み「鏡山」→「三上山」をトレッキングのオプションコースに
を考えてみた、これは琵琶湖一周をひと筆書き周回のためであるが、(2)車との関係――自家用車の排気ガスは規制の
遵守とハイブリッド車などの普及で問題はないのだが、トラックは野放しで、この日もルーフーレス運転をしたが前方を
走る二トントラックの排気ガスすさまじさ(ドイツのような厳しい規制やクリーンジーゼルの普及からはほど遠い現状
を体験、健康被害を考慮すると積極的に推奨したくはない。

 

 

 


 

   

道の駅から12号線を信楽(「紫香楽宮跡駅」)に向けさらに南下する。途中、新名神高速道路が高架する大鳥居交差点
で、下写真
のように、「これぞ!修景?」ではないかと感心しシャッタを切り一旦、紫香楽に向かい、ユータウンし16
号線を桐生辻(瀬戸ヶ滝登山口だが大戸川ダム建設工事で通行止め)で通り、平野交差点で右に折れ県道108号に入る。
桐生橋で右折れ草津川を渡り右折れ南下すると老人ホーム桐生園前の上桐生バス停に到着する。ここまで、JR草津駅か
ら所要時間30分である。ここを竜王山トレッキングの登山口のコース起点とする。当日はここから登らず、車で北上し
県道113号線にでて、栗東トレーニングセンター南、大野神社付近をなんかし「黒橋」→「十九道橋」を渡り、「走井
林道」から「十九道ダム」「白糸の滝」横を併走し「馬頭観音堂」に到着し駐車場(10台まで可、及び簡易トイレ在り)
から、竜王山山頂を徒歩で往復30分する。

 
奥は県道12号で道の駅に至る/手前 県道16号と交差る 

 

 

下写真は「黒橋」→「十九道橋」を渡り、「走井林道」から「十九道ダム」「白糸の滝」横を併走し「馬頭観音堂」に到
着し駐車場までの写真であるが、舗装された林道の環境整備に地元の「オムロン株式会社」と「オムロン労働組合」賛助
支援などで実現していることがうかがえる。



下の写真、左/上は「馬頭観音堂」:馬頭観音(ばとうかんのん)は、仏教信仰対象の菩薩の一尊。観音菩薩の変化身(
へんげしん)の1つで「六観音」の一尊にも数えられる。柔和相と憤怒相の二つの相をもち、日本では柔和相の姿はあま
り知られておらず作例も少ない。そのため、観音としては珍しい忿怒の姿をとるとも言われ、通例として憤怒相の姿に対
しても観音と呼ぶことが多いが、密教では、憤怒相の姿を区別して馬頭明王とも呼び、『大妙金剛経』に説かれる「八大
明王」の一尊にも数えるといつから、複雑な思いが去来する。右/上は「竜王山頂の標識」:大津市、草津市、栗東市に
またがる花詞岩からできた山々で、湖南アルプスといわれる。中でも鶏冠山、竜王山からなる変化に富んだコースのある
金勝山(こんぜやま)は全勝アルプスとも呼ばれる。花陶岩の巨岩、奇岩からなる山々を縫うように多くのコースがあり、
標高は最も高いところでも600メートル余りだが、初心者からベテランまで楽しむことができる。また、金勝山には古
くから湖南地域の仏教の中心寺院として栄えた金勝寺(こんしょうじ)があり、今も登山道には石仏が見られまる。近江
を度々訪れた白洲正子もこの地を訪問し、「かくれ里」で全勝寺、天狗岩、狛坂磨生仏を紹介しています。ここでは、ダ
イナミックで荒々しい巨岩の中で山登りを体感することができますが、一方で白洲正子が訪ねた路傍の石仏などを眺めな
がらゆっくり歩くこともできると紹介されている(滋賀県)。左/下は同じく山頂にある社殿(由来不詳)。右/下は、
山頂からの北側の遠望、栗東トレーニングセンターグラウンド。

下写真の左/上・下は、霞んでよくわからないが、御在所山だと思われる。右は馬頭観音堂駐車場から竜王山山頂コース
登り口。
ところで、湖南や蒲生野には竜王(龍王)冠する山が多い。例えば、この地方は古くから田園地帯として、農耕
が盛んで。、河川の氾濫
などが大きく、日本中大きな川のある周辺には龍神信仰が残っている。これはインドのナーガと
いう蛇の神様も同様に仏教に取り込
まれ八大竜王信仰とし日本各地の水神や、記紀神話の代表的な海上神神の仏習合し、
神社の祭神として祀られ変容してきたことに由来する。蒲生野には日野川ほか善光寺川、祖父川、惣四郎川が流れ。河川
の氾濫を龍の怒りと恐れられた。鏡山と雪野山という2つの山もそれぞれ西の竜王山、東の竜王山と呼ばれ、どちらも龍
王の住処だと畏怖される。昭和30年代に苗村・鏡山村の2つの村が合併する際に村にあった山の共通した呼称からとっ
て竜王村と名付けられている。

 

下写真の左は金勝山(こんぜやま)の金勝寺(きんしょうじ)は参道の仁王門。天平七年(733)聖武天皇の勅命で、
奈良の都(平城京)の東北鬼門を守る国家鎮護の祈願かとして、東大寺の初代別当の良弁僧正が開基し、八世紀の中頃ま
でに近江の二十五別院を総括する全勝山犬菩提寺として法相宗興福寺の仏教道場であった(興福か官務牒疏)。弘仁六年
(815)嵯峨天皇の勅願をうけ、興福寺の高増額安が、伽藍を整備し、天長十年(833)仁明天皇により、鎮護国家
の僧侶を育成する官寺である「定額寺」に列せられ、金光明最勝王経の全勝陀羅尼晶の「金時」が勅願の題字であり、金
勝山金勝寺となる(続日本書記)。

寛平九年(897)宇多天皇により、国費支給による学袁僧である年分度者二人を、全勝寺で六年開山を降りず、専修す
ることを認可する(大政官符)。六年間の山専修、さらに六年間、全勝寺の四所名神である甲賀郡飯道名神・坂田郡山岸
照名神に一人、野洲郡良主名神・野洲郡三上名神に一人派遣し、国家鎮護を祈願する神宮寺的性洛をそなえたか寺院でも
あった。文治元年(1185)11月15日、全勝寺は失火し、時の住職正心上人が再興し、大講堂・常行堂・法華堂・
二月堂が建立されたと「全勝寺大菩提寺流記」に記されいる。平安時代後期には天台宗に転宗していたと考えられている。

その後、江戸時代に至る問、金勝寺は歴代の天皇、武家将車から、論旨、下知状、朱印状を賜り、保護され仏供田30石
を領絹している。天分十八(1549)大火により、講堂悉く焼失のため、後奈良天皇は再建の論旨を下し、慶長十四年
(1599)住職心正院清賢法印は、徳川家康に請願したが、再建までに至らず、現住の本学は約四百年前の仮堂であり、
排水を考えた山型配石の参道の石垣は、延宝二年(1674)に修復されたものであり、大講堂跡、三重塔跡は左高台に
残っているという。

 

写真左は仁王門(本坊)、右は里坊金勝寺の鑑賞(入場料5百円)を終え、もう一度道の駅「こんぜの里」に立ち寄り
「番茶」を買う。
ここから、林道心行路線に沿って「阿星山」は山頂をめざし、さらに、林道阿星支線を下り、「長寿
寺(東寺
)」を経由し「美松山」(平
松のウツクシマツ自生地)を鑑賞した後、終着地のJR甲西駅に向いコースアウ
トするコースを想定する。もう少し足を伸ばし野洲
川を越え、「十二坊温泉」で疲れを癒すのも一興。さて5月14日(
土)は綿向山のコース下調べ予定。



標高227.6mの美松山(びしょうざん)に自生するアカマツの変種で、山の南西斜面一帯に約200本の大小の美松が群
生。
主幹がなく、1本の根から枝が地表近くで放射状に分かれ、樹形は傘を逆さにしたような特異な形態をしている
このような松は日本でもここだけで、国の天然記念物に指定。

● ワン・ビューポイント



手入れがよく届いているコースロードではあるが、上の写真は、折角の階段盛り土が雨―――花崗岩質のため保水されず
――で流出。石版をはめ込むか、通水(透水性)と保水性と堅牢性を兼ね備えた人工石材填め込むか盛土加工するよいな
工夫がいる。



帰りの湖岸を走っていると、対岸の山に絹傘がかかったように、淡くしっとりとした光景が目にとまり、車を止めシャッ
ターを切る。

 

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熊本地震とナショトレとカヤック

2016年05月06日 | 滋賀のパワースポット

 

 

        人口問題は「なるようになる」しかない。 /  『遺書』 角川春樹事務所 2004.05

 

                                                                   

                                 Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924 - 16 Mar, 2012 

             ※ これは参考意見として受けとめる。

 ● 熊本地震速報 

 
● 最悪事態を想定して冷静に復旧・復興:九州地方の動向に要細心!

JESEAの最新報告(上図参照)によれば、先週と先々週の東西異常変動図と北南異常変動図で熊本と大分県別府湾
を結ぶ線上と熊本と日向を結ぶ線上は今回の地震で水平方向に正反対の動きがあった境目で歪みが貯まっており注
意を呼びかけていたが、別府湾近くで4月29日に大分県中部地震(震度5強)が発生。他方の熊本と日向を結ぶ
線上にある宮崎県の椎葉でこの2週間で2.3センチメートルも急沈降。今回鹿児島県の屋久島の屋久に4.6セン
チメートル、鹿屋に4.3センチメートルの週間異常変動(H)を観測。 北南異常変動図では、鹿児島県と屋久島
は急激な南変位をしめし、九州地域は今後も警戒が必要との見解である。



熊本県は4月29日、同県西原村と甲佐町で計百戸の応急仮設住宅の建設に着手。併せて、これら応急仮設住宅の
建設に当たり、くまもとアートポリスコミッショナーである建築家・伊東豊雄の助言を受けながら、配置計画など
を検討していくことを明らかにしている(「日経アーキテクチュア」2016.05.06)。県はこれらの建設に当たり、「被
災された方々の痛みを最小化し、日常的なコミュニケーションが生まれるよう、熊本広域大水害などでの経験を生
かして、くま
もとアートポリスコミッショナーである建築家・伊東豊雄氏からの助言を受けながら、配置計画など
を工夫して『みんなの家の
ある仮設住宅』づくりを進める」としている。

 

 

● 天気がよければ竜王山

予定通り 「トレッキングと修景 Ⅱ」(2016.04.24)の次の目的地竜王山(りゅうおうざん)のルート確認に出か
ける。先回は近江鉄道の「太郎坊宮前駅」で公共交通機関に乗り込むことで帰宅あるいは、トレッキングを継続す
るために移動する想定でいるが登山口をどこに設定するかで、コースが変わる。つまり、このまま近江鉄道で「貴
生川駅」から信楽高原鉄道に乗り換え「紫香楽宮跡駅」に向かい、県道16号線から県道12号線を北上し、「金
勝寺(こんぜじ)」→「馬頭観音登山口」からコースインするか、あるいは「貴生川駅」からJR草津線に乗り変
え「三雲駅」「甲西駅」の東側からか「石部駅」「手原駅」の北側からコースインするの選択肢が発生する。とこ
ろで、この栗東市の金勝(こんぜ)の山々は、古く藤原京の造営用材としてここからヒノキ材を採取したとの記録が
残っているほど、人とのかかわりの歴史の古い山々である、ことより命名の由来するという。

  

● カヤックと釣りの融合

水上スポーツのカヤックをコースインさせたことで、携帯性を持たせたものが欲しいと考えたが、モンベルクラブの
メールが先ほど届き、
気軽に水上散歩が楽しめる軽量インフレータブル(空気で膨らませる)カヤックに、折りたた
み式でコンパクトに収納できるフォールディングカヤック、スタンドアップパドルボードなど、全取り扱い商品を網
羅した「カヤック&カヌー2016」デジタル版を公開していることを知る(絶妙のタイミング)。この「ナショトレ構
想」の水上スポーツと釣りを融合させたカヤック&フィッシングをオプシュナル・コースにとも考えているので早速、
参考にする(下図)。

 

 

朝から、塞ぎ込んだ気分でいたが、そうなんことを考えると、結構元気が出てくる。フィッシングといえば、レイモン
ド・カーヴァーも愛好家だったことを思い出す。

 

       魚釣りについて知るべき事柄


   釣り人のコートとズボンはすべからく有髪であるべくして

   厚すぎるもの重すぎるものどもに不適である。何となれば、

   濡れやすいものほど逆に乾きやすいからだ。防水性べっちんや、

   ファスティアンや、モールスキンーそんなものはネズミ捕り屋の装束である―

   などは釣り人の選ぶべき着衣ではない。何となれば、

   一マイル、ニマイルを泳がざるを得なくなった折には

   斯(か)くなる衣服は水を含みて鎧の如く重くなること

   必至だからである。そのうえに1ストーンの魚の入ったびくを

   下げなくてはならぬとなれば、斯くなる事態の招聘は

   やはり避けたいものではないか。我輩の知合いのさる年配の紳士は

   コルク髪の上着を着することを釣り人に勧奨しておられる。どいうのは

   それを肩の下に結びつけておれば、湖のどこの場所にでも自在に

   足を運ぶことができるからである。

   暖かい季節になれば、傘をかざし

   涼しげに心地よく、釣りを楽しむこどもできる。まさしく

   「氷の洞窟の内にて、日差しの喜悦を味わうが如く」に。

   この御仁はまたレディンダ・ソースのひと瓶と、

   「消化薬」と携帯用フライパンは、すべての釣り人の

   
旅行装備の一角を占めるべきであろうと考えている。

       ――スティーヴン・オリヴァー『ノーサンバーランド、カンバーランド、ウエスト

       モーランドにおけるフライ・フィッシングの情景と回想』(一八三四年)より
 
                                        from What you need to know for fishing

 

    ちょうざめ

   体はほそく、鉄のあたまはまるで槍の

   扁平な面みたいだ。

   口は下がわについている。

   ちょうざめは川ぞこのものを食べるのだが、

   目はよく見えない。

      苔のような触覚ががらんとしたくちびるの上に

      垂れており、
 

      その背びれとよろいのような背ぼねが

      特徴的だ、なんだか

      べつの世界からとりのこされたみたいな感じに。

      ちょうざめは

      単独で行勤し、大きな淡水河川にしか住まなくて、最初の交接をするまでに

      かれこれ百年はかかる

            むかし父さんと

       セントラル・ワシソトソ・ステート・フェアに行ったときに

       九百ポンドあるちょうざめを見た。そいつは

       農業展示館の片隅に

       上からぶら下げられていた。

    ぼくはそいつが忘れられない。

    カードにはイタリックでその名前が書いてあった。

    いわゆる生活史の概略というやつを

    添えて-

     父さんはそれに目をとおし、それから

     声に出してぼくに読んでくれた

    これまででいちばん大きなやつは、

    ロシアのどこか

    ドン川の中で網にかかった。

    白ちょうざめと呼ばれるやつだ。

    どれくらい大きかったのかは

    はっきりとはわかっていない。

    記録に残っている中でつぎに大きいのは

    アラスカのユーコソ川の河口で

    つかまった河匹かで

    こいつらは千九百ポンド以上もあった。
 
    当標本は

        ――と書いてあった――

    一九五一年の夏にコロンビア川のセリロ・フォールズで

    探索のためのダイナマイト爆破作業がおこなわれた際に死んだものである。

    父さんははなしをしてくれた。かかし父さんが知っていた
 
    三人のおとこがオレゴンで針にかけだのが、たぶん

    世界でいちばん大きなやつにちがいないな、と。

          あまりに大きかったんで、

      ケトフルだかチェーソだか、そういうのを釣り糸がわりに

      つかったんだが、それを引っぱるのに

      何頭かの馬が必要だった、父さんは言った。

      そしてだな、その馬たちでさえしばらくは

      ぴくりとも勤けなかったんだぞ。

    その先のはなしが思い出せない――

    そこまでしてもさかなはたぶん逃げて

    しまったんだろう-おぼえているのは父さんが

    ぼくのとなりで手すりに両腕をおいて前かがみにもたれかかり、
    
    二人でならんでその巨大な死んださかなをじっと見ていたこと、

    そして父さんのとてつもないはなし。そういうのが

    おりにふれてあたまによみがえるのだ。

                                  The sturgeon

              魚を餌に誘うための妙薬

    人間の脂肪と描の脂肪各半オンス、

    ミイラの粉末三ドラム、クミン・シードの
 
    粉末一ドラム、アニスと小麦下穂を蒸留せしオイル

    各六滴、麝香をニダレイン、

    及びヘンナ四グレイン。それにて軟膏を作るべし。

    釣りをする折には、釣り糸の針からハインチの部分に

    それを塗布し、白目製の箱に

    仕舞いおくべし。この軟膏を用いるに際しては

    針の隣に最低三本の髪を結ぶべし。

    一本の髪のみを結びて釣りするならば、

    軟膏は定着することなし。墓を開けて拾いたる

    死びとの骨もしくは頭骨をすりおろし、

    粉末とし、餌虫を保持する骨の中に

    その粉を混ぜるべし。骨の替わりに

    墓場の土を用いるもよし。かくなるのちに

    釣り場を選ぶべし。

                       ――ジェームズ・チータム『漁人必携』(一六八一年)より
                          
                                                         Oyntment to alure fish to the bait

 
夕食まえまでは憂鬱で気張らしや運動を行ったが、アルコールをいれることで緩和されたが、これも疲れかなぁ~と
思っている。なんとか、
「分子磁気メモリが可能か、グラフェンで――原子の精度で磁気を制御」(EETTimes.Japan
を深掘りしたかったそのことをすっかりわすれていたのでこれは残件扱いに。
 

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スピッツのロングマーチ

2016年05月05日 | 現代歌謡

 

 

  
      米国に軍事的に世界中のお節介の善意を押しつけるよりも、真っ先に核兵器の保有量を縮小し、
      廃止する音頭をとり、武力が物を言う国家「間」の価値観を無効だとする模範を示すようにして
      も
らうほうが、ずっと早道だと認識してもらうのがいいと思う。どっちが「現実的」か「非現実
      的」か考
えてみて欲しい。

                            「日米防衛協力のための指針」について

                                                                   

                                 Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924 - 16 Mar, 2012 

 

 

   船に乗るわけじゃなくだけど僕は港にいる

   知らない人だらけの隙間で立ち止まる

   遠<に旅立った君に届けたい言葉集めて

   縫い合わせてできた歌ひとつ携えて

   汚れてる野良猫にもいつしか優しくなるユニバース


   思い出す黄昏にあの日二人で眺めた謎の光

   君ともう一度会うために作った歌さ

   今日も歌う 錆びた港で.....

 
                                   唄 スピッツ『みなと』

                                    作詞・作曲 草野正宗 


歌詞としては有り触れた恋歌だが、「汚れてる野良猫にもいつしか優しくなるユニバース」と「黄昏にあの日二人
で眺めた謎の光」との対句が巧みで、いつものように、ロングマーチなスピッツの楽曲と草野正宗の独特のビブラ
ートがシンクロナイズし、聴き手のそれぞれの個人史を追想させる魔法のチカラがある。

    【帝國のロングマーチⅥ】

 

● 折々の読書  『China 2049』25   


                                  秘密裏に遂行される「世界覇権100年戦略」     


                                                    マイケル・ピルズベリー 著
                                                    野中香方子 訳  

ニクソン政権からオバマ政権にいたるまで、米国の対中政策の中心的な立場にいた著者マイケル・ピルズベリーが
自分も今まで中国の巧みな情報戦略に騙されつづけてきたと認めたうえで、中国の知られざる秘密戦略「100年マラ
ソン( The Hundred-Year Marathon )」の全貌を描いたもの。日本に関する言及も随所にあり、これからの数十年先
の世界情勢、日中関係そして、ビジネスや日常生活を見通すうえで、職種や年齢を問わず興味をそそる内容となっ
ている。 
 

 【目次】

  序 章 希望的観測
 第1章 中国の夢
 第2章 争う国々
 第3章 アプローチしたのは中国
 第4章 ミスター・ホワイトとミズ・グリーン
 第5章 アメリカという巨大な悪魔
 第6章 中国のメッセージポリス
 第7章 殺手鍋(シャショウジィエン)
 第8章 資本主義者の欺瞞
 第9章 2049年の中国の世界秩序
 第10章 威嚇射撃
 第11章 戦国としてのアメリカ
 謝 辞
 解 説 ピルズベリー博士の警告を日本はどう受け止めるべきか
     森本敏(拓殖大学特任教授・元防衛大臣)   

    第5章 アメリカという巨大な悪魔  

                                   夢中生有――夢中に有を生ず

                                     『兵法三十六計』第七計 

 「中国が日本と戦いつづけること、中国を日本に対抗するための拠点にすること、戦時に中国と協力することは、
 すべてアメリカにとって都合がよかった。将来、アメリカが中国と全世界を完全に支配するための礎石となるか
 らだ(注14)」
  郭蜀生は、中国を侵略するよう「日本を煽ったことに関して最大の責任」ルーズベルトにある、と論じている
 戦国時代の覇権各の流儀に倣って、ルーズベルトは
坐山観虎闘」(山上に座して虎の闘いを眺める、『戦国策
 』)していたのであり、両者
が大いに殺戮しあい、支配を狙うアメリカに抵抗できなくなるまで待っていた(注
 15)、
すなわちルーズベルトは、「隔岸観火(対岸の火事を観る、『兵法三十六計』第九計)し、その後、「征
 服するための安全な道筋を獲得した」のである(注16)。

  さらに厚かましいことに、中国の指導者は、リチャード・ニクソンの中国初訪問(実際には中国政府がそその
 かし、歓迎した訪問)についても、中国支配を図るアメリカの悪辣な計画の一段階として書き直している。「中
 国をソビエトと競争させることによって」とこの話は始まる。
 「ニクソンはこの二つの共産主義国の間で、核戦争が勃発することを望んでいた」
  ニクソンは、ルーズベルトと同じく、「山上に座して虎の闘いを眺め」、その闘いの後にアメリカが救世主と
 して現れ、唯一の超大国となることを期待していた。この話では、思慮深いt沢東は、アメリカの戦略を知りな
 がら、ニクソンの中国語間を許したとされている。なぜなら、中国政府はソピエトに対抗するための仲間を求め
 ていたからだ。たとえそれが、やがて中国を裏切るに違いない相手であったとしても。毛の最高位の参謀は、三
 国時代の蜀の戦略を引き合いに出し、毛にこう進言した。
                         
  「北の魏に対抗するために、東の呉と同盟を桔びましょう(注17)」
  中国が語る近代史では、アメリカは貿易、経済協力、技術交換、外交政策、文化と教育の交流、それに民主改
 革への圧
力を利用して、ソビエトを内側から弱体化させた。戦国時代の論法でいえば、アメリカはソビエトの若
 者と理想主義者に「甘い蜜の
罠」を仕掛け、彼らを「敵の陣地の中で、仲たがいの種をまくスパイ」として利用
 し
たのだ。
  中国の戦略家から見ればこれは、アメリカが政治的手腕を駆使してソビエトを騙したことにほかならず、「ア
 メリカが中国に対して同じ戦略をとろうとしても、やすやす
と騙されたりはしない」と彼らは断言した。そして
 2013年、中国人民解放軍の国防大学(アメリカの陸軍士官学校に相当する)は、「沈黙の争い」と題する90
 分の動画を作成し、不気味な音楽を流しながら、アメリカが共産党を権力の座から引きずりおろすために、いか
 
にして中国社会に潜り込み、「中国を混乱させ」、「政治家を洗脳」しようとしているかを解説した(注18)。
 フルブライト奨学金、フォード財団、カータ
ー・センターが槍玉にあがり、ほかにも、共同軍事演習をはじめ、
 アメリカと中国の
エリート層が互いと親しく接触する機会にはすべて、アメリカの罠が仕組まれているとされた。
 アメリカは「いわゆる民主主義勢力」によってソビエト連邦を瓦解させ
中国も倒そうとしている。したがって、
 中国人が「用心し、ほんの細部にも注意を払
い、強固な政治的、イデオロギー的防御ラインを構築した場合」に
 限って、中国は、
「民主主義勢力]の発生を防ぐことができる。

  中国人は冷戦の歴史も書き直し、10年に及ぶその戦いを、世界支配を目論むアメリカの計画の一部として描写
 している。政府公認のもと、2013年10月に短期間放映された連続テレビ番組は、レーガン時代に起きたソ連
 の崩壊を、アメリカの不正の産物として描く。ソビエトは一般に考えられているように、共産主義体制を維持で
 きなくなって崩壊したのではない。アメリカがソ連を欺き、その崩壊を引き起こしたのだ、と。

  この中国共産党公認の米中の歴史はもちろん作り話だ。ジョン・タイラーが結んだ望厦条約は、中国を支援し
 ようとするものであり、公式の外交関係を確立し、中国の港に「最恵国待遇」の地位を与え、アメリカ人の北京
 語学習禁止を撤廃した。多忙なアブラハム・リンカーンに中国のことを考える時間はほとんどなかったが、その
 公使であるアンソン・バーリングームが交渉した条約は、中国人にとって有利な内容だった。それはヨーロッパ
 の支配に脅かされていた中国の主権を認め、侵略と誤解を排除するために、現代の「ホットライン」に相当する
 ものを中国に提供したのだ。また、義和団の乱では、アメリカは率先して、外国人兵士の暴虐な行為を抑えた。

  ウッドロウ・ウィルソンは、青島を中国に返還することをヴェルサイユ条約の優先事項の1つとし、そのため
 に辛抱強く(うまくいかなかったが)戦った。西洋の学者によれば、ウィルソンは中国に領土を返還するために
 最善を尽くし、日本が講和会議の議場から退場するという危機的状況を経て、日本に領土返還を約束させた。し
 かし、後に日本はそれを破った。フランクリン・ルーズベルトは、中国を隷属させようとしたどころか全力で支
 援し、太平洋地域に干渉して日本と戦い、中国を教った。リチャードーニクソンは、自らの中国への提案が核戦
 争の火種をまくことになるとは想像もしていなかった。また天安門広場での抗議活動は、よりよい中国を築こう
 とする中国の学生運動が高じたものであり、中国の破滅を求めるアメリカが画策したものではなかった。

  中国の指導者は概して、米中関係の正しい歴史に通じていないので、2012年の6月、中国の著作家が、バ
 ラク・オバマによる秘密の反中国計画が中国政府内で話題になっているらしいと警告してくれた時も、わたしは
 驚かなかった。

  一方、アメリカの歴史に通じている中国の学者と官僚は、公式の反米的見解を機械的に繰り返すほど愚かでは
 ない。彼らがアメリカからの訪問者に、先に述べたような見解を語ることはめったにない。だからと言って、あ
 えて本音を隠しているわけでもない。ただ、自分たちが教えなければならない歴史に、ばつの悪い思いをしてい
 るのは確かだ,2013年秋に北京を訪れたとき、わたしはある教授に、彼が授業で使っているいくつかの教科
 書について率直に尋ねてみた。彼は知らなかったが、わたしはすでに、彼の講義要綱と教科書のコピーを手に入
 れていた。

 「少し興味を持ちましてね」とわたしは切りだした。
 「あなたの著書にあるタイラー、ウィルソン、ジンカーン大統領についての記述をじっくり読ませてもらいまし
 た。具体的には、彼らの「悪辣な』対中政策についてですが」
  彼は青ざめ、口ごもった。
 「ええと、そう、最近、合衆国の公文書からマイクロフィルム化された書類を手に入れたのですが・・・・・・・」
 「知っています」とわたしは答えた。
 「その書類は、わたしも目を通しました,アメリカの教科書には、このような反中国政策についての記述は見当
 たりません。事実、当時のアメリカは、非常に親中国的だったようです。わたしの記憶が正しければ、建国の父、
 ベンジャミン・フランクリンとトマス・ジェファーソンは特に、中国の体制を賞賛していました」
  彼は窓の外をみて、ため息をつき、自らの苦境を説明した。
 「教科書の題材を選ぶのはわたしではありません。学部教授団はすべて共産党の党員で、中央委員会がわたした
 ちに関するファイルを保管しています。承認されていないことを教えたりしたら、キャリアは終わってしまうの
 です」
  わたしは理解を示して微笑んだ。
 「では、この決定は、あなたより上の階級でなされているのですね」
 「そうです」と彼は答えた。

  その週、わたしは少なくとも15回、権威あるアメリカ研究所を訪問した。そこは、母体である中国社会科学院
 の15階建てのコンクリートの建物からおよそ5キロメート
ルのところにあった。非常に規模が大きいので、社会
 科学院の本館にはとても納まら
ない。わたしはアメリカ大使館からの派遣団とともに到着した。研究所は樹木と
 コン
クリートの防壁に囲まれていた。
  わたしたちは5階へ行くことになっていた。あいにくエレベーターが動かなかったので、コンクリートの階段
 を上った。派遣団の年配のメンパーは苦戦していた。よう
やく5階にたどり着くと、一列になって電灯がついた
 り消えたりするコンクリートの
通路を歩いた。薄暗く殺風景な廊下を歩きながら、各部屋の扉に掲げられた、ア
 メリ
カ戦略、国内政治、外国政策といった看板を確認した。

  部屋では、16名の中国人学者に迎えられた。ほとんどは40代か50代だった。全員が、アメリカの大学院で学ん
 でいた頃に馴染んだと思われるカジュアルなアメリカ風
の服を着ていた。
  所長の黄平は、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで博士号を取得した人物で、わたしたちを歓迎し、
 会合を始めた。20分ほどたってから、わたしは中国が描く
アメリカ像について、いくつか質問した。
 「さんざん探したのですが、アメリカが中国の発展に貢献したという記述は一つも見つかりませんでした。

 最近 わたしは、イエール大学のジョナサン・スペンスが書いたT
o Change Chna(中国を変えるためには)を読
 み直しました。中国の発展に西洋がどれほど貢献したかをまとめたすぐれた歴史書です。そこには、中国を救っ
 た宣教師、ロックフェラー財団の貢献、それにアメリカが、義和団の乱の賠償金を生かして、中国のMIT(マ
 サチューセッツエ科大学)ともいうべき清華大学を設立したいきさつが語られています。ここにいる20名のみな
 さんの中に、アメリカの対中援助を評価する論文を書かれた方はいらっしやいますか? 中華人民共和国が建設
 されるまでの『恥辱の世紀』に、アメジカが中国を援助したことを記した教科書や論文はありますか?1978
 年以降、中国経済は目覚ましい成長を遂げてきましたが、その半分はアメリカの投資によるものだとわが国の専
 門家は考えています。それについてどなたか執筆されましたか?アメリカが関税率を引き下げ、銀行取引、科学、
 海運の発展を導いてきたことについてはどうでしょう?中国の教科書でそれらのことに触れているものは、1冊
 も見たことかありません。きっとわたしは見落としているでしょう。どなたか、そんな教科書をご存知でしたら、
 教えていただけませんか?」

  居心地の悪い沈黙があり、中国の同僚たちは後ろめたそうに視線を交わした。
  学者のひとりがおずおずと答えた。
 「アメリカがわたしたちをどれほど助けてくれたかについては、アメリカに留学していた時代に学びました。け
 れども、わが国で認可された講義要綱に、それらは含まれていないのです」
  この大人数の会合とは別の場で、わたしは数冊の書籍と論文を渡された。中国を包囲し妨害しようとする、ジ
 ョージ・w・ブッシュとでフク・オバマの計画について概説するものだ。海洋資源の強奪、シーレーンの妨害、
 領土の分割、中国内部の反逆者の支援、暴動・内乱・テロの扇動、空母からの攻撃、といったことが述べられて
 いた。中国の指導者が書き換えた過去の歴史と同様に、彼らが描く未来図の憂慮すべき点は、アメリカについて
 嘘八百を並べていることではなく、それを描いた人々が自らのプロパガンダを事実だと思い込んでいることであ
 る。

  ジョン・タイラーからバラク・オバマにいたるアメリカの歴代大統領が中国の戦国時代の教えを学び、それに
 従って中国を支配しようとしているなどということは、到底あり得ないとわたしには思えた。しかしその後、多
 くの中国人が、そのような中国古代の教えを普遍的な良実と見なしていることをわたしは知った。彼らは、アメ
 リカを世Wに君臨する覇権国と見なし、覇権国であるなら、戦国時代のあらゆる覇者と同様に利己的で疑い深く、
 無慈悲なふるまいをするはずだと考えている。2002年、USCC(米中経済・安全保障問題再検討委員会)
 は、「中国の指導者はアメリカを常に『覇権』と見なしている。その言葉には、力強いリーダーにして高圧的な
 ならず者という意味が込められており、中国はアメリカを主な競争相手と見なしている」と報告している(注19)。

注14.Tang Qing. “U.S. Policy Toward Japan Bcforc the outbrcak of the Pacinc War,” in Jianghandaxue Xuebao [Jianghand
           University Journal](April 1997): 105-9.
注15.Deng Shusheng,Meiguo Lishi yu Meiguo Ren[American History and Americans],169.
注16.  Stefan verstappen,The Thirty-Six Strategies of Ancient China Books and Pcriodicals, 1999).
注17. Xiong xioanghui,“The Prelude to the opening of Sino-American Relations,”Zhonggong Dangshi Ziliao(CCP His-
            tory Materials),no.42(June 1992):81,as excerpted in Burr. “New Documentary Reveals  Sccrct U.S.,Chincsc DiPlo-
            macy Bchind Nixonls Trip.”
注18. Silent Contest (沈黙の争い)の英語翻訳版は、NNL., ZYH, AEF で参照可能。“Silent Contest” (Part l),Chinascope
           は以下のサイトで人手可能。httP://chinascoPe.org/main/content/view/6168/92/; NNL,ZYH,and AEF, “Silent contest
           II ” , Chinascope,は以下のサイトで入手可能。httP://chinascoPe.org/main/content/view/6281/92/. Benjamin Carlson,
            “China’s Military Produccs a Bizarre,Anti-American Conspiracy Film (VIDEO),”GlobalPost,  November 2,2013,
           以下のサイトで人手可能。http://www.globalpost.com/dispatch/news/regions/asia-Pacinc/china/131101/china-military-
           produccs-bizarrc-anti-amcrican-consPiracy-video.Michel Colc, “Dose China Want a Cold War?,” Diplomat,November
           5. 2013も参照,以下のサイトで人手可能。 httP://thediplomat.com/2013/11/dose-china-want-a-cold-war/; Jane Perlez,
           “Strident video by Chinese Military Casts U.S.as Menace,”New York Times ,October 31, 2013,以下のサイトで人手
           可能。
           http://sinosphere.blogs.nytinlcs.com/2013/10/31/strident,video,by’chinese-military-casts-u’s’as-nlenace/?_php=true&_
           typc=blogs&_r=0&gwh=6063CDDF0357954CDBF51A49E3DC10EB&gwt=pay.
注19.“U.S.-China Economic and Securitv Review Commission Annuak RePort. 2o02.” release date: July 15, 2002, 以
           ドのサイトで人手可能。http://china,usc.edu/ShowArticle.asPX?articleID=686#below.

                                                                    この項つづく

 

【ジャジーな風に吹かれて:カーメン・マクレエ

カーメン・マクレエ(Carmen McRae、1922年4月8日 - 1994年11月10日)は、米国の女性ジャズ歌手でピアニスト。
20世紀で最も影響力の大きなジャズボーカリストの1人。50年代から80年代にかけエラ・フィッツジェラルド
やサラ・ヴォーンと並ぶ大御所ジャズ歌手(「ジャズボーカルの御三家」)。ニューヨークのハーレムにてジャマイ
カ移民の両親の間に生まれ、10代から20代にかけピアニストとして活動、ビリー・ホリデイらもジャズミュージ
シャンと知遇を得る。50年代半ばに歌手デビュー、サミー・デイヴィスJr.とのデュエットを含む録音をデッカ・レ
コードから発表。彼女はポップスに接近したサラ・ヴォーンらとは対照的にジャズの枠を大きく飛び出すことはなく、
ピアノトリオなどの伴奏を得意とする。ビリー・ホリデイ、デイヴ・ブルーベック、 ナット・キング・コール、セロ
ニアス・モンクらに捧げたトリビュートアルバムを発表。90年に死去したサラ・ヴォーンに捧げた"Sarah: Dedicated
to You
"を同年発表、それが最後のアルバムとなる。長年にわたる喫煙の影響で晩年になるにつれて声域・声質は低く
重く変化。肺気腫のため91年に引退、94年に呼吸器疾患の合併症で他界。

 

The very thought of you and I forget to do
 The little ordinary things that everyone ought to do
 I'm living in a kind of daydream
 I'm happy as a king
 And foolish though it may seem
 To me that's everything 

 

 The mere idea of you, the longing here for you
 You'll never know how slow the moments go till I'm near to you
 I see your face in every flower
 Your eyes in stars above
 It's just the thought of you
 The very thought of you, my love .....

 

 

                                  The Very Thought of You

 

 

 

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皮膚パッチな有機ELディスプレイ

2016年05月04日 | デジタル革命渦論

 

  

                 戦争は、どんな戦争でもそれ自体が「悪」だというのが、僕の考え方です。侵略戦争か、正義の戦争か
                 という区別に意味はない。

                でも、あの戦争のさなか、僕があまり苦痛を感じなかったのは、家庭のなかには倫理があって、足元を
                 すくわれる心配がなかったからでしょう。現在と逆です。平和な世の中なのに、親子が殺しあうような犯
                 罪に怯えている。今のほうが気分が悪い。これはあの戦争を体験した人でないと、わからないかもしれ
                 ません。

                                                「船大工の親父が教えた戦場の死」2007.09.01 文藝春秋

                                                                       

                                   Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924 - 16 Mar, 2012 

● 熊本地震速報

 

【皮膚パッチな有機ELディスプレイ】

 

● 人体とエレクトロニクスの融合時代の開幕?!

衣服などの繊維に電飾やディスプレイをデコレートすることを巷では、"ウェアラブル・エレクトロニクス"と呼ばれる
が、東京大学の染谷研究室のグループが、皮膚に貼れる極薄の有機ELディスプレーを開発。センサとつなぎ、脈拍数
などを手の甲に表示できるという。成果は4月15日付の米科学誌サイエンス・アドバンシズ(電子版)に発表されて
いる(「朝日新聞デジタル」2016.04.15)。すわ!人体とエレクトロニクスの融合も夢が終焉するのだろうか? ^^;

ディスプレーは厚さ3マイクロメートルほどで、人の表皮の1割ほどの薄さ。くしゃくしゃに曲げられ、手の甲などの
曲面に貼れる。作業現場でマニュアルを表示させるなど、幅広い応用が考えられている。有機ELは、発光部の劣化を
ぐのにガラスなどで覆う必要があり、柔らかいものをつくるのが難しかった。グループは高分子やガラスに似た材料
を重ね、水分
や酸素を通しにくい2マイクロメートル以下の保護膜を作ることに成功。数字やアルファベットなどを表
示するディスプレーを、数年
後に、画面と電池やセンサーをつなぐ配線技術の改善などの課題を克服し実用化しという。

※ 関連特許:特開2015-146870   状態検出システム 国立研究開発法人科学技術振興機構       2015年08月20日
       特許5597383     トランジスタ,面状素子およびこれらの製造方法 染谷 隆夫 他  2014年10月01日
              特許5660595       導電紙とその製造方法、導電性セルロース組成物とその製造方法、物品、電子デバ
                                イス 国立大学法人 東京大学 2015年01月28日       

 

 
 

 【ちょっとだけ量子ドット工学講座 8】

特開2016-066825 光電変換装置


● 敢えて量子井戸は深掘りせず

セイコーエプソン(発明者:田中秀樹、古沢昌両)の新規考案は、キャリア移動の平滑化(例えば、格子結晶欠陥のに
よるなどの移動阻害要因の排除)で変換効率を高めるのではなく、「特表2007-5385806 人工アモルファス半導体および
太陽電池への適用
」のように量子ドットとしてシリコンを、誘電体材料薄層として酸化シリコンを用いた構成、あるい
は、シリコンリッチな誘電体材料層を熱処理しシリコンを量子ドットとして析出させる製法を採用しているため、簡易
に量子ドットが分散できす、また、量子ドットと誘電体材料薄層などの構成材料が限定され、高効率の太陽電池の設計
するには限界があったが、バンドギャップの大きさを敢えて犠牲にして、量子井戸(quantum well:電子の移動方向が束
縛された状態)が深く電荷(電子)を効率良く取り出せない状態から取り出しやすくできる構造・構成方法提案してい
る(上/下図ダブルクリック)。

 

【要約】ナノ結晶粒(d)と、半導体層と、を有し、ナノ結晶粒は第1の半導体からなり、半導体層は、第2の半導体のア
モルファス層にナノ結晶粒を含有した第1の半導体層(7)を含む光電変換装置とする。第1の半導体と、第2の半導体と
が同じ半導体である。かかる構成によれば、ナノ結晶粒とナノ結晶粒を構成する半導体のアモルファス層とのバンドギ
ャップ差に起因する量子井戸が形成され、光電変換効率の高い光電変換装置となる。特に、結晶性の異なる同一材料を
用いることで、バンドギャップ差が比較的小さくなり、量子井戸の深さを浅くできる。その結果、キャリアが取り出し
やすく、装置特性が向上し良好な光電変換装置を提供する。 

【符号の説明】1…基板、3…透明電極、5…p型のアモルファスシリコン層、7…i型のアモルファスシリコン層、
9…n型のアモルファスシリコン層、11…上部電極、7A…量子ドットdを含有するi型のアモルファスシリコン薄
膜、7B…量子ドットdを含有しないi型のアモルファスシリコン薄膜、100…電卓、101…本体部、102…表
示部、103…操作ボタン、104…光電変換素子設置部、200…携帯電話機、201…本体部、202…表示部、
203…操作ボタン、204…受話口、205…送話口、206…光電変換素子設置部、1100…腕時計、1101
…表示部、d、d1~d3、da~dc…量子ドット、D7A…乾燥塗布膜、D7B…乾燥塗布膜、L7…シリコンの
前駆体液、L7A…量子ドットd含有シリコンの前駆体液、L7B…量子ドットdを含まない前駆体液、pin1…第
1pin構造部、pin2…第2pin構造部、pin3…第3pin構造部。

例えば、前記第1の半導体と、第2の半導体とが同じ半導体とすることで、結晶性の異なる同一材料を用いることで、
バンドギャップ差が比較的小さくなり、量子井戸の深さを浅くでき、キャリアが取り出しやすくなり、装置特性が向上
する。その条件として次のような選択肢を提案する。

  1. 結晶性の異なる同一材料:シリコン、ゲルマニウム、シリコンゲルマニウム材料を用いて光電変換装置を構成
  2. 第1の半導体層中の第2の半導体の原子に対する水素原子の割合を、5%以上20%以下で、半導体層中に水素
    原子を存在させ、シリコン等の半導体のタングリングボンドを低減し光電変換に寄与するキャリアトラップを低
  3. p型半導体層とn型半導体層との間に半導体層を設けたpin型
  4. また、半導体層は、ナノ結晶粒を含まない第2の半導体層とし、第1の半導体層と第2の半導体層の積層構造と
    し、複数のpin構造部を積層。複数のpin構造部の各々は、p型半導体層、n型半導体層、p型半導体層と
    n型半導体層との間に位置する半導体層とし、半導体層は、第1の半導体のナノ結晶粒を、第2の半導体のアモ
    ルファス層に含有し、ナノ結晶粒の粒径は、複数のpin構造部の各々で異なる粒径でのpin構造部を積層し、
    第1の半導体と、第2の半導体とが同じで結晶性の異なる同一材料

以上、太陽エネルギー工学(=自然核融合エネルギー変換・利用技術)としてのナノホトニクス適用技術の強力なツー
ルの量子ドット太陽電池技術の最新事例である。
 

 

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超ムーア則の此岸

2016年05月03日 | デジタル革命渦論

 

 

  

                   御成敗式目は、読んでいくうちに大きな関心を持ってしまった。女性の婚前の所有財の独立性を
                   打ち出したりしている。明治以降の女性解放運動にとっても重要でしょう。

                                        「本を語る 『思想のアンソロジー』の吉本隆明さん」2007.03.18 京都新聞

 

                                                                                                           

                                  Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924 - 16 Mar, 2012 
 

  

【再エネ百パーセント時代:スマートシティ】 

● ネット・ゼロ・エネルギー・タウンの実現 

大和ハウス工業が富山県富山市の小学校跡地を活用し、一次エネルギー消費量が差し引きゼロになる「ネット・
ゼロ・
エネルギー・タウン」の開発に着手する。分譲住宅全戸に太陽光発電システムと蓄電池、家庭用燃料電池を
設置し
HEMS(ホーム エネルギー マネジメント システム)も導入、17年後半に完成予定。富山市が進めている「セ
ーフ&環境スマートモデル街区整備事業」の内容が固まった。同事業は市内の土地を計画的に活用して、コンパク
トに集約した都市機能、持続可能な省エネルギー性能と防災機能を備えるモデル街区の開発を目指す公民連携プロ
ジェクト。民間事業者を公募型プロポーザル方式で募っていたが、審査の結果、大和ハウス工業が選ばれる。特徴
の1つとして、住宅街区全体の一次エネルギー消費量が差し引きゼロになる「ネット・ゼロ・エネルギー・タウン」
を目指し、まず21戸全ての住宅にリチウムイオン蓄電池と太陽光発電システムを組み合わせたハイブリッドシス
テム「POWER iE 6 HYBRID」を設置。蓄電池の容量は6.2kWh(キロワット時)で、太陽光発電システムの出力は
5.5キロワット。家庭用燃料電池も全戸に採用する。太陽電池、蓄電池、燃料電池の「3つ電池」を連携させるこ
とで、各戸でネット・ゼロ・エネルギー・ハウスを達成するとともに、非常時でも電源を確保できる体制を整える。
2つめは、太陽光発電所――住宅街区に出力10キロワットの太陽光発電所も設置。名称は「まちの太陽光発電所」
―――を設置、また、その活用方法の1に、住宅街区の公園に設置する防災設備として利用。公園内にはリチウム
イオン蓄電池を設置し、発電した電力を充電しておくことで防災時に利用。この他にも公園内に防災備蓄倉庫、コ
ブキ製の「防災パーゴラ(日陰棚)」、非常時には簡易トイレになる「トイレベンチ」なども設置し、公共施設
と連携する街の災
害対策拠点としての役割を持たせ、さらに、住宅街区では電柱などの倒壊による二次災害を防ぐ
ため、無電柱化も図り―――公園に防災機能を集約する。

尚、こうしたエネルギー・防災に関する機能の他、防犯面についても配慮した街づくりを行う。街区内での犯罪抑
止のため、外周道路からの進入箇所に防犯カメラを設置するとともに、LED照明の街路灯を設置する。これらの設
備にも太陽光発電で発電した電力を活用する。この他、戸建住宅の電気錠玄関ドアやインターホンと連動して、子
どもの帰宅をメールで通知するシステムなども導入する計画というものである。

また、3つめは 公民館・地区センター・図書館の機能を持つ公共施設は、大和ハウスが建設した後に富山市に売
却。その後の運営は富山市が行い、公共施設においても住宅街区と同じくスマート化を目指し、大和ハウスがオフ
ィスなどの建設で提案している環境配慮型建築「ディーズ スマート オフィス」の技術を採用する。成功例は、世
界展開でスマートシティのモデルとなるだろう(これは面白い)。

 

 

● それでもムーアの法則は止まらない

インテルなどの半導体メーカーは「ムーアの法則」に従うように、ほぼ2年に1度のペースで新たな微細プロセス
テクノロジーの進化遂げてきたが、ここにきて新興メーカーの台頭で変化を見せる(「EE Times Japan」2016.04.26)。
多くの半導体メーカー、ファブレス企業はプロセステクノロジーの微細化/進化を行ってきた。

  1. Intel    :130nm→90nm→65nm→45nm→32nm→22nm→14nm
  2. Qualcomm:130nm→90nm→65nm→45nm→28nm→20nm→14nm
  3. MediaTek  : 90nm→65nm→40nm→28nm→20nm→16nm

このように、あるプロセステクノロジーで製品を開発しても、ほぼ2年に1回、プロセステクノロジーが微細化す
るので、その製品の仕様はすぐに陳腐化する。このため大手デバイスメーカーは一気に歩留まりの高いプロセステ
クノロジーで製品を立ち上げながら、次世代製品開発を並行着手するため、まるでCPUのパイプラインのように、
45ナノメートルの製品立ち上げを行うチームの横で、28ナノメートル製品の設計を進めるチームが存在し、さ
らに次の世代の評価選定を行うチームも存在する具合に常時複数のプロジェクトが動く。

そのための開発経費は逓増しつづける。プロセッサのような大規模でかつ、ハード、ソフト、開発環境などを整備
しないと使えないものを開発するには、数十億円から数百億円もの費用が必要になり、5世代のプロセステクノロ
ジーの開発費が、各世代百億円とし、5百億円を必要とし、世代交代に要する費用は、ほぼ1.67倍になるとい
も言われ、これをもとに計算すると5世代で数千億円が必要となる。



16年、インテルは開発モデルを「Tick Tock」と呼ぶ「プロセス開発→アーキテクチャ開発」を毎年交互に行うモ
デルから「PAO」と呼ぶ「プロセス開発→アーキテクチャ開発→オプティマイズ(内部調整)開発」の順で繰り返
す開発モデルへと切り替えると宣言。この宣言で、一部ではムーアの法則が終わるのではなくまだ先があることを
意味する。10ナノメートル、7ナノメートルの開発計画をTSMC など製造大手が表明している。

※ Process-Architecture-Optimization(PAO)モデル:Intel Drops Tick-Tock Strategy Once and For All –Now Aims at Process,
  Architecture and Optimization, 3 Year Cadence  WCCF TECH

  Read more: http://wccftech.com/intel-tick-tock-strategy-dead/#ixzz47ZmF3mXj 



※ 参考:シリーズ「この10年で起こったこと、次の10年で起こること」

  1. スマホ台頭の陰で地位を失った“日の丸半導体”
  2. アジアの聯発科技が世界の MediaTek に化けるまで
  3. デジタル化の中で浮沈を決めた“半導体設計の本質”
  4. 「ムーアの法則」を超えた進化

 【ちょっとだけ量子ドット工学講座 7】

今夜は、量子ドット太陽電池のキャリア移動の障害を防止し、変換層の厚みを逓増し、キャリアの消滅を抑制し、
格子結晶の欠陥を逓減させ、変換効率向上させる構造・構成に関するシャープと京セラの2つの最新考案ジレを紹
介・記載する。

上図太陽電池100は、半導体層11と、複数の量子ドットナノワイヤ13を含むワイヤ層12と第1の電極15
と、第2の電極16と、を備える。複数の量子ドットナノワイヤ13の各々は、半導体層11の厚さ方向に離間し
て配置された複数の量子ドット層20と、量子ドット層20を三次元的に囲むと共に、半導体層11と電気的に接
続された第1障壁層211と、第1障壁層211の外周面を覆うと共に、第2の電極と電気的に接続された第2障
壁層212と、を含む。第1障壁層211のうち、量子ドット層20を囲む部分2112のバンドギャップは、第
2障壁層212のバンドギャップよりも大きい、量子ドットを用いた光電変換素子において、優れた光吸収特性を
維持しつつ、良好なキャリア輸送特性を得る。

上図p型半導体層1と、n型半導体層5と、p型半導体層1およびn型半導体層5のうちの少なくとも一方に接し
p型半導体層1およびn型半導体層5に挟まれるように配置された、複数の量子ドット3aを有する量子ドット層
3とを備えており、p型半導体層1およびn型半導体層5のうち、量子ドット層3に接した方の少なくとも一方は、
平板状の基部1Bと、該基部1B上に設けられた複数の凸部1bとを有しており、量子ドット層3は、量子ドット
3aが凸部1b間を満たすように配置・構成し、キャリアの接合層までの伝導性を高め、これにより光電変換効率
を高めることのできる量子ドット太陽電池を提供する。
 

以上、このような緻密なナノホトニクス設計に関わる技術蓄積が進み出している。実用化は近いぞ!

  ● 今夜の一品

ダイソン株式会社は、4月27日にダイソン初となる美容家電、『Dyson Supersonic(ダイソンスーパーソニック)
ヘアードライヤー』を世界に先駆けて日本にて発表した。ダイソンの旗艦店「Dyson 表参道」にて発売を開始し、
5月11日より順次、全国の量販店など2百店舗で先行展開するという。

これまでのヘアードライヤーはヘッド部分が大きいため操作性が悪く、強い熱風で髪に過度の熱ダメージを与える
こともある。また、従来品の中には、髪がフィルターに吸い込まれて絡まる危険性なども課題として残っていたが、
ヘアードライヤーの形状は60年代から同じスタイル。高速で狙いを定めやすい風、過度の熱ダメージから髪を守
るインテリジェント・ヒートコントロール、そして、手に持ったときのバランスを考慮して設計されたデザインを
決める。

開発に当たり、ダイソンは『Dyson Supersonic ヘアードライヤー』の開発費に、総額95億円を投資し国や地域、
個人レベルにおいて多種多様。4年間に渡り様々なタイプの毛髪を用いた製品テストを実施し、毛髪の乾燥を機械
的にシミュレーション試験装置を作り、実験ではこれまで、全長1625キロメートルを超える本物の人毛を使用。
勿論、ダイソン デジタルモーター V9で駆動。DDM V9 はダイソンの最新、最小、最軽量のデジタルモーターである。
他のヘアードライヤー用モーターより最大で8倍速く回転し、重量は最大で半分にまで軽量化させている。また、
羽根のない扇風機でエアマルチプライアーテクノロジーを採用したことで、取り込む空気量が3倍で、高圧・高速
気流を生み出し、従来のヘアードライヤーは風量が少なく、効率が悪い、風量は多くすでコントロールが難しいく
なるが、吹き出される風に20°の傾斜をつけ狙った場所に風を送ることが可能となる。さらに、モーター内部に
軸流インペラーを搭載することで空気の流路を単純化し、乱気流・旋回流を抑制、インペラーのブレード数を通常
の11枚から13枚に増やしモーター内で発生する音域を1トーン上げ、人の可聴域の上限を超える高周波に設計
する。これはヘアドライヤーの概念を大きく変えることになるだろう。 

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ピスタチェリーと砂ずり藤

2016年05月02日 | 滋賀のパワースポット

 

 

          本当は戦争なんてしたくない。しかし、絶望感から、そんな発言をせざるを得ない。『逆説』ですよ。

          貧困から東北の農村で娘が売られることもあり、国民に『現状を変えねば』との思いが確かにあった。
          欧米の植民地支配からアジアを解放することも、『正義』だと私は信じていた。

                                         「『希望は戦争』絶望感が生んだ逆説」北海道新聞 2008.08.14

 

                                                                                                           

                                  Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924 - 16 Mar, 2012 
 

 

 

    贈り物

 
                           テスへ


   昨夜おそく、雪が降りだした。湿った雪ひらが

   窓の外を落ち、天窓にも

   積もった。僕らはしばらく見ていた。それは

   幸福な驚きだ。ここにいて、ほかのどこにもいないことを、喜ぼう

   僕は薪ストーブに薪をいれた。煙道を調整した。

   僕らはベッドに行った。僕はすぐに目を閉じてしまった。

   でもどうしてかはわからないけど、眠りにつく前に、

   ブエノスアイレスの空港の情景を思い出した。


   出発する夕方のことだ。
 

   そこはなんともいえず、静かで、がらんとして見えた。

   僕らの乗った飛行機のエンジンの響きをべつにすれば、

   死んだみたいに物音ひとつしなかった。飛行機は、ゲートを出て、

   小雪の中を、ゆっくりと滑走路にむかった。

   ターミナル・ビルディングの窓は真っ暗だった。

   誰のすがたも見えない。地上作業員のすがたさえ。「飛行場が

   そっくり喪に服しているみたいじゃない」と君は言った。


   僕は目を開けた。君の呼吸を聞けば、熟睡している

   ことがわかる。君のからだに腕をまわし、僕の想いは

   アルゼンチンをはなれ、いぜんパロアルトに住んでいた

   ときの家に移る。パロアルトには雪は降らない。

   でも僕には部屋があって、その窓はふたつ、ベイショア・フリーウェイを

   見おろしていた。

   ベッドのとなりに冷蔵庫があった。

   ま夜中に喉が渇いたとき、僕は

   ただ腕をのばして扉を開け、渇きを潤せばよかった。冷蔵庫の明かりが、

   冷たい水のありかを示してくれた。バスルームの

   流しのわきに、電熱器があった。

   僕が髭を剃るとき、コーヒーの粉がはいった瓶の横の、

   電熱コイルの上で、やかんのお湯がちりちりと音を立てていた。


   ある朝、僕はベッドにすわって、ちゃんと服を着て、髭もきれいに剃って、

   コーヒーを飲みながら、やろうと決めたことを後回しにしていた。でもとうとう、

   サンタクルーズのジム・ヒューストンの家の電話番号をまわした。

   そして七十五ドルを無心した。そんな金ないよと彼は言った。

   彼の奥さんは、メキシコに一週間行っている。

   ほんとうに持ちあわせがない。今月はもう

   あっぷあっぷで暮らしてる。「べつにいいんだ。わかってる」と僕は言った。

   ほんとによくわかる。そのあと少し話をしてから、

   電話を切った。いずこも同じ、か。


   僕がコーヒーをほぼ飲み終えるころ、

   飛行機が滑走路を、夕日にむけて飛び立った

   コーヒーを飲み終えていた。

   僕は座席の中でうしろを振り返って、

   ブエノスアイレスの街の明かりに、最後の一瞥をくれた。それから目を閉じ、

   長い帰りの旅の中に戻っていった。


   朝、あたり一面、雪に覆われている。僕らはそれについて語る。

   よく眠れなかったわと君は言う。僕は言う、

   僕も同じだ。ひどい夜だったわ。「僕もさ」

   僕らはお互いに対して、とびっきり穏やかで、優しく接する。

   まるで相手の参った精神状態を、そっくり感知しているみたいに。

   お互いの感じていることがわかっているみたいに。でも

   もちろんそうじゃない。そんなことありえない。でもいいんだ。

   大事なのは、思いやりなんだ。この朝、僕を動かし、

   とらえているのは、その贈り物なんだ。

   毎日の朝とおなじく。
 

                                        The gift

   Snow began falling late last night. Wet flakes              

   dropping past windows, snow covering

   the skylights. We watched for a time, surprised

   and happy. Glad to be here, and nowhere else.

   I loaded up the wood stove. Adjusted the flue.

   We went to bed, where I closed my eyes at once.

   But for some reason, before falling asleep,

   I recalled the scene at the airport

   in Buenos Aires the evening we left.

   How still and deserted the place seemed!

   Dead quiet except the sound of our engines

   as we backed away from the gate and

   taxied slowly down the runway in a light snow.

   The windows in the terminal building dark.

   No one in evidence, not even a ground crew. “It’s as if

   the whole place is mourning,” you said.

   
I opened my eyes. Your breathing said

   you were fast asleep. I covered you with an arm

   and went on from Argentina to recall a place

   I lived in once in Palo Alto. No snow in Palo Alto.

   But I had a room and two windows looking onto the Bayshore Freeway.

   They refrigerator stood next to the bed.

   When I became dehydrated in the middle of the night,

   all I had to do to slake that thirst was reach out

   and open the door. The light inside showed the way

   to a bottle of cold water. A hot plate

   sat in the bathroom close to the sink.

   When I shaved, the pan of water bubbled

   on the coil next to the jar of coffee granules. 

   I sat on the bed one morning, dressed, clean-shaven,

   drinking coffee, putting off what I’d decided to do. Finally

   dialed Jim Houston’s number in Santa Cruz.

   And asked for 75 dollars. He said he didn’t have it.

   His wife had gone to Mexico for a week.

   He simply didn’t have it. He was coming up short

   this month. “It’s okay,” I said, “I understand.”

   And I did. We talked a little

   more, then hung up. He didn’t hate it.

   I finished the coffee, more or less, just as the plane

   lifted off the runway into the sunset.

   I turned in the seat for one last look

   at the lights of Buenos Aires. Then closed my eyes

   for the long trip back.

   
This morning there’s snow everywhere. We remark on it.

   You tell me you didn’t sleep well. I say

   I didn’t either. You had a terrible night. “Me too.”

   We’re extraordinarily calm and tender with each other

   as if sensing the other’s rickety state of mind.

   As if we knew what the other was feeling. We don’t,

   of course. We never do. No matter.

   It’s the tenderness I care about. That’s the gift

   this morning that moves and holds me.

   Same as every morning.

    Port Angeles

 【我が家の焚書顛末記 Ⅴ】

このレイモンド・カーヴァー全集第5巻も今夜で終える。そうしないと時間がいくらあっても処分できない。そう
考えると詩篇のひとつひとつに愛着が残る。アルコール中毒の影響も感じさせ、ミニマリズムでありながら、行動
思考的空間スケールの大きさを感じさせる作品集である。これで残りは第4巻と第6巻となるが、本書の解題で村
上春樹は次の様に書いている。


 「カーヴァーの時は、延長していくとそのまま短篇小説になるし、また彼の短篇小説は蒸留していくとそのま
 ま時になる」と表現した評論家がいる。もちろんすべてがそんなに単純明快に割り切れるものではないだろう
 が、その言わんとするところは気持ちとしてよくわかるし、それはカーヴァーの詩について(そしてまた短篇
 小説について)かなり多くのことを語っているように思える。 
  前にもどこかに書いたエピソードをまたここで繰り返すことになるが、僕自身も昔レイモソド・カーヴァー
 に会って話をしたときに、「あなたの詩はときとして小説のように見えるし、あなたの小説はときとして詩の
 ように見えますね」と言ったことがある。それを聞いてカーヴァーはとても嬉しそうだった。わざわざ別の部
 屋にいたテスを呼びに行って、「この人はこんなことを言うんだよ」と伝えたくらいだった。だからたぶん自
 分でも そのような詩と小説の呼応性については、ある程度明確に意識をしていたのだろうと思う。

  僕は詩人に関しても詩に関してもそれほど詳しい人間ではないので、詩と小説の両方の分野でカーヴァーと
 同じような並行的な書き方をする詩人/小説家がほかにいるのかどうか正
確な知識を持だない。しかしこれほ
 ど密接に呼応する内容の作品を、詩と小説というふたつ
のジャソルにわたって書き分けた人は――そしてその
 両方が第一級の芸術作品として高い評
価を受けている人は――それほど多くはないだろうという気がする。と
 くに現代においては。

                      ―― 中略 ――

  カーヴァーが「詩と小説のどちらかひとつをどうしても選べ」という選択肢をつきつけられて、どちらを選
 んだか、僕はもちろん知らない。いずれにせよそれは、本人にとってはずいぶんむずかしい選択であったにち
 がいない。ふたつのうちのどちらかを選ぶことなんてでぎなかったかもしれない。もともとが根拠のない架空
 の質問だし、ある意味では無意味な質問だ。しかし僕の勘では(あくまで勘に過ぎないわけだが)、おそらく
 彼は最終的には詩のほうを選んだのではないかと思う。そして彼は詩という、その制限のない自由な形式を利
 用して、ふたつの方向を同時的に追求していったかもしれない。そのひとつは徹底的に研ぎ澄まされた短く結
 晶的な心象世界であり、もうひとつは物感性をより深く煮詰めた痛いほどの「詩小説」であったのではないだ
 ろうか?

  もちろんこれはあくまで無責任な推測でしかないわけだが、彼が自分の体内に癌が存在することを告知され
 てから、詩作にそそいだすさまじいまでの集中力と愛情を見ていると、僕はどうしてもそのように感じないわ
 けにはいかないのだ。もちろんカーヴァーは自分が病との戦いに勝利し、生き残ることを信じて、必死の努力
 を続けていた。それはたしかだ。テスも後日会ったとき、カーヴァーがどれほど明日を信じて生きていたかと
 いうことを感ってくれた。しかしそれと同時に、彼は自分が「いずれにせよ何かを言い残していくべき時期に
 さしかかっている」ことを、心のどこかで感じていたはずだ。そして自分の中にある〈切実な何か〉を世界に
 向かって言い残そうとするときには、彼としてはやはり詩という、よりパーソナルな、より自由な形式を選び
 とらざるをえなかったのではないかと僕は想像するのだ。


そして、彼は4つの――(1)思春期の育まれた「原罪意識」「喪失感」に嘖まれ堕落・崩壊に繋がっていくこと
になる過去の出来事の記憶をたどるようなかたちで物語った群・メモワール詩、(2)テスとの間で始まった成熟
した再春期の群・日常生活スケッチ詩、(3)「旅行もの」「釣り・狩猟もの」、(4)本歌取りというべき現実
乖離した群・象徴的詩――例えば、「筋」はW・B・イェーツの『イュスフリーの島湖』を本歌にし実に生き生き
と、今そこにある人の営を描き出し、湖で魚釣りをするW・B・イェーツと、歯のあいだにはさまった豚肉の筋を
ほじくる若い娘の取り合わせは、カーヴァーのお家芸であり、「カフカの時計」でカフカの手紙を原型とどめ、手
紙の一節をアレンジすることで見事な一篇の詩になっていると持ち上げ、「天国の門のジャグラー」はマイケル・
チミノの映画『天国の門』の酒場のシーンを映画の本筋を離れてこの名もなきジャグラフの姿に惹きつけ描き、「
灰皿」は終生敬愛したアソトソ・チェーホフの文章をもとにし、シャーウッド・アンダーソンの手紙の一節を引用
した「ハーリーの白鳥」、「音楽」「スコール」「コーカサ バス、あるロマンス」また、「鶴」「戦いの前夜」
「賞」「コーソウォールの幸福」「この家の後ろの家」(残念ながら原典不詳)なども紹介し――カテゴリーとし
てとしてまとめている。




                                                                                        この項了

 

【ピスタチェリーと砂ずり藤】

   三大神社

 

     時雨せぬ 吉田の村の 秋を冷め 刈り干す稲の はかりなきかな     大江匡房


ぐんっと気温が上昇する。けれど琵琶湖の水位はプラス。朝から草津の三体神社の砂擦り藤の鑑賞に出かけ、甘い
香りを楽しんだ。朝日デジタル新聞によると、周辺の草刈りなどを続ける藤古木保存会が樹齢は約400年。約2
メートル20センチの藤棚から、地面を擦りそうになるほど長く伸びるため「砂擦りのフジ」とよばれる藤が今年
は例年より約1週間早く4月17日ごろに開花したとのこと。



到着して驚いたことは、まず草津市志那町にという近江平野の真っ平らな農地の集落にある三体神社――創祀年代
不詳、つまりいつ頃どのような経緯で建立されたかわからないが、延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)
記載によると式内社伊冨伎神社の論社で、天智天皇の時代、風神二座(志那津彦命・志那津姫命)を祀り、応徳年
間に大宅公主命が合祀されたと伝わってきたが、明治時代に入り現社号に改め、明治9年に村社に格付けされる―
の境内にその規模はさほど大きくないが、丁寧に手入れされた藤棚として毎年多くの参観者が訪れていることであ
る(入場料金は大人2百円)。

ところで、砂擦り藤は、一般名称としての藤には、つるが右巻き(上から見て時計回り)と左巻きの二種類がある
が、右巻きの藤の和名が「フジ」または「ノダフジ」、左巻きの藤の和名が「ヤマフジ」または「ノフジ」と呼ば
前者の変種にあたり、藤の花穂が1メートル以上垂れ下がり地面の砂を擦るほどのびることから、この名前がつけ
られたとか。

藤は日本固有種で、本州・四国・九州の温帯から暖帯に分布し、低い山地、平地の林に普通。強い日当たりを好む
ため、公園や庭園などの日光を遮るもののない場所に木や竹、鉄棒などで藤棚と呼ばれるパーゴラを設置し、木陰
を作る。天蓋に藤の蔓を這わせ、開花時には隙間から花が垂れ下がるように咲く。変異性に富み園芸品種が多い。
一才藤(いっさいふじ)として鉢植えや盆栽用に流通するのは、樹高50センチメートルの一才物のフジ。
大阪市
福島区野田はノダフジ(野田藤)と呼ばれる藤の名所で、牧野富太郎による命名のきっかけとなる。
花は天ぷらな
どにすることができる。他のつる性植物同様、茎を乾燥させて椅子などの家具に加工される。藤の花や葉を図案化
した家紋「藤紋」。


 

   cafe douxce

 

午後からすこし薄曇り風も強くなる中湖岸を走り帰宅するが途中、守山市の「ラフォーレ琵琶湖」の「カフェ ド
ゥース」(「喫茶 やわらぎ」とでも訳せるか?)でピズタチェリー(ピスタチオのガレットの上にピスタチオの
ムースとチェリーのコンポート)とダージリンを頂き少し休憩する。
 上には白玉(真珠)は牛乳?の砂糖菓子と金粉
がデコレートされている。


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ヤマトの柿の葉寿司

2016年05月01日 | デジタル革命渦論

 

 

      自分で自分を評価してゼロではないという人は、やはりゼロという人と真っ正直に正面からぶち当たって
      対立してそして対立していることを公然と言ったほうがいいと思います。
 

     “偉大な人たちの存在する領域の向こうにもっと偉大な無名の領域がある”シモーヌ・ヴェイユは、偉大と
      いう意味を知っていたと思います。

                                    「国家と宗教のあいだ」 2015.05


                                                                                                               

                                     Takaaki Yoshimoto 25 Nov, 1924 - 16 Mar, 2012 
 

 ● 熊本地震速報 



● 地震予測サマリー

〇概況

・週間異常変動(H)で4cm超が見られた点は11点、その内5センチメートル超は2点。 今回の特徴は東北地方に5点、
 四国に4点と東北と四国に集中。

・X,Y,Zの週間異常変動は熊本県の千丁で(Z)の異常変動。
・隆起・沈降は、ほぼ沈降傾向。 熊本地震の影響によって大きく隆起および沈降した点がR3データで顕著(地震予測の
 九州を参照)。

〇レベル4(震度5以上の地震が発生する可能性が極めて高い)

九州/南関東地方(相模湾、駿河湾、東京湾に面する地域・伊豆諸島・小笠原諸島)/東北・関東の太平洋岸、奥羽山脈
周辺

〇レベル3(震度5以上の地震が発生する可能性が高い)

北信越地方・岐阜県/
南海・東南海地方/釧路・根室・えりも周辺

〇レベル2(震度5以上の地震が発生する可能性がある)
鳥取県・島根県周辺/南西諸島

〇レベル1(何らかの異常変動があり、今後の推移を監視する)

山形・福島・茨城のL字型エリア/北海道道南・青森県/北海道中央部

● 特集:2016年熊本地震2

先週、熊本地震に見られた地殻変動について「水平ベクトル&隆起沈降段彩図」「東西異常変動図」「北南異常変動図」
を示した。
地震による地殻変動は地震直後も大きく変動するがその後も大きく変動する。先週の特集では、前震と本震を
含む4月110~16日の週と約1か月前と比較した変動を図示、 今週は1週間後の4月17~23日の週と約1か月前
と比較した変動を図示する。



※ わたし(たち)地震予測は漠然とできると考えている。例えば、地上のリアルタイム3次元変動地図に特殊な3次元
  圧電センサ(地中温度センサ兼用)を開発し、例えば、それを地下30キロメートルに5キロ間隔に埋設配置し、リ
  アルタイムに3次元変動地図を加え画像化させながら特徴独立変数項として有向量(空間ベクトル)として追加し判
  定すれば、現在より格段に予知確度は向上する――もっとも、センサ開発や計測方法の新規考案はできないことはな
  いが、主体化する予定はない――と考えている。
 

 

 

【最新太陽電池製造講座 3:光と電子の融合】

ここで少しお復習いを。「ネオコンバーテック創業論」でおなじみの「ナノテクノロジー」の概念は、59年、ノーベル
物理学賞受賞者のファインマンが、「底(極微の世界)にはたっぷり空きがある」の発表に始まり、74年、山梨大学や
東京理科大学教授の谷口紀男により「ナノテクノロジー」という言葉が創り出されたのがそのはじまり、今世紀に入りク
リントン大統領が国家戦略に位置づけるようになる。技術的には、構造形態の1ナノメートル次元サイズで発現する機能
を利用もので、物質の種類、構造形態、サイズが相互関連し、製法影響が大きい複合技術で。原子や原子間隔が0.1ナノ
メートル次元の物質の取扱い極限サイズであり、あらゆる技術を収斂する究極の生産技術――期待効果として(1)ダウ
ンサイジング(=ダウンスペーシング)、(2)大きさの2乗に反比例する表面効果、(3)大きさの激変による物質固
有特性の変化――と位置づけることができる。

例えば、(1)の効果はすでに、半導体、ディスプレイ、ストレージ等において電子工学分野で実用化されている。(2)
(3)の効果とし
て、環境・エネルギー分野、生化学・医学分野、電子工学分野、工業材料分野――(2)の効果として、
自動車排出ガス清浄化の白金族貴金属ナノ粒子が、シリカ、アルミナ、セリア(CeO)等を主成分とする耐熱性酸化
物担持体表面に触媒活性点として分散されている。また、リチウムイオン二次電池のエネルギー密度増加に、炭素質材料、
金属酸化物、固体電解質等のよ無機材料で被覆されたシリコンナノ粒子が負極活物質として、あるいは、色素増感型太陽
電池の光電変換効率向上に、表面プラズモン共鳴効果を利用する金属ナノ粒子を、光電極の多孔質のTiO膜表面に担
持され、さらに、複合材料の半導体パッケージ材料であるエポキシ樹脂物性向上に、シリカ(SiO)ナノ粒子――で
研究開発されている。


この中で量子ドット太陽電池は、11年4月には、新規構造導入で、従来63%とされてきた理論変換効率が、75%に
まで達する。従来の単接合型半導体系太陽電池は、単一のバンドギャップしか持たず、このバンドギャップを越えること
のできない赤外以下のスペクトルが利用できない。表1のように光子の持つエネルギー量は波長により決定され、バンド
ギャップを超えることのできない光子は太陽電池に吸収されない。この対策の1として 複数のバンドギャップをもつ多
層構造の半導体を形成する方法――現時点では3層構造で40%近く変換効率――があるが、層の数が増えれば増えるだ
け製造コスト高になる。

量子ドット太陽電池は、PN接合半導体を用いて、その接合部にナノメートルサイズの微小なドットを規則正しく配置し、
接合部に発生するバンドギャップに、中間バンドと呼ばれる位置(エネルギー準位)を発生――
緻密設計で、複数の中間
バンドを意図的に配置できる――させることも可能となる。63%から75%への変換効率向上は、中間バンドを4つに
増やすことにより達成された。
中間バンドが4つあれば、価電子帯(電子の満たされ動かない状態)から各中間バンドま
での4つと、各中間バンドから伝導帯(電子が自由に伝導する状態)までの4つの新たな値のバンドギャップが発生し、
計9つのバンドギャップが得られる。この用に量子ドットは、ナノレベルの物理的な構造を通じて、電子などの量子の性
質をコントロールする技術だが、最適材料を計算から得られた通りの理想的な構造に、高精度に加工製造する必要があり、
この材料技術と加工技術の融合こそが、今後のブレイクスルーの重要ポイントになる。

融合と言えば、電子(あるいは電荷:エレクトロニクス)と光(フォトニクス)を融合した「ナノホトニクス技術」も量
ドット太陽電子や波長変換素子の共通領域にある(下図クリック)。その波長変換技術の原理は次のようになる。

   浜松ホトニクス 

伝播光は波長の周期で一定に波打つが、近接場光は微粒子化した色素の近傍に局在する光。近接場光の源であるナノ色素
が光の波長より小さくなると、波長周期よりも急激に空間変化する電場を作り出す。この影響でナノ色素内の分子は光が
持つ電場振幅を均等に感じず、分子の揺すぶりが大きな所と小さな所に分かれ、分子内に歪みが生じ、格子振動(フォノ
ン)というエネルギーを生み(振動=熱)、元の光の光子エネルギーに加えられ、光吸収されるエネルギーに到達する。
この熱エネルギーは微小な色素が閉じ込められている巨視的な場から得ているので、見かけ上、近接場光が発生している

ミクロ的な場ではエネルギーの保存則が成立しないように見えても、全体ではちゃんと成り立っている。このように波長
変換技術は物質と光反応を利用しているので、赤外光を可視光に変換すると赤外に不感なシリコン検出器でも、原理的に
赤外光検出ができるというものである。
以上、お復習いをを踏まえ、2つの最新太陽電池製造技術を掲載する。

● 積層体を等方圧加圧形成しキャリアの高移動度、長拡散長する高変換効率有機半導体の製造

基材と該基材の上に形成された結晶性材料膜を有する積層体を、厚さが0.1~40μmのシートで構成された袋体内に収
容し、袋体内のガスを排気して封止し、袋体を介して積層体を等方圧加圧することにより有
機半導体素子を製造する結晶
性材料膜の密度
が高く、高いキャリア移動度や長いキャリア拡散長の有機半導体素子の製造方法と、優れたデバイス特性が
得られる有機半導体素子である。

 
特開2016-051693 有機半導体素子の製造方法および有機半導体素子

● 不純物がなく、粒子径分布の狭い、3次元成長したナノ粒子を粒子径と堆積量を自由に物理蒸着法で金属、金属酸
  化物、セラミックスなどのナノ粒子の製造



【符号の説明】

1 物理蒸着槽 2 イオン源 3 蒸着源 4 シャッター 5 スリット 6 モーター 7 蒸着物質 8 被蒸着基板 9 不活性ガス導入系 10 真
空排気系 11 粉体 12 スクリュー 13 モーター

特開2016-047940 ナノ粒子の製造方法

  

 

● ヤマトの柿の葉寿司

 

 柿の葉すしの歴史

朝、体調がすぐれなかったものの予定通り、叔母の見舞いと墓参りに吉野へいつもとはことなるコース――名神吹田から
近畿道を高速を走り橿原市に入り明日香を経て3時間で到着する。叔母は黄斑加齢変性で最近は認知症も出てきていると
いう。過去2万人もいた人口は1/3に減少、過疎化が進行に歯止めがかからないと言う。話すこと、見ることの変化を
この短い帰郷で体験するのだから、話言葉も通常の会話も混乱し戸惑う自分がいる。それでも従兄弟の住まいの様子のあ
らかたを知ることができのだから人間ってある意味凄いなと思う。午後10時にでて午後17時に帰宅する。その間口に
したものは、お茶とリポビタンDだけで、すぐさま夕食に。「白の金麦」を飲みながらおみやげに頂いた「ヤマトの柿の
葉寿司」を頂く。「倭(やまと)は 国の真秀(まほ)ろば たたなづく 青垣(あをかき) 山籠(やまごも)れる 
倭し麗(うるは)し」(大和は国のなかでももっともよいところだ。重なりあった青い垣根の山、その中にこもっている
大和は、美しい)である。なにかひとつつかえていたものが取れたように、疲れと気が楽になる心地よさを一緒にあじわ
うことになる。「やまとは 国のまほろば やまとの美味し寿司は」と、疲れていてもすっと胃袋におさまる昔懐かしい
日本一の寿司である。いや、鮒寿司と並び立つ郷土料理である。

  橿原神宮

 

コメント
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