つぶや句

夢追いおっさんの近況および思うことを気まぐれに。

哀しみは…

2009-04-09 03:12:04 | つらつら思うこと
人は一人では生きられないなどと言われるが、実際の話
外国のどこやらで、赤ちゃんに同じようにミルクをやり、
人が付いている状態の赤ちゃんと、人を付けない赤ちゃんを
比べる実験をしたところ、人を付けなかった赤ちゃんは何日か後に
死んでしまったという恐ろしい話を聞いたことがある。

それがどんな実験なのか忘れてしまったのだが、いかに人が他の人を
必要としているかがわかろうというものである。その一方で、会社などでは
うんざりするぐらい多くの人と接して、ストレスの大半は対人関係だと
言われているのも事実だ。これをもってしても人と人は否応なく影響しあって
生きているのがわかる。

最近人によって様々な距離があることを改めて、思い知らされたことがある。
日頃仕事に追われる会社ライフでは、すれ違ってもろくに顔も見ないで
挨拶を交わしたり、誰かが休んでも気づかなかったりということも
珍しくないし、顔を見ないとかえってせいせいする人も一人や二人は
いるに違いない。

この人と人の距離を親近感という尺度で測ってみると割とわかりやすいことに
気づいた。会えばちょっと声を掛け合うホッとする癒し系、顔を見ると
挨拶もそこそこにそそくさと立ち去る緊張系、又ある人は、遠くでチラリと
顔を見てもうれしくなる、ほんわりゆるみ系、などと分類できるのかもしれない。

しかしこの距離はほんとに不思議な気がする。最初に見たとき
この人と個人的に話するようなことはないだろうなあ、と思った
人と、ひょんなことから話するようになって、一番親しみを感じるように
なったり、一番親しく話していた人に、思いっきりシカトされて一番
遠い存在になったりと、予測できない距離になったりする。

特にこのほんわり系は、殺伐たる会社ライフにおいて、顔を見るだけで
気持ちがゆるみ、ほんのひと時とはいえ、ほんわりしあわせ感を与えてくれる
言わばうるおい系ともいうべき大切な存在かもしれない。ましてやこちらが
親近感を覚えている人であればなおさらである。しかしこんなことを
強く意識しているということでもなく、普段何気なく顔を見て知らないうちに
そういう感じを賜っているというのが実情ではないだろうか。

だからそんな人がたまに平日に休んだりすると、他の部署であったとしても
当然チラリとも顔を見ないわけだから、なーんとなく寂しい空気が一日
漂ったりするのだ。それは休みと知らなくても存在する気を感じて
いないのである。この前、このなーんとなくというのを意識してみたら、
「あ…この人がいないのは間違いなくさびしいんだな…」とわかった。

そして思ったのだが、さびしいって哀しみにつながっているいるんだなあ…と
居ないと哀しいんだなあ…と、そして哀しいって嫌だなあ…と。
まあ…このような人は、わたしだけでなくもっと多くの人にほんわりした
幸せと哀しみを与えているのだろうが。

我が身内が「寒いって哀しいよう」と名言を吐いたことがある。
すると哀しみは、寒さにつながっているということになる。
やっぱり親近感を覚える人が居ないというのは寒くなることなのかも
しれない。

そうなると逆に嬉しさは温かいということになる。なるほど…つじつまは
合ってくるではないか。こうして、われわれは日頃人の温かさ、寒さに
もまれて生きているに違いない。まあ…その点、存在感の薄いわたしなど
少し休んだところで、だーれも気づかないんだろーなあ…。
これはこれで、サビシイ…

もう春も深まって三寒四温を抜け出ようとしている。暖かな日々が
一日でもほんの一瞬でも多くなって、しあわせ感をたくさん味わいたい
ものである。

コメント
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