2012/04/06
ぽかぽか春庭十二単日記>はるHAL春(4)写真を見る・堀野正雄とベアト
3月21日、写真美術館へ行きました。
ロベール・ドアノーの生誕百年展は3月24日からだったので、残念ながら見ることができませんでしたが、3階の「幻のモダニスト写真家堀野正雄の世界」と2階「フェリーチェ・ベアトの東洋(J・ポール・ゲティ美術館コレクション)」はとても充実した展示で、よいひとときをすごすことが出来ました。
http://syabi.com/contents/exhibition/index-1540.html
http://syabi.com/contents/exhibition/index-1538.html
1930年代、関東大震災後のモダン都市東京の建設ブームとモガモボが闊歩する大都会を堀野正雄(1907-1998)は「近代写真の旗手」として写し取りました。堀野が活躍したころ「新興写真」運動がドイツからアメリカへと広がり、日本の若き写真家たちも「芸術写真」の表現を追求するようになりました。堀野は、1930年に結成された「新興写真研究会」のメンバーとして、写真集『カメラ・眼×鉄・構成』1932を刊行するなど、プロ写真家として、戦前の写真芸術を牽引しました。
ガスマスクをした女学生の行進1936~1939頃)
私が見た今回の「幻のモダニスト写真家堀野正雄の世界」は、まとまった堀野の作品展としては、初めてと言える展覧会です。堀野は、戦後ミニカム研究所というストロボ制作の会社経営に打ち込み、フォトグラファーとして生きることをやめてしまいました。そのため、飯島耕太郎らによって再発見されるまで、生死すら不明だったのだそうです。
戦前の朝鮮中国を撮影したもの、築地小劇場の舞台写真、東京をグラフ・モンタージュで表現したもの、どれもすばらしい作品でした。
「半島の舞踊家」として知られた崔承喜。私は写真でしか崔のダンスを見たことがないのですが、崔の写真のなかでも堀野の「ポーズ」1931は、崔の魅力がよく伝わる一枚だと思います。
ポーズ1931
今回の堀野正雄展に「幻のモダニスト」と題されているのは、堀野が長い間埋もれていたからです。
戦前に撮影した写真を否定し、ストロボ制作会社を経営して写真界から身を引くに至るまで、どのような戦中戦後の葛藤があったのか。これから研究が深まっていくのかもしれません。
築地小劇場の一景
フェリーチェ・ベアト(Felice Beato1832-1909)は、英国国籍ですが、実はベネチアで生まれフィレンツェで亡くなったイタリア人。兄弟ふたり(アントニオとフェリーチェ)で初期の写真技術を習得し、1851年にカメラを購入して1854年にはベアトの妹と結婚したロバートソンと共同経営でトルコイスタンブールで写真館を開きました。ギリシャやマルタ島、エジプト、イスラエル、インドなど各地を撮影し、幕末明治初期にあたる時代の貴重な日本の姿を記録しています。
アントニオ・ベアトは、1864年にパリに派遣された徳川幕府の使節がエジプトを経た際に、プラミッドを背景とするサムライたちの記念写真を撮影した写真家です。
スフィンクス前でのサムライ記念写真byアントニオ・ベアト(1864年撮影。写真美術館の今回の展示作品ではありません)
フェリーチェ・ベアトはアロー戦争撮影のためにイギリスから中国へ派遣されました。国籍がイギリスであるのは、このためと思われます。ベアトは清朝最後の中国を記録し、頤和園や恭親王の写真を撮りました。恭親王・愛新覚羅奕訢(あいしんかくら えききん、アイシンギョロイヂン)は、兄である咸豊帝の死後、その妻のひとり西太后と結んで権力をふるった人です)
ベアトは幕末1861年頃来日し、先に日本に来ていたワーグマンと「絵と写真」の会社を共同経営して、写真とイラストで日本を西欧に伝えました。ワーグマンとの共同経営を解消したあとも、1877年まで日本に滞在し、上野彦馬との写真館共同経営のほか、さまざまな投機的な事業を行い、結局はほとんどの財産を失う結果となりました。しかし、ベアトの撮影した幕末明治初期20年間の日本は、貴重な歴史の証言となっています。
長弓を引く武士byフェリーチェ・ベアト(1863年撮影Jポールゲティ美術館所蔵)
1888年ごろにはビルマで写真館を経営していましたが、最晩年にはどのようにすごしたかわからないまま、フィレンツェで1909年に死去。
写真術草創期にインド、中国、日本、朝鮮、ビルマを撮影し、クリミア戦争、インド大反乱、第二次アヘン戦争、下関戦争、辛未洋擾など東洋における国際紛争を記録した戦争写真家第一号とも言えるベアト。さまざまな事業に手を出す山っ気の持ち主でもあり、晩年はどこで何をしていたのやらもわからないというボヘミアン(定住せず伝統的な暮らしや習慣にこだわらない自由奔放な生活という意味での)でもありました。
好きです、こういう人。
飯島耕太郎は、写真家フォトグラファーとは、「写真によって’生かされる者’である」と言う。(飯沢耕太郎『フォトグラファーズ』1996作品社)
すなわち、その生涯の「生」を支えるものが「写真を撮ること」「写真を撮ることによってその生を輝かせた者」ということになるでしょう。
その意味では、堀野正雄の後半生は、「ストロボ会社の経営者」にすぎず、飯島の定義する「フォトグラファー」からは抜け落ちます。しかし、没後、堀野の一生を振り返れば、「フォトグラファー堀野正雄」こそ、堀野の生を輝かせたと思うのです。
ベアトは自分自身を「写真家」とも思っていなかったのかも知れません。常に「何か新しいもの、新しい土地」をめざして、世界を渡り歩いた男。しかし、ベアトの一生もやはり、彼が撮影した数々の写真によって輝き、ベアトは真のフォトグラファーであったと思います。
冬着姿の女性(1868年頃 Jポールゲティ美術館所蔵)
モデルは、歌舞伎の女形ではないかというのが、東京都写真美術館三井圭司学芸員の説。
現存する最古の写真は1825年頃のもの。1万年前の壁画も発見されている長い歴史を持つ絵画に比べ、写真はたかだか200年の歴史しかない。けれど、ベアトの写した江戸の写真も、堀野の東京の写真も、単なる「記録」以上の「生の軌跡」を伝えずにはおかない、強い光を放っています。「光の芸術」である写真。
写真術が発明されてから200年になり、写真技術の革新は日々新しい。私のような者でも、デジカメで花やら建物やらを撮影できる。ありがたし。私の撮影技術はいつまでたってもへたっぴいのままですが、写真を見ることにかけては、毎回新たな発見があります。
150年前の王子(音無川前の扇屋)byフェリーチェ・ベアト(今回の展示作品ではありません)。
私の散歩道、150年前はこうだったのかと、感慨深い。
<つづく>
もんじゃ(文蛇)の足跡:
フェリーチェ・ベアトの写真については、著作権が消滅していますが、コレクション所蔵者である美術館には、「所蔵者の有する所有権」があります。このサイトからのコピーを商用として用いることは、お断り申し上げます。
堀野正雄の写真には著作権があります。写真掲載は「引用」の範囲内であることを確認してください。
1984年最高裁判決
著作権の消滅後は、著作権者の有していた著作物の複製権等が所有権者に復帰するのではなく、著作物は公有(パブリック・ドメイン)に帰し、何人も、著作者の人格的利益を害しない限り、自由にこれを利用しうる。
原作品の所有権者はその所有権に基づいて著作物の複製等を許諾する権利をも慣行として有するとするならば、著作権法が著作物の保護期間を定めた意義は全く没却されてしまうことになるのであって、仮にそのような慣行があるとしても法的規範として是認することはできない。
以上の判決によるならば、作品を損なうことのない範囲で、著作権の切れた作品を美術館などで撮影することを、美術館博物館側が制限するのは、法的に「おこがましい」行為ということになる。
美術館博物館での撮影許可が、もっと広まることを望んでいます!!
ぽかぽか春庭十二単日記>はるHAL春(4)写真を見る・堀野正雄とベアト
3月21日、写真美術館へ行きました。
ロベール・ドアノーの生誕百年展は3月24日からだったので、残念ながら見ることができませんでしたが、3階の「幻のモダニスト写真家堀野正雄の世界」と2階「フェリーチェ・ベアトの東洋(J・ポール・ゲティ美術館コレクション)」はとても充実した展示で、よいひとときをすごすことが出来ました。
http://syabi.com/contents/exhibition/index-1540.html
http://syabi.com/contents/exhibition/index-1538.html
1930年代、関東大震災後のモダン都市東京の建設ブームとモガモボが闊歩する大都会を堀野正雄(1907-1998)は「近代写真の旗手」として写し取りました。堀野が活躍したころ「新興写真」運動がドイツからアメリカへと広がり、日本の若き写真家たちも「芸術写真」の表現を追求するようになりました。堀野は、1930年に結成された「新興写真研究会」のメンバーとして、写真集『カメラ・眼×鉄・構成』1932を刊行するなど、プロ写真家として、戦前の写真芸術を牽引しました。
ガスマスクをした女学生の行進1936~1939頃)
私が見た今回の「幻のモダニスト写真家堀野正雄の世界」は、まとまった堀野の作品展としては、初めてと言える展覧会です。堀野は、戦後ミニカム研究所というストロボ制作の会社経営に打ち込み、フォトグラファーとして生きることをやめてしまいました。そのため、飯島耕太郎らによって再発見されるまで、生死すら不明だったのだそうです。
戦前の朝鮮中国を撮影したもの、築地小劇場の舞台写真、東京をグラフ・モンタージュで表現したもの、どれもすばらしい作品でした。
「半島の舞踊家」として知られた崔承喜。私は写真でしか崔のダンスを見たことがないのですが、崔の写真のなかでも堀野の「ポーズ」1931は、崔の魅力がよく伝わる一枚だと思います。
ポーズ1931
今回の堀野正雄展に「幻のモダニスト」と題されているのは、堀野が長い間埋もれていたからです。
戦前に撮影した写真を否定し、ストロボ制作会社を経営して写真界から身を引くに至るまで、どのような戦中戦後の葛藤があったのか。これから研究が深まっていくのかもしれません。
築地小劇場の一景
フェリーチェ・ベアト(Felice Beato1832-1909)は、英国国籍ですが、実はベネチアで生まれフィレンツェで亡くなったイタリア人。兄弟ふたり(アントニオとフェリーチェ)で初期の写真技術を習得し、1851年にカメラを購入して1854年にはベアトの妹と結婚したロバートソンと共同経営でトルコイスタンブールで写真館を開きました。ギリシャやマルタ島、エジプト、イスラエル、インドなど各地を撮影し、幕末明治初期にあたる時代の貴重な日本の姿を記録しています。
アントニオ・ベアトは、1864年にパリに派遣された徳川幕府の使節がエジプトを経た際に、プラミッドを背景とするサムライたちの記念写真を撮影した写真家です。
スフィンクス前でのサムライ記念写真byアントニオ・ベアト(1864年撮影。写真美術館の今回の展示作品ではありません)
フェリーチェ・ベアトはアロー戦争撮影のためにイギリスから中国へ派遣されました。国籍がイギリスであるのは、このためと思われます。ベアトは清朝最後の中国を記録し、頤和園や恭親王の写真を撮りました。恭親王・愛新覚羅奕訢(あいしんかくら えききん、アイシンギョロイヂン)は、兄である咸豊帝の死後、その妻のひとり西太后と結んで権力をふるった人です)
ベアトは幕末1861年頃来日し、先に日本に来ていたワーグマンと「絵と写真」の会社を共同経営して、写真とイラストで日本を西欧に伝えました。ワーグマンとの共同経営を解消したあとも、1877年まで日本に滞在し、上野彦馬との写真館共同経営のほか、さまざまな投機的な事業を行い、結局はほとんどの財産を失う結果となりました。しかし、ベアトの撮影した幕末明治初期20年間の日本は、貴重な歴史の証言となっています。
長弓を引く武士byフェリーチェ・ベアト(1863年撮影Jポールゲティ美術館所蔵)
1888年ごろにはビルマで写真館を経営していましたが、最晩年にはどのようにすごしたかわからないまま、フィレンツェで1909年に死去。
写真術草創期にインド、中国、日本、朝鮮、ビルマを撮影し、クリミア戦争、インド大反乱、第二次アヘン戦争、下関戦争、辛未洋擾など東洋における国際紛争を記録した戦争写真家第一号とも言えるベアト。さまざまな事業に手を出す山っ気の持ち主でもあり、晩年はどこで何をしていたのやらもわからないというボヘミアン(定住せず伝統的な暮らしや習慣にこだわらない自由奔放な生活という意味での)でもありました。
好きです、こういう人。
飯島耕太郎は、写真家フォトグラファーとは、「写真によって’生かされる者’である」と言う。(飯沢耕太郎『フォトグラファーズ』1996作品社)
すなわち、その生涯の「生」を支えるものが「写真を撮ること」「写真を撮ることによってその生を輝かせた者」ということになるでしょう。
その意味では、堀野正雄の後半生は、「ストロボ会社の経営者」にすぎず、飯島の定義する「フォトグラファー」からは抜け落ちます。しかし、没後、堀野の一生を振り返れば、「フォトグラファー堀野正雄」こそ、堀野の生を輝かせたと思うのです。
ベアトは自分自身を「写真家」とも思っていなかったのかも知れません。常に「何か新しいもの、新しい土地」をめざして、世界を渡り歩いた男。しかし、ベアトの一生もやはり、彼が撮影した数々の写真によって輝き、ベアトは真のフォトグラファーであったと思います。
冬着姿の女性(1868年頃 Jポールゲティ美術館所蔵)
モデルは、歌舞伎の女形ではないかというのが、東京都写真美術館三井圭司学芸員の説。
現存する最古の写真は1825年頃のもの。1万年前の壁画も発見されている長い歴史を持つ絵画に比べ、写真はたかだか200年の歴史しかない。けれど、ベアトの写した江戸の写真も、堀野の東京の写真も、単なる「記録」以上の「生の軌跡」を伝えずにはおかない、強い光を放っています。「光の芸術」である写真。
写真術が発明されてから200年になり、写真技術の革新は日々新しい。私のような者でも、デジカメで花やら建物やらを撮影できる。ありがたし。私の撮影技術はいつまでたってもへたっぴいのままですが、写真を見ることにかけては、毎回新たな発見があります。
150年前の王子(音無川前の扇屋)byフェリーチェ・ベアト(今回の展示作品ではありません)。
私の散歩道、150年前はこうだったのかと、感慨深い。
<つづく>
もんじゃ(文蛇)の足跡:
フェリーチェ・ベアトの写真については、著作権が消滅していますが、コレクション所蔵者である美術館には、「所蔵者の有する所有権」があります。このサイトからのコピーを商用として用いることは、お断り申し上げます。
堀野正雄の写真には著作権があります。写真掲載は「引用」の範囲内であることを確認してください。
1984年最高裁判決
著作権の消滅後は、著作権者の有していた著作物の複製権等が所有権者に復帰するのではなく、著作物は公有(パブリック・ドメイン)に帰し、何人も、著作者の人格的利益を害しない限り、自由にこれを利用しうる。
原作品の所有権者はその所有権に基づいて著作物の複製等を許諾する権利をも慣行として有するとするならば、著作権法が著作物の保護期間を定めた意義は全く没却されてしまうことになるのであって、仮にそのような慣行があるとしても法的規範として是認することはできない。
以上の判決によるならば、作品を損なうことのない範囲で、著作権の切れた作品を美術館などで撮影することを、美術館博物館側が制限するのは、法的に「おこがましい」行為ということになる。
美術館博物館での撮影許可が、もっと広まることを望んでいます!!